街に住む画家 2
「お手なみを拝見?」
彼女は首を傾げたが、魔王は何も答えず彼女を眺めただけだった。
結局、彼女は首を傾げたまま俺の方へ向き直った。
「いいわ。まずは、あなたよ。オリヴィエさん、ドーナッツはお好き?チョコレートのパイはどうかしら。まだお食事をしてないのでしょ?サンドイッチもあるわ」
「いや、俺は」
「沢山あるのよ。遠慮しないで。好きなものを選んでちょうだい」
エルビスが無表情に俺の前に皿を置き、俺の耳元に囁いた。
「選べ」
なんなんだ!
怯える俺に、彼女はテーブルの上にあるものを次々に勧めながら、白いナプキンに包むようにしてドーナッツを取り上げ、「旦那様も、どうぞ」と皿の上に乗せ、後ろの魔王に差し出した。
「アレクシスだ」
魔王は優しく言った。
なんなんだ。
「アレクシスも、どうぞ」
嬉しそうに言う彼女。
なんなんだ。
「私は紅茶だけで十分だ。おまえが食べるといい」
魔王は優しく言うと、紅茶を飲んだ。
なんなんだ。この貴族達は。俺の家に、何を見せにきたんだ。
魔王に断られた彼女は、少しがっかりした顔をして、辺りを見回すと、あの軽薄な顔の男に目を止めた。
「それじゃあ、ルイス」
「なんで俺っ、いいえ!俺もいりません!」
ルイスと呼ばれた男は、彼女から目を逸らし、正面の壁を見つめながら叫ぶように言った。
「食べて」
「護衛中です!そのようなものを食べていては護衛が出来なくなります!」
彼女はがっかりとした顔をしたが、エルビスと呼ばれた男が、当然だと言った顔で頷いた。それをルイスが横目で素早く見ていた。
なんなんだ、おまえ達は。俺の家で何をやってるんだ。
戸惑い怯える俺に、彼女が目を向けた。
「では、オリヴィエさん。どうぞ」
にこやかに差し出された皿は、エルビスが受け取り、テーブルの上を通り、俺の前にあった皿と取り替えられた。
「いや、俺も」と断ろうとしたが、無表情なエルビスの顔から、おまえは受け取れ、という圧を感じた。
なんなんだよ・・。
「あ、ありがとうございます」
エルビスが発する、今すぐ食べろ、という圧を感じながらドーナッツを食べた。
「・・・旨い」
空きっ腹のせいもあったのだろうが、驚くほどに旨かった。
露天で売られているドーナッツのような、古い油のギトギトとした胸が悪くなりそうなあの感じがない。噛むとなんとも言えない弾力があり、やがてホロリと崩れていく。生地の美味さと質の良い砂糖や油の味がする。
あっという間に食べ終わった。
「美味しいでしょ。うちの料理長が作ったのよ。もう一つどうぞ」
彼女が嬉しそうに言うと、エルビスが無言で俺の皿を取り上げ、彼女にうやうやしく差し出した。
ドーナッツを皿に乗せる時、彼女は残ったドーナッツの数を、ふんふんふんふん、と目で数えている気がした。
エルビスが、俺にドーナッツの皿を手渡しながら耳元に顔を寄せ、言った。
「これで最後だ。わきまえろ」
抑えた低い声で、脅すように言われた。
俺は訳が分からず、俯き、自分のドーナッツの皿を見つめた。
なんなんだ。どういう意味だ?
ドーナッツがこれで最後って事か?わきまえろ?調子に乗るなって事か?これ以上ドーナッツを食べるなって事なのか?
テーブルの上には、まだ大量のドーナッツの乗った皿があるし、彼女はまだ「もっと食べて」と勧めているのになんでなんだ?分からない。
「ふふふ。美味しいわよね。このドーナッツ」
彼女が嬉しそうに俺に話しかけていたが、俺は理由が分からない脅しをされた恐怖と焦りから、俯いたまま、もそもそと半分ほどドーナッツを食べた。
そして顔を上げると、テーブルの上に積み上げられていた大量のドーナッツが消えていた。
え?
と、俺は彼女を見た。
彼女は嬉しそうに、最後の一つらしいドーナッツを齧り始めたところだった。
俺は周りを見渡した。
他には誰もドーナッツを食べていなかった。
俺は再び彼女を見た。
彼女は優雅に、ドーナッツの最後のひとかけらを口の中に収めたところだった。
え!?もうドーナッツを一つ食べたのか!?
俺は驚愕した。
あの一瞬で?まさか!でも。・・・・もしかしてテーブルの上にあった大量のドーナッツも彼女が一人で食べたのか?
答えを求めて、隣に立つエルビスを見上げたが、確かに目が合ったはずなのに、素早く目を逸らされた。
ルイスを見ると、驚くほどの速度で目を逸らされた。
ミシェルも眼鏡ごとスッと目を逸らした。
俺を見張っていたはずの他の護衛達も皆、次々に視線を逸らしていった。
唖然として魔王を見ると、魔王は興味深げに彼女と俺を見比べていた。
そうしている間にテーブルの上のチョコレートパイが消えていた。
「オリヴィエさんのお食事用に持ってきたのだけれど、オリヴィエさんが食べないのなら、私がいただこうかしら」と、彼女が言い終える前にサンドイッチも消えていた。
クッキーは瞬きしている間に消えていた。果物はいつ消えたのかも分からない。
俺の目の前で何が起こったんだ?
彼女が全てを優雅に食べる姿を見た気もする。けれど、全て幻だ。あれだけの量を、あの速さで食べ切れるわけがないじゃないか。だから、俺が見たものは、きっと幻だ。何かの間違いに違いない。でも全て消えている。何故だ?
混乱する俺の前で、彼女は紅茶に角砂糖を五つ落とした。そして実に美しく飲み終えた。
彼女が紅茶のカップを置き、エルビスに目をやると、静かに素早くテーブルの上が片付けられていった。
テーブルの上に乗っているのは、俺が半分だけ食べたドーナッツの皿と、俺がまだ全く手をつけていない紅茶のカップ。それだけだった。
全ては幻だったのだろうか。
俺はたぶん、魂が抜けたような顔をしていたと思う。
それに確かにその時、魂なのか何なのかは分からないが、自分から何かが抜け出てしまったような気がしていた。
それで俺は妙に心許ない気落ちになってしまい、ゆったりと微笑む彼女をすがるように見つめていたのだ。
彼女はそんな俺を満足げに見た後、辺りを見渡し言った。
「これでもう大丈夫ね。すごく綺麗になったわ。さすが我がチルちゃん軍。そしてローズ、それにみんなも。ありがとう」
何を言っているのか分からなかった。
初めて会った瞬間から、彼女は訳が分からなかった。
彼女が俺を真っ直ぐした目で見て、「オリヴィエさん、準備が整ったわ。今から交渉を始めてもいいかしら?」と言った時、俺は腑抜けた声で「はい」と答えていた。
☆
「先ほども言ったけれど、あなたに絵を描いて欲しいの。海の絵よ」
やっぱりそうか。いや、聞く前から分かっていた。貴族が俺に求めるのはいつだって海の絵だった。
「・・・悪いけど、俺はもう絵を描くのをやめたんだ」
俺はぼんやり返事をした。
「どうして?」
「飽きた」
「飽きた?」
彼女が首を傾げた。
「ああ。飽きた。もう飽きた。どうしようもなく飽きた。うんざりするほど飽きた。毎日毎日、馬鹿みたいに海を見て、馬鹿みたいに海の絵ばっかり描いて、もう飽きた。急に飽きた。突然飽きた。きっぱり飽きた。もう海なんか見たくないし、海の絵なんか描きたくないし、どんな絵だって描きたくないんだ!だからほっといてくれ!」
最後には段々腹が立ってきて、彼女に向かって怒鳴りつけると、俺の左肩にデカく分厚い手が乗った。左肩が沈んだ。
見上げると、エルビスが俺を憤怒の表情で見下ろしていた。エルビスの後ろには、銀色の眼鏡の奥から俺を静かに見つめるミシェルが見えた。ルイスは腰に下げた剣に手をかけていた。慌てて彼女の後ろを見ると、魔王からドス黒いものが湧き上がっているような気がした。
「すいませんでした」と震えながら謝った。




