第12話 逃さない
塔の周りの闇をあらかた消した後、塔の裏から続くあの道に足を踏み入れた。
「本気で行くのか?」
ルイスは後ろから何度も聞いてくるけれど、もちろん行く。
それに剣の訓練の話がなくても、私はこっちへ進むつもりだったのだ。
闇は、塔からこぼれ落ちてくるものと、この道の先から流れてくるものの二種類ある事に気づいていた。
二つの闇は、少し種類の違う闇だった。
この道の先にも闇を生む何かがあるはずなのだ。
木々に囲まれた細い道は、人が踏み固めただけのものだった。
闇は絨毯のように道にあった。
チルちゃん軍は今日も元気に闇を刺し、私の道を切り開いてくれている。
頼もしい。そして丸々とした後ろ姿が可愛い。
「ここを進むと、いつも寒気がするんだ。でも、今日は寒気がしない。何でだ」
後ろで呟くルイス。
「私が一緒にいるからだと思うわよ」
正確には、私とチルちゃん軍がいるおかげだ。
「そっか、確かに、奥様は頼もしいもんな」
納得するルイス。
段々、ルイスがチルちゃん達のように可愛く思えてきているので、そのうち丸々と太らせてみようと思っている。
進んだ道はそれほど長くなかった。
すぐに開けた広場のような場所に出た。
ここもまた闇で覆われていたけれど、涼しい風が吹いていた。
その風が、私の通った道の方へと闇をそっと押しやっていた。
そのせいか、闇もそれほど濃くなかった。
この風が闇を押しやるせいで、塔の辺りの闇がより濃くなっていたのだろうか。
チルちゃん達は、物珍しそうに広場の闇を消し始めた。
私も広場に出て、辺りを見回した。
確かに少人数で訓練するなら、十分な広さがあった。
小さな納屋もある。
必要なものは揃っているのだろう。
「さあ、気が済んだだろ。帰ろうぜ」
「まだよ」
まだ調べる事があるのだ。
辺りを眺めているうちに気がついたのだけれど、闇はある方から湧いている。
そちらへ向かって進もうとすると、
「奥様!そっちへ行っちゃ駄目だ!」とルイスに止められた。
「どうして?」
「俺たちも公爵様に止められてるんだ」
「だからどうして」
「どうしてって・・・」
ルイスは珍しく、ひどく思い悩んだ顔付きで私を見た。
「そちらは私の父と母が死んでいた場所だからだ」
不意に、脳が痺れるような良い声がした。
少し怒りを含んでいる。
ルイスが息を呑む音が聞こえた。
振り返ると、先ほど歩いてきた道に背の高い旦那様が立っていた。
今日もまた黒い服を着ている。
今日もまた闇で顔が見えなかった。
「ルイス。なぜ彼女をここに連れてきた」
「す、すいません!公爵様!」
ルイスは途端に跪き、首を垂れた。
「立て!ルイス!おまえは彼女の護衛中だ!何があっても立って彼女を守れ!」
「はい!」
ルイスが跳ねるように立ち上がると、旦那様は私の方へと顔をやった。
「帰れ」
「嫌です」
「ルイス。彼女を屋敷へ連れて行け」
「はい「彼女ではありません」」
ルイスが、信じられない公爵様に何言ってんの?と言った顔で私を見つめる。
旦那様も私に顔を向けている。
「私の名前はエルサです。エルサと呼んでください」
全然私の名前を呼んでくれないから、名前を知らないのかもしれないと思い始めていたのだ。
ここで、ちゃんと覚えてもらいたい。
そして出来れば、名前を呼んでもらいたい。
しかし、また長い沈黙があった。
旦那様はよく沈黙をつくる。
こんな時、顔が見えればいいのに。
闇に覆われた旦那様の顔を見つめながらそんな事を思っていると、
「エルサ」
不意に、良い声で呼ばれたのだ。
びっくりした。
本当に名前を呼ばれるなんて思っていなかった。
きっとまた、駄目だとか、帰れとか言われると思っていたのだ。
それなのに名前を呼んでくれた!
「は、はいっ」
慌てて返事をした後、急に身体中が熱くなった。
こんな自分は初めてだった。
たまらず、ふふふ、と笑いだした。
「何故、笑っているんだ?」
旦那様が良い声で聞いてくる。
「嬉しいから笑っているんです」
「何がそんなに嬉しいんだ・・・」
「旦那様が私の名前を呼んでくれたんです!嬉しいに決まっているじゃないですか!」
叫んだ後、体から感情が溢れてきた。
喜びや、悲しみや、不甲斐なさや、憤りや、気にした事もない感情が一気に吹き出してきた。
私はこんなに何かを溜め込んでいたのだろうか。
堪らず、両手で顔を押さえると、しゃがみこんで号泣した。
周り中から「チルチルチル」という声がして、チルちゃん達の小さな手が、私を優しく撫でてくれた。
可愛い。けれど涙が止まらない。
私はどうしたんだろう。
ザク。
ザク。
と、途切れがちな、戸惑うような足音がした後、衣擦れの音がして、大きな手が私の頭をそっと撫でた。
「・・・すまない」
すぐ近くから、良い声が謝罪した。
何について謝っているんだろう。
泣きながら顔を上げると、片膝をついた旦那様の顔がすぐ側にあった。
けれど、その顔は闇に覆われ、私には見えないのだ。
その事が悲しくて更に泣いた。
私は毎日あの塔を見つめがら頑張ってきたのだ。
でもまだ、旦那様の闇は消えないのだ。
「すまない」と旦那様はまた言った。
「きっと、私はおまえに、エルサに辛い思いをさせているのだろう。しかし、私にできるのは私から遠ざける事だけだ。私の側にいれば、皆、体を悪くする。死にかけた者もいる。私はおまえを・・エルサを私に近づけたくはない。だから屋敷に戻ってくれ。王命で私と縁付かせてしまったが、エルサは私から離れて、生きろ」
そう言って立ち上がろうとする旦那様を逃すような私ではないのだ。
素早く旦那様の首に抱きつくと、
「嫌です」
と、きっぱり言った。
初めて抱きついた男の人の体は、ゴツゴツとして大きく、温かかった。
「エルサ。離してくれ。私の側にいては君の命が」と良い声が言っているけれど、絶対に離れない。
大きな手が、そっと私を押し離そうとしているけれど、私は絶対に離れない!
旦那様の肩越しに辺りを見ると、チルちゃん軍が頬を赤く染めて私の事を見上げていた。
私、やったわよ。
私はチルちゃん軍に頷きかけた。
慌ててコクコク頷くチルちゃん軍。
さあ、私が旦那様を押さえている間に、少しでも旦那様の闇をやってしまって!
目力で訴えかけていると、最初は頬を染めたまま、不思議そうに私を見上げていたチルちゃんが、はっとした顔をした後、慌てて槍を取り出した。
そう。それよ!
頷くと、チル友ちゃん達も顔を見合わせ、次々に武器を取りだした。
飛び交う矢。そして槍、そして剣。
離れてくれと懇願する旦那様。
チルちゃん軍は、私や旦那様によじ登り、旦那様の闇を刺し続ける。
頑張れチルちゃん軍。私も頑張る。
旦那様はしばらくすると諦めたようにため息をつき、私の背中にそっと手を置いた。
「大丈夫か?気分は?目眩は?」
「大丈夫です。幸せな気分です。もう少しこのままでいさせてください」
私は更に旦那様にしがみついた。
やっと会えたし、話せたし、抱きつけたのだ。
まだ逃さない。頑張れチルちゃん軍。
「そうか」旦那様は困惑した声で呟いた。
「ルイス。おまえはどうだ。随分長く私のすぐ側にいる。もう目眩がするのではないか?」
「いえ。何も。そういえば、寒気もしないし、気分も普通だし、目眩もしないし。あれ?何でだろう」
「そうか。良かった。しかし何故だ・・・」
良い声も戸惑っている。
「・・・!ああ!きっと奥様のせいですよ!」
ルイスが、少し間の抜けた声を上げだ。
「エルサのせい?」
「はい。ここのところ、奥様の護衛でずっと塔の側で過ごしていますが、全然気分が悪くなりません。いつもなら、こんなに長く塔の側でいられないのに。奥様と一緒にいると、大丈夫なんです」
はい。その通りです。
正確には、私と栄光のチルちゃん軍のおかげです。
旦那様が「エルサ」と私の名前を呼んで、そっと頭を撫でた。
声が優しかったので、顔を上げると、旦那様の顔がすぐ側で、私を見下ろしていた。
でも旦那様の顔はまだ闇に覆われ、まだ見えない。
もうすでに、矢も槍も剣もなかった。
今日の戦いは終わったのだ。
それでもまだ駄目だった。
手を挙げて、旦那様の顔をそっとなぞった。
旦那様は一瞬驚いたようにビクッと揺れたけれど、私のしたいようにさせてくれた。
顔が見えないなら、せめて旦那様の顔の形だけでも知りたかったのだ。
☆
「すげえよ!奥様、マジすげえよ!俺、感動した。マジであんたを尊敬する!やっぱ、あれぐらい積極的に攻めないと駄目なんだな。いやあ。勉強になったわ。マジすげえ」
帰り道は、ルイスがマジうるさかった。
その日は、旦那様の顔をなぞった手を、私の顔に当てて眠った。
けれど、夢の中でも旦那様の顔は見えなかった。