第36話 私の心を満たすもの
大好きなマリー。
まだ赤ん坊だった私と自分の子を連れ、手を入れてはいけないと言われた光の泉に手を入れ、ぐるぐると掻き回してみたマリー。
私の手を、光の泉に入れ、ぐるぐるさせた迂闊なマリー。
その時、泉の中で私の手にしがみついていた光の玉が、私の魔力を吸い続け、何年も経った後、花が咲くように玉が開き、中から可愛いチルちゃんが現れたとさ。めでたし。めでたし。
☆
そして今、闇の泉を覗き込んでいた私の頭の中に、何度もマリーが楽しげに話してくれた、あの時の言葉が、啓示のように浮かんでいた。
「あなたもぐるぐるしてみたいの?じゃあやってみましょうか。はい、ぐるぐるぐるー」
・・・やってみる?と、私は自分に問いかける。
どうすれば前に進めるのか分からないこの状況。やれる事はやってみる?無駄かもしれないけれど、やってみる?とんでもない事になるかもしれないけれど、やってみる?闇が生まれる泉に手を入れるのは、正直ためらってしまうけれど。旦那様の呪いを終わらせる為に、やってみる?
やってみるわ。
口の中の飴を噛み砕き、魔力を満たすと、私は泉の前に膝をついた。
チルちゃんがタタタと走って隣に立った。チル友ちゃん達も泉を囲む。
皆、キリリと私を見つめている。
可愛い。とても可愛い。
私はまた泉に目を落とす。
マリーなら、きっと、ためらいなく、この泉に手を入れる。これから何が湧き起こるのか、ワクワクした瞳をして、ぐるぐる回す。そして私はそんな迂闊なマリーに育てられた娘なのだ。だから私にも出来る。
手を泉の方へと差し出していく。
「奥様!」後ろから、焦ったエルビスの声がする。
「そこから動いては駄目よ!」
振り向かず、叫び返す。
急がなくては。旦那様が来る前に。
水面に指が触れようとした瞬間、隣にいたチルちゃんが、金色に光る槍を私の手の隣に添え、私を見上げた。
大きく開いた目。ふっくらとしたほっぺ。ぐっと閉じた柔らかな唇。全てが可愛い。
「一緒にぐるぐるする?」
尋ねると、緊張した面持ちで、大きく頷いた。
「じゃあ、いくわよ」
私とチルちゃんは泉を見つめると、一気に槍と手を突っ込んだ。
「奥様!」
エルビスがまた叫ぶ。
水が驚くほど冷たい。
でも、そんな事はどうでもいいのだ。
私とチルちゃんは息を合わせて泉を回す。
「ぐるぐるぐるーぐるぐるぐるー」
月に照らされた泉の中で、透明だった何かが揺らぐ。不意に何かが姿を現す。
これは何?
鈍く、銀色に光る、一輪の花に見えた。
それが私とチルちゃんが起こした渦に巻かれ、ゆっくりと浮かび上がってきたのだ。
私は、腕を伸ばして、それを取った。
冷たい。
まるで氷の花のようだ。
水面に持ち上げると、花弁から濃い闇の粒が、朝露のように零れ落ちた。
とうとう捕まえた。
たぶんこれが、公爵家に蔓延る闇の出所で、これが旦那様の呪いの始まりだ。
私は銀の花をよく見ようと顔に近づけたが、影になってよく見えない。
月は、私の後ろへと少し傾いていた。
それで泉に背を向け、月に向かうと、銀の花を翳したのだ。
「奥様。それは何ですか?」
ピクニック会場にいるエルビスが、震える声で尋ねてくる。
「泉の中にあったのか?」
ルイスの声も、掠れている。
「そう。泉の中にあったの。呪いはここから生まれているわ。でも、これが何なのかよく分からない」
これは、何の花なのかしら。先の尖った花弁が五枚。派手さはない。どちらかというと、野に咲く花のように、可愛らしい。細い茎が伸びている。小さな葉が二枚ついている。
エルビスの声がする。
「銀細工、でしょうか。昔、貴族の間で、好きな女性に、その女性の好きな花を銀細工で作らせ贈る事が流行ったそうです。今では芝居の中でしか見ることがありませんが、枯れない花は変わらぬ愛を表していると聞いた事があります。求婚の時などに贈ったそうです」
「求婚の時に・・」
でも、何故、この銀の花が、泉の中にあり、呪いを生み続けているのだろうか。分からない。この銀細工の持ち主が、公爵家を呪って死んだのだろうか。それは銀細工を贈る男?それとも贈られた女?
それに、この呪いは、どうすれば終わらせられるの?
針を刺した指先から血が盛り上がるように、呪いが銀細工の花から盛り上がり生まれ、零れ落ちていく。
「壊せばいいのかしら」
「わ、私には分かりません」
「俺も分かんねーよ」
誰も、何も分からない。
それなら壊してみようと決めたのだ。
呪いは今日、終わらせる。
左手で銀細工の茎を持ち、右手で繊細な作りの花を手の平で包み込むと、私は一気に両手に力を込め・・・・込めようとしたのだ。
でも、誰かが、誰もいないはずの後ろから、私の肩に手を置いた。
「だめよ」
女の声が、耳元で囁いた。
「それを壊しては、だめ」
少し笑いを含んだ、揶揄うような声だった。
肩から、冷たくて鋭いものが私の中に入り込んでくる。
「だめよ」
念を押すように、女は言いうと、私の肩をキュッと握った。
「お、奥様」
どこか悲鳴のようなエルビスの声が遠くで聞こえる。
「誰も動いてはだめよ」
女は楽しげに命令した。
ふと、見れば、エルビスとルイスが立ち上がりかけたまま、固まっている。
二人の顔にあるのは、驚愕?恐怖?
銀細工を持つ私の手が震え出した。体も微かに震えている。女の触る肩から体が冷たくなっていく。
これは恐怖?
私の後ろにいる何かは、私の肩に冷たく鋭い何かを更に食い込ませていく。私の中に、私以外の何かが入ろうとしている。
「外に出たのは久しぶり。ねえ。おまえはとても邪魔だったわ。でも、これで終わりよ。分かるわね。おまえは、もう、私のもの」
私の左の手首につけていた、ロザリーにもらった魅了避けのお守りが、濁った青から赤く染まっていくのが見えた。今、『魅了』が使われている。とても強力な『魅了』だった。お守りは、まるで滴り落ちたばかりの血のような赤へと染まり、耐えきれず、砕け散った。
ぼんやりとしていく頭の中で、きっと、旦那様のお父様とお母様も、同じ事をされたのだと理解した。
「そうよ」
口にしていない私の考えに、女は楽しげに同意する。
先ほどより、女の息遣いが近くに感じた。女の髪が、私の耳や頬をくすぐった。おかしな事に、それがとても心地良く感じてくる。
「あの二人も私のものにしたのよ。もちろん、おまえも私のものよ。あの男の血を継ぐものは、もっともっと苦しめてあげなくちゃ。ね。おまえもそう思うでしょ?さあ。力を抜いて。そうしたら、もう、怖くないわ」
腕の力が抜けていく。銀細工を持つ手が下がっていく。
身体に恐怖が満ちていく。少しずつ、私の体が支配されていく。
でも私はまだ考え続けていた。この女から抜け出す方法は?体はもうほとんど動かない。でも目はまだ動く。何が見える?
その時。
チルちゃんが私の視界に飛び込んできた。
ほんのり潤んだ大きな目で私をまっすぐ見つめている。ほっぺは桃色よりも赤く、ふっくらとした曲線を作っている。柔らかそうな唇が大きく開き、並んだ小さな歯も、可愛い舌も、全部見える。
チルちゃんは、私を一生懸命見つめた後、眉間に可愛い皺を寄せ、片足を引き、ムチムチとした手に持った光る槍を構え、私の肩の上に向かって一気に槍を刺したのだ。
「あら、なんて幼くて、ちっぽけな光の妖精かしら」
女は、揶揄するように笑っただけで、少しも動揺していない。
私の視界の端に、チル友ちゃん達も現れる。
皆、真剣な顔で武器を構え、女に向かって攻撃を始めた。
「ああ、うるさい妖精ども。それほどこの娘が気に入っているの?でもねえ、そんな幼い光で、私の作った闇が消せるのかしら。ふふふ。無理よ。坊やたち」
ふふふ。ふふふ。と女が笑う。
私もふふふ。ふふふ。と笑ったのだ。
楽しげにしていた女が笑うのをピタリとやめた。
でも、私は笑い続ける。
ふふふ。ふふふ。ふふふ。ふふふ。
「何がおかしいの?恐怖で頭がおかしくなったのかしら」
女が少し不快げに言った。
ふふふ。ふふふ。と笑い続ける私。
「やめなさい。うるさいわ!」
女が私の肩に手を食い込ませる。
それでも私は笑うのをやめなかった。
「何だと言うの!何がそんなにおかしいの!?やめなさい!」
苛立った女が叫ふ。
私はそれでも笑い続ける。
だって、今、初めて、戦うチルちゃん達を正面から見たのだ。
いつも戦うチルちゃん軍を、私は横や後ろからしか見ていなかった。だから、知らなかったのだ。え?チルちゃん達って、いつもこんな可愛い顔をして戦っていたの?真剣な顔も、瞳も、姿も、何もかもが新鮮で可愛い。
可愛い。可愛い。笑ってしまうほど可愛い。
可愛いを見つめていると、胸が温かくなり、恐怖で強張っていた体中が温かくなる。
「ふふふ。なんてこと。可愛いは恐怖に勝つのよ!」
「な、何を言っているの?」
戸惑う女の声を無視し、私は降りていた両手を上げる。
手には銀細工の花がまだある。
「やめろ!それを離せ!」
女がまた肩を強く握る。
私の中に、冷たく鋭い何かが更に入っていく。
でも、私の心はチルちゃん軍の可愛さで満たされてる。
手が動く。支配されていない。私はまだ私のものだ。
「これで終わりよ!」
私は笑いながら、銀細工を、へし折った。




