第6話 希望。素敵な言葉。
午後になると、クロディーヌがまた、私の部屋を訪れた。
「舞踏会までの学習計画です」と厳かに差し出された数枚の紙を見て、思わず「うっ」と声が出た。
クロディーヌの指揮下に入る事を決めたから大人しく受け取ったけれど、びっしりと書かれた文字のせいで、一瞬気が遠くなりかけた。
「舞踏会までの二ヶ月でこれを全部やれと?」
「やるのです」嵐のクロディーヌは短く答えた。
「やれるの?これを?私が?」マジで?と最後に言いそうになって、何とか堪えた。私の斜め後ろには侍女のローズが控えていたのだ。マジなんて聞かれるとマズいのだ。マジで。
堪える私に、嵐のクロディーヌは、「やるのです!」と熱く言った。
「奥様、戦と同じなのです。付け入れられる隙が多い者には、多くの敵が群がります。失礼ながら奥様には逃亡中のご家族の事など、付け入られる隙が多いのです。当然、群がる敵も多いことでしょう。しかし知識は奥様を守る盾になります。そして敵を滅ぼす槍にもなるのです。知識という盾と槍を得た奥様は、敵が簡単に近寄れぬ固い砦となるでしょう」
固い砦となる。
なんだか素敵な言葉だ。石を積み上げた無骨な砦が思い浮かんだ。そんな砦を見たことはないけれど、物語では読んだ事がある。
知識を得れば、そんな砦に私はなれるのだろうか。かっこいい!
私が目を輝かせていると、クロディーヌは更に熱く付け加えた。
「奥様が固い砦となる事は、公爵様を守る事にもなるのです!」
旦那様も守れるなんて、いい。そんな砦に私はなりたい。いいえ、私はそんな砦になってみせる!私、頑張る!
そう思ってから気がついた。
なるほど。
嵐のクロディーヌが、どうやって一日で公爵家の使用人達をまとめ上げたのだろうと思っていたのだけれど、嵐の威圧感だけではなく、こんなふうに心浮き立つ言葉で扇動もしていたのだ。
そういえば、今朝のローズ達からも、緊張は感じられたけれど、怯えは感じられなかった。嬉々として、背筋をピンと伸ばしていた。
きっとみんなクロディーヌに扇動されたのだ。
視界の隅にいたチルちゃんまで嬉しそうに、きらりと光の槍を出していた。
槍を例えに出されて嬉しかったのだろうか。
チルちゃんまでやる気にさせたクロディーヌ。やはり凄い。
その上、求婚の言葉が「幸せにしてあげる」なのだ!
「では奥様。早速始めましょう。すでに教師を何人か呼び寄せております。どうぞ、こちらへ」
クロディーヌに誘われ、私は背筋をピンと伸ばして部屋を出たのだ。
☆
そして、私の砦作りが始まった。
まずは、ダンス。
ダンス教師は、取り澄ました顔をした手足の長い初老の男性だった。
「本日は公爵閣下が参加しないとの事ですので、まずは奥様のダンスを見せていただきましょう」
「そうなの?旦那様は来ないの?」
私は、ローズを振り返った。
「はい。本日、公爵様はこちらに来る時間が取れないと伺っております」
「そう」
一緒にダンスの練習をしようと言ってたのに、どうしたのだろう。急に忙しくなるなんて、何かあったのだろうか。
しかし考える暇もなく、ダンス教師が「では、一曲踊ってみましょう」と私を促した。
部屋の隅に置かれたピアノを、大人しげな若い女性がポロンと弾き始めた。
私と一度踊った後、ダンス教師は「ふむ」としばらく黙り込んだ。
「舞踏会まで二ヶ月ですか?」と聞かれ、「二ヶ月です」と答えると、「ふむ」とまた黙り込んだ。
「二ヶ月で王宮の舞踏会は無理でしょうか?」と尋ねると、
「そのような事はございません。どんな時でも、希望は常にあるのです」と取り澄ました顔で答えられた。
希望に縋らなければいけないようなダンスだったのだろうか?
ピアノを弾いていた女性に、問いかけるような視線を向けると、静かに目を逸らされた。
次はマナー。
教師は、灰色のドレスを着て、ほとんど瞬きをしない中年の女性だった。
彼女は、私を立たせ、歩かせ、座らせ、お茶を飲ませ、微笑ませた。
「悪くはありませんが、足りません」と、瞬きもせず言い渡された。
「二ヶ月後に王宮に行っても大丈夫でしょうか?」
尋ねると、瞬きもせず「希望はあります」と言われた。
希望。素敵な言葉だ。
次は貴族名鑑。
図書室で座って待っていると、クロディーヌが分厚い貴族名鑑を持ってきた。
「覚えてください」
「これを全部?」
「はい」
とりあえず開いてみたが、びっしりと書き込まれた文字に目が滑っていく。
でも、大丈夫。きっとここにも希望はあるのだ。この授業では誰も言ってくれないから、私が私に言っておいた。
希望。素敵な言葉だ。
希望を探して貴族名鑑を眺めていると、各家の紋章が目についた。
我がハスラー公爵家の紋章は、一本の無骨な剣と一輪の花の組み合わせだった。きっとハスラー家は昔から強く、美形の多い家系だったに違いない。剣と花だし。
もう一つある公爵家は、優美な二本の剣と、牙を剥き出し吠える狼の顔の組み合わせだった。ハスラー公爵家に対抗して剣の数を多くしたのだろうか。
蛇の絡まった盾の紋章もあった。炎の中で翼を伸ばす鳥の紋章もあった。円の中にびっしりと古語が書かれているものもあった。
ふんふん。紋章は面白い。
貴族名鑑を眺めていると、次の授業の時間になり、教師が図書室にやってきた。
流行の授業で、教師はジョルジュ・モロー子爵と名乗る男だった。
年齢はよく分からない。若くも見えたし、年寄りにも見えた。
ぽっちゃりとした人好きのする顔をして、鮮やかな色の衣装を身につけていた。
髪には派手な色をした鳥の羽を飾り、顔には薄っすらと化粧をしていた。
モロー子爵は、優しげな女性のような話し方で、絶え間なく話し続けた。
「お会いできて嬉しいわ。まあ!なんてお美しい方なのかしら。それにとてもお若いのね。公爵閣下と奥様とのロマンスを是非お聞きしたいわ。でも、余計なお喋りをするなとキツく言われているの。ほら、雷のカトリーヌに。ええ、私はあの女に呼ばれたの。生意気よね、あの女。昔、私のところでも働いてもらっていたのよ。その時もね、私の方が主人なのに、いつの間にか自分の方が主人だって顔をしているの。ほんと生意気よね。でも、こうやってお小遣い稼ぎをさせてくれるから、許してあげてるの。ふふふ。ねえ、奥様、エルサ様とお呼びしても良いかしら」
「いいわ。では私もジョルジュとお呼びしても?」
「もちろんだわ。嬉しいわ。うふふ。では授業を始めましょうね。あら、いいわね。その貴族名鑑を見ながら進めましょう。まずは、そうね。私の髪に飾ったこの羽根。これは今、流行り始めているのだけれど、これを最初に始めたのは、ちょっと待っててね、そう、このページ。ここに書かれている、モンザン侯爵夫人なの。そうよ。紋章は炎と鳥。この鳥には歴史的な伝説があって」と、怒涛のように始めたのだ。
流行と貴族名を絡め、更に貴族間の情勢、各領地の特産物、地理、歴史なども絡め、止めどなく喋り続けた。
派手な鳥の羽根で飾った彼の頭の中には、整然と並んだ無数の引き出しがあり、大量の情報が、あるべき引き出しへと緻密に収められているようだった。
ジョルジュが話していると、その架空の引き出しが、次々に開き、次々に閉じられていくのが見えるような気がしたのだ。
「それでね。この抜け目のないモンザン侯爵家が、この羽根を流行させようとしているのには、いくつかの狙いがあると思うのだけれど、一つにはモンザン侯爵家の領地問題があると思うのよ。そうね。ここは図書室でしょ?王国の地図はあるかしら?ああ、あそこにあるわね。私が持ってくるわ。さあ、それじゃあ地図を見てちょうだい。ここよ。三つの領地が隣り合うこの地点」
絶え間なく喋り続けるジョルジュの授業が終わる頃には、私が今まで知らなかった貴族名や貴族情勢、王国の地理や歴史が、私の頭の中に整然と収まっているのに気がついた。
貴族が知っておくべき知識は、領地にいた頃にサマンサ先生に一通りは教わっていた。マリーの家の近所に住んでいた物知りな商人のおじいちゃんにも、いくらか知識を教わっていた。
でも、ジョルジュの知識は量も性質も違っていた。
ジョルジュは知識を紙の上に書かれたそっけない文字として捉えてはいなかった。
情勢も歴史も地理も、全て一緒のものとして捉え、全ては人が歩けば当然起こる興味深い物語として語り上げていた。
「すごいわね、ジョルジュ。あなたの話を聞いていると、全てがすんなり頭に入ってくるわ。王宮へ行く二ヶ月後までに、必要な知識を覚えられる希望が出てきたわ」
ジョルジュは指輪をいくつもつけたムッチリとした手で、嬉しそうに口元を抑え、うふふと笑った。
「希望なんて、つまらないものに頼る必要はないわ。大丈夫よ。その辺の生意気な貴族の小娘なんかには舐められないくらいにしてあげる。私ね、情報が大好きなの。だから、ついつい情報を集めちゃうのよ。うふふ。エルサ様には全部教えてあげるわ。だから私を信じてついてきてくれるわね」
「もちろん信じるわ」と、にこやかに返事はしたけれど、私はジョルジュの事を全く信じていなかった。
だって、私の前で長い時間座って喋っていたのに、チルちゃんたちはジョルジュの膝に座らないし、近寄ろうともしていないのだ。
チルちゃん達が信用していないのなら、ジョルジュは信用できない人なのだ。
では、信用できない人は、ここで何をするつもりなのだろう。
ジョルジュがここでやっているのは、私に情報を渡す事。それならその情報にはいくらか嘘が含まれているのかもしれない。きっと誰かに都合の良い嘘だ。
誰かに依頼されているのか、それともジョルジュの楽しみとしての嘘なのか。
どちらにしても私は、嘘があるのかどうか、見抜かなくてはいけないのだ。
その為には、ジョルジュ以外からも知識を得なくては。
ふふふ。面白くなってきたわね。
学習意欲が湧いてくる。
これを狙って、雷のカトリーヌはジョルジュをここへ寄越したのかしら。
雷のカトリーヌの真意も探らなくては。
私は荒れた場が好きなのかもしれない。
何かが起こりそうで楽しい。そこを切り抜けていくのも楽しい。
ふふふ。ふふふ。と笑っていると、ジョルジュも嬉しそうに、ふふふと笑った。
チルちゃん達も暇そうに部屋のそこかしこでゴロゴロしていたけれど、私たちの笑い声を聞いて「チルチル?」「チルチル?」と騒ぎ出したのだ。
「ではまた明日」とジョルジュが立ち去った後、私は貴族名鑑をまた開き、ジョルジュの嘘を探し始めた。
でも、すぐにエルビスが慌てた様子で現れ、言ったのだ。
「公爵様が奥様をお呼びしております。すぐ来て欲しいと」
チルちゃん達が立ち上がった。
何かが、もう、始まっていたのだ。




