第19話 闇の泉
月明かりのなか、猫のパイは尻尾を上げもせず、下げもせず、こちらを見ていた。
ただの夜の散歩だろうか。
低い声で「にゃあ」と鳴かれて、思わず塔を見上げた。
だ、だ、だ、旦那様に気付かれるでしょ!
静かに!
それとも、ローズ派で一番のこの私に対する嫌がらせ!?
もしかして、一番を狙っている?
騒がれる前に逃げなければ!
チルちゃん達と一緒に、こそこそと動き出す。
猫のパイは、動かず、ただ目だけは私たちをピタリと追っていた。
私たちが訓練場へと続く道に入り込んでも、猫のパイは動かず見てる。
邪魔はしないみたい。
良かった。
滑るように進んでいく。
しばらく来なかったせいか、道には薄っすらと闇があった。
チルちゃん軍は、私達の進む場所の闇だけを手早く消しながら進んで行く。
振り返ると、猫のパイが生真面目な顔をして私たちの後を追ってきていた。
戦いたい気分なのだろうか、暇なのだろうか。
暇なのだろうなあ。
きっと。
でも、良かった。
猫のパイが来てくれれば、私たちの戦いは少し楽になる。
私はチルちゃん達と猫のパイと一緒に、旦那様に禁じられた場所へと急いだ。
☆
旦那様の訓練場は、ぼんやりと月明かりに照らされていた。
木々に囲まれ、ぽっかりと開けたこの場所は、夜に訪れると昼間よりも、静かで、秘密めいていた。
しばらくこの雰囲気を楽しみたい気もしたけれど、私たちの目的はここではないのだ。
広場の中で、闇が多い方へと私たちは進む。
先日、旦那様に止められた場所より更に奥へ。
もっと奥へ。
闇が濃く、深くなる。
先を進むチルちゃん軍が闇を消しきれない。
でも私たちにゆっくり闇を消す時間はないのだ。
旦那様達にバレる前に、進まなくては。
闇を踏み、闇を蹴散らし、奥へと進む。
木が途絶え、草がなくなっていく。
そして、闇しかない場所に、小さな泉があった。
☆
ふと、マリーに何度も話を聞かされた光の泉を思い出した。
チルちゃんが私の手にしがみついてきた出会いの場所だ。
私は幼すぎて記憶はないけれど、マリーに聞かされ続けた話のせいで、その場所の事を鮮明に思い描く事が出来るのだ。
「これぐらいの大きさでね、それほど深くないの、形はこんな感じ。小さくて、可愛い泉よ」
マリーが身振り手振り付きで教えてくれた泉と、目の前の泉は同じに思えた。
ただ、闇がコポコポと湧き、辺りに濃いクリームのように積もっている。
きっと、ここが旦那様の両親が亡くなっていたという場所だ。
そんな気がした。
「さあ、これをやるわよ」
呟いて足元を見ると、猫のパイが進み出て「シャアアアア!」と威嚇する。
かっこいい。
クリームみたいな闇が、少し震えた。
さすがチルちゃん軍自由隊員。
でも、肝心のチルちゃん軍が一人もいない。
振り返ると、私の後ろでギュッと寄り添い合い、震えていた。
「やるわよ」
声をかけたけど、みんな俯き、首を振るばかり。
確かにこんなに濃い闇は初めてだ。
チルちゃん達は、基本怖がりなのだ。
チルちゃんが、皆の隙間から、チラリと私を見上げた目が涙目だった。
怖いわよね。
分かるわ。
戦うのは嫌よね。
分かるわ。
でも私が持っている最大魔法の呪文に逆らえるかしら。
「光の戦士達よ」
憂いを帯びた表情で片手をチルちゃん軍に掲げる。
チルちゃん軍は皆一斉にハッとした顔をして私を見上げる。
「光の戦士達よ。あなた達は強い。あなた達ならやれるわ。だって、あなた達は光の戦士なのだから」
チルちゃん軍が、皆目を輝かせ、キリリとした顔になる。
「やりましょう。大丈夫。光の戦士ならやれるわ。私もついている」
チルちゃんが皆から離れ、光の槍を出し、私に力強く頷いた。
他の皆も一斉に武器を出す。
自由隊員猫のパイも「シャアアアア!」と、やる気だ。
震える闇に向かって、チルちゃん軍は進み出す。
よし。
旦那様。ありがとう。
旦那様の絵本のおかげで、チルちゃん達はこんなに立派になった。
そう。チョロいんじゃない。立派になったのだ。
チョロくもあるけれど、まあ、いいじゃない。どっちでも。立派という事で。
そして戦いが始まったのだ。
☆
苦戦はしなかった。
でも終わらないのだ。
クリームみたいな闇は、武器を指してもなかなか消えない。
消えはする。
でも、時間がかかる。
うーん。
旦那様の額から溢れる闇に似ている。
やはり、あの泉に何かがあるのだ。
チルちゃん達は繰り返し魔力を求めて私のところへ戻ってくる。
私はマントを脱いで地面に敷くと、その上に座り込んだ。
片手でバスケットからドーナッツを出しかぶりつく。
そして片手をチルちゃん達に差し出して魔力を上げる。
管になったみたいだ。
私を通して今食べているドーナッツが魔力になってチルちゃん達へ。
でも私を通す意味はあるのかしら。
これ、チルちゃんがドーナッツを食べればいいのでは。
チルちゃん達にドーナッツを差し出してみると、戸惑った顔をして、私を見上げるだけだった。
なるほど。
違うのね。
分かったわ。私の魔力をあげるわよ。
チルちゃん達は真剣な顔で私の指に口をつけ、魔力を吸っては戦いに戻って行った。
大変だった。
自由隊員は途中で飽きたのか、いなくなった。
でもありがとう。できればまた手伝ってください。
それで、ほんの少しだけ、泉前の闇が薄くなったのだ。
でも、それだけ。
戦いは終わってしまった。
バスケットの中は空っぽで、私の手には巨大だった棒付きの渦巻飴の棒だけ。
美味しかった。
でも、もうないのだ。
チルちゃん達は疲れた顔をして、マントの上でうとうとしている。
よく頑張ったわね。
さすが光の戦士達。
今夜で終わらせるつもりだったのに、終わらなかった。
仕方がない。
またなんとか抜け出して来よう。
でも、その前に、泉をよく見ておこう。
私は闇を踏み分け、泉に近づくと、泉の中を覗き込んだ。
「離れろ!」
後ろから声がした。
振り返ると、遠くから黒い影がこちらに向かって走ってきた。
旦那様だ。
もう私は、あんなに遠くから走ってくる影だけ見ても、旦那様だと分かるくらい、旦那様の姿を見慣れているのだ。
その事が嬉しく思えた。
旦那様はこちらに向かって走りながら、何度も「そこを離れろ。こちらに来るのだ」と言った。
まだ顔は闇で覆われている。
私は動かず、旦那様がこちらに来るのを見ていた。
とうとう私の側までついた旦那様は、泉に顔を向け、震えるような息を吐いた。
そして私を抱え上げると、元来た道を走り出した。
マントの上で私たちを見ていたチルちゃん達が慌てて付いてくる。
大きな旦那様の体は、その間、ずっと震えていた。
泣いているのかと思ったくらいだ。




