第36話 魔法陣
やけに清らかで儚げな月明かりだった。
照らされたイブがそうだったせいかもしれない。
夜衣の上に白く丈の長い上着を羽織ったイブは、日中会った時とは違い、銀色の長い髪を解いていた。
月の光が、イブの髪を銀糸のように輝かせ、整った顔には繊細な陰影をつけている。
どうやら今夜の月は、この男を聖女のように見せたいらしい。
清らかな光を纏った、美女より更に美しい男が、自分の美貌を十分に心得た上でこちらに向かって歩いてくるのだ。
善人ケビンなんかイチコロだった。
狭い廊下に、ケビンが大きく息を呑む音が響く。
でもケビン。この男に騙されてはいけないわ。この男の中身は外見のように無垢じゃない。
そう警告しようにも、善人ケビンはもうイブしか見ていなかった。
イブが私達の前で立ち止まり、美しく微笑み、「こんな時間に、どうされたのですか?」と静かな声で尋ねれば、ケビンは、びくんと飛び上がり、オロオロと両手を動かしながら言い訳のような説明を始めた。
「き、き、君はイブ?だったかな。今日来たばかりの?あの、俺たちが、いや、奥様がこちらに来られたのは、ね、猫が騒いで、えーっと、虫を追いかけてたのかな、猫が、屋敷中を、あ、奥様の猫なんだ」
いいえ。あの猫は私の猫ではないわ。
「そうでしたか。それは大変でしたね。お探しでしたら、私にもお手伝いをさせてください。確か、奥様の猫はパイ、という名前でしたね。」
もう猫の名前まで調べてあるのね。でも、パイは私の猫ではないわよ。
「いや、パイはそこに・・・あれ?いない。何処に行ったんだ?」
ケビンは辺りを見回した。
猫のパイは、イブを見た途端、さっさと逃げ出している。
あの猫は、所詮ローズ派の二番だし、性格は悪いし、私の事を見下しているけれど、判断は素早いのだ。
チルちゃん達も、イブは信用出来ないようで、慎重に私の後ろに集まっている。
指先の玉ちゃんも、警戒するようにゆっくりと瞬いているのだ。
分かってる分かってる。光の戦士達に私を守る気がない事は分かっている。
みんな、怪しいものから私を守るよりも、私に守られたい派なのだ。
分かってるわよ。と、私は一歩前に出た。
私の背中を頼もしく見守るがいいわ、光の戦士達。
背中にチルちゃん達の熱い視線をひしひしと感じる私に、イブは清らかな笑みを向けてきた。
「奥様。奥様はお部屋にお戻りください。私が奥様のパイを探します」
あの猫は私のパイではないったら!
「いいえ。もういいわ。あの猫も私に怒って気が済んだのでしょう。私は部屋に帰ります。でも、イブには明日、手伝って欲しい事があるの。お願いできるかしら」
「はい。どのような事でも、お申し付けください」
イブが聖女のような微笑みを浮かべるものだから、ケビンの口から「ほう・・・」と感嘆の息が漏れた。
善人ケビンは一瞬でイブに落ちた。
来てからまだ半日も経ってないけれど、イブはこの屋敷の中に、どれだけ味方を増やしたのかしら。
⭐︎
翌朝、食堂でパンケーキと、トーストと、サンドイッチと、ハムと、ベーコンと、ソーセージと、目玉焼きと、マッシュルームと、蒸したじゃがいもと、揚げたじゃがいもと、チーズと、サラダと、果物と、ドーナッツと、冷たいパイと、あと、もう少しドーナッツと、ドーナッツと、やっぱりもうちょっとドーナッツを食べ終え、紅茶を飲んでいると、入口近くにいた侍女たちの微かな騒めきと共に、昨日と同じ古風な執事服を着たイブがやって来た。
今朝もまた美しい。
「あら。イブ。来てくれたの?」
「はい。手伝って欲しいと、おっしゃっていましたが、何をすれば良いのでしょう」
「簡単な事よ。図書室で調べ物を手伝って欲しいの。少し専門的な事なんだけど、あなたなら詳しそうだと思って」
「専門的な事、ですか?」
「ええ、少し待っていてちょうだい」
私が紅茶を飲み終わるまで、イブは大人しく後ろで待っていた。
食堂にいた使用人達は、さりげなくイブを見ようと必死になっていた。
男も女も頬が緩んでいる。
やるわね、イブ。屋敷に来てから一日も経たないうちに、屋敷中の人間を落としたらしい。
私は紅茶のカップを置くと、
「では行きましょうか」と声をかけた。
⭐︎
胡散臭いイブ、一人。
イブに緊張している侍女のローズ、一人。
イブに警戒するチルちゃん達、十人。
一日ぶりに会ったけれど頼れる護衛ぶりを私よりもローズに見せつけようとして無口になっている護衛のルイス、一人。
そんな十三人を連れて図書室に向かった。いっぱいだ。
静かな図書室に大勢で入ると、途端に賑やかな雰囲気になった。
いくつか置かれた読書用の机と椅子の中で、私はこれまで、窓際に置かれた机を愛用していたのだけれど、イブはそんな事まですでに把握しているらしく、私をそこへと導くと、美しく微笑みながら問いかけてきた。
「何をお探しなのかおっしゃってください。お持ちいたします」
「魔法陣に関する本をお願いするわ」
そう。昨夜、猫のパイに文句を言われまくった、あの屈辱の丸い模様に、何か見覚えがあると思っていたのだ。
今朝になって気づいたのだけれど、以前、旦那様に見せてもらった、国王陛下からの手紙が送られてくる銀色の筒状の魔道具に描かれた模様の一つと似ていたのだ。
あの魔道具の模様が、魔法陣かどうかは分からない。正直、模様もはっきりとは覚えていない。
昨夜現れた丸い模様も、よく分からない。
でも、何か似ている気がしたので、調べてみようと思ったのだ。
イブは美しい微笑みを口元に張り付かせたまま、少し私を凝視した。そして残念そうに言ったのだ。
「ああ、奥様。私は奥様のお役に立ちたいのですが、魔法陣についてなど、無知も同然です。どうして、私が詳しいと思われたのですか?」
怪しいイブが来た途端、怪しい模様が描かれていたのだ。
疑わない方がおかしいはずだ。
でも、私は「あら、そうだったのね」と首を傾げ「でも、ここにいる二人よりは詳しいでしょう?」と、言った。
魔法陣って何の事ですか?奥様また何をやらかすつもりですか?と私を見る侍女のローズと、俺護衛かっこいい護衛と無表情を貫く護衛のルイスを見たイブは、ゆっくり頷いた。
「・・・そう、ですね。では、奥様。どのような、魔法陣をお探しですか?」
「分からないわ。でも沢山の魔法陣を見てみたいの」
「・・・奥様は、魔法陣が描けるのです?」
「描けないわ」
「魔法陣について学んだ事はありますか?」
「ないわ」
「魔力は?」
「子供の頃受けた魔力測定では、魔力がないと言われたわ」
「・・・魔力がないと、魔法陣は描けませんよ」
「知らなかったわ。ふふふ。やはりイブは詳しいのね」
イブはまた少し私を凝視した後、
「・・・私も少し聞き齧った事があるだけです。詳しくはありません。しかし、初心者向けの本を、探してみましょう。お待ちください」と言った。
さあ、イブは、どんな本を持ってくるのかしら。
少しワクワクして待っていると、分厚い一冊を持って戻ってきた。
「これなど如何でしょう」
ふんふん。本の名前は、『みんなの魔法陣図鑑 初心者向け 子供にも分かる説明付き』なるほど。
「ちょうどいいわ」
すでに机に登って待機していたチルちゃん達も、チルチルと頷いている。そして早くこれを開けと指差している。
「では見てみましょう」
私は本を開いたのだ。




