第10話 塔の上の旦那様
料理長は完全に私の胃袋を掴みにかかってる。
今日のドーナッツは真ん中に穴が開いてないけれど、中に冷たいクリームが入っているのだ!
信じられないほど美味しい。
おまけに私の前に置かれた五つのバスケットには、おやつがまだたっぷりと詰めてある。
幸せだ。
いつか、調理場で働く全ての料理人の家に行き、闇を葬り去って来ようと思ってる。
私とチルちゃん軍からのささやかな感謝の気持ちだ。
私の横では丸々としたチルちゃん軍と猫のパイが、すやすやと眠っている。
幸せだ。
幸せに浸りながら公爵家の庭でドーナッツを齧っていると、タルトを切り分けていたローズが「ほうっ」とため息をついた。
「どうしたの?」
「いえ。失礼しました」
「言いたい事があるなら言ってちょうだい」
「良いのですか?」
「もちろんよ」
「・・・では奥様、こちらを向いてください」
「?これでいい?」
「・・・ドーナッツを一度顔の前から退けていただけますか」
「?これでいいの?」
ローズはじっと私の顔を見つめた後、また「ほうっ」とため息をついた。
「奥様はお美しいですし、所作も公爵家のご婦人として恥ずかしくないものです。けれど、そのドーナッツを齧るというのは、あまり公爵家のご婦人として相応しくないですし、その、小さなお子様のような顔をされてニコニコと食べている姿は、可愛らしくはありますが、あまり公爵家のご婦人としては・・・・」
なるほど。
ドーナッツはどちらかと言えば庶民の食べ物だ。
「分かったわ。外ではやらないわ」
「外では・・・」
「公爵家の外ではね」
またドーナッツを齧ると、魔力が少し満ちていくのを実感した。
美味しいと思う物を食べた時の方が、魔力が満ちるのが早い気がするのだ。
ドーナッツを食べ終わると、また「ほうっ」とため息がする。
「さあ、今度は何?」
ローザはすぐ側にある古い煉瓦造りの塔を見上げていた。
私達は毎日闇を消し続け、旦那様の塔のすぐ側まで迫っていたのだ。
「いえ。自分がここにいる事がとても不思議で。こんなにも公爵様の塔に近づいても平気だなんて。以前は塔が目に入るだけで恐ろしかったんです。今も少しは怖いですけれど、前ほどではなくなりました。それがとても不思議なんです」
チョコレートパイの乗った一切れを私に差し出しながら、ローズは首を傾げていた。
でも、それはちっとも不思議じゃない。
私とチルちゃん軍、そして料理長達の努力の結果なのだ。
ものすごく努力したのだ。もう本当に大変だった。
旦那様の塔が近づくにつれて闇は濃く粘り気を帯びていった。
私達は、ただただ魔力を消費して、ジリジリと塔に近づいて行った。
乗り越える事ができたのは、猫のパイの「シャアアアア!」と、料理長達が用意してくれるバスケットと、護衛達との雑談で楽しく気晴らしができたおかげだった。
求婚の言葉を集めるのは楽しかった。
みんなの協力のおかげで、私とチルちゃん軍は今、塔のすぐ側にいる。
ここに旦那様がいるのだ。
塔を見上げて毎日思っていた。
まるで塔に閉じ込められたお姫様みたいだと。
どうにかして助けたかった。
ここに着くまでの間、護衛達から旦那様の話を随分聞いた。
旦那様は、あんなに闇の濃い場所で暮らしながら、人を助けたり思い遣ったりしていた。
闇の中ではみんな少しおかしくなってしまうものなのに、不思議だ。
きっと旦那様は闇の中で自分を保てるほど強い人なのだろうと思う。
でもこれからはどうだろう。
どんなに強い人でも、弱ってしまう時はあるのだ。
闇はそこに入り込む。
どんな時でも闇に呑まれず強く生きていけるよう、旦那様の闇を消してあげたかった。
時々、初めてのキスを思い出して、ふふふ、となるのだ。
私は、私を幸せにしてくれた人を、幸せにしてあげたかった。
☆
ローズが使用人達と一緒にバスケットやらクッションを片付けて屋敷の方へと立ち去って行くと、私の後ろにひっそりと立っていた護衛のルイスが「ふうぅ」とため息をついた。
「やっぱ可愛いよなー、ローズ。あー、また何にも話しかけられなかったなー。俺、緊張してたのバレたかなー。どう思う?奥様」
交代もなくなり、気楽な様子で私の護衛を続けるルイスは、私に取り繕う事がなくなった。
「話したこともない人が緊張してるかどうかなんて、分からないと思うわよ」
「やっぱ、そーかーなー。明日こそは話しかけたいなあ。なあなあ。ローズがどんな男が好きか聞いてきてくれた?」
「まだ聞いてないけど、真面目に護衛をしてる人じゃないかしら」
「まさに俺だ!」
しきりに頷くルイスは、屋敷に入っていくローズの後ろ姿をうっとりと見つめている。
ローズの後ろから、尻尾をピンと立てた猫のパイが屋敷に入って行くのが見えた。
ルイスも猫のパイもローズ派なのだ。
もちろん私もローズ派だ!
さあ、パイはもう今日は手伝ってくれないみたいだから、あまり進めないけれど、出来るところまでやりましょうか。
チルちゃん軍を見下ろすと、皆丸々としたチルちゃん軍が目をぱっちりと開けて私を見上げていた。可愛い。
その時だ。
「公爵様」とルイスが姿勢を正した。
いつの間にか、ぴたりと閉まっていたはずの塔の扉が開いていた。
古い木の扉なのに、蝶番の軋む音はしなかった。
扉の中には、結婚式であったきりの背の高い旦那様が闇に埋もれるように立っていた。
また今日も黒い服を着ている。
顔も以前と同じように闇に隠されている。
素早く私の後ろに隠れるチルちゃん軍。
塔の中は、思った以上に闇に覆われているようだった。
でも、好機よ。
塔の中に、どうやって入り込もうかとずっと考えていたのだ。
あそこの闇を片付けなければ、この戦いに終わりはない。
今のうちに少しでもあの闇をやっておしまいなさい!
チルちゃん軍を振り返ると、チルちゃん軍はしばらく涙目で私を見上げていたが、すぐに諦めたのか、弓隊が恐々と私の陰から弓を打ち始めた。
ね。少しは闇が消えている。
チルちゃん軍も行けるかも、と思ったらしい。
恐る恐る私の陰から出ていくと、旦那様を覆う闇への攻撃を始めた。
よし。
「ここで何をしている」
満足している私に、久しぶりに聞く低く響く良い声が尋ねてきた。
何をしてるって、闇を消しているのだけれど、闇が見えない人にそんな事を言っても仕方がないのだ。
「おやつを食べておりました」
「おやつ、を?」
良い声が戸惑うように「おやつ」と言う。いい!
「・・・ここは、あまり良くない場所だ。長くいると倒れる者もいる。すぐに立ち去りなさい」
「私は長い時間、ここにおりましたが、少しも気分は悪くなっていません。ですから大丈夫です、旦那様」
「旦那、様?」
良い声が戸惑ったように聞く。いい!
「はい。旦那様」
旦那様はしばらく無言のまま、そこで立っていた。
沈黙の中、ルイスが、チラチラと私を見てくる。
私は旦那様が話し出すのを、いつまでだって待つつもりだった。
チルちゃん軍の総攻撃は、旦那様の周りの闇を消し、闇から旦那様の姿を切り取っていった。
顔の闇は相変わらず消えないけれど。
「・・・気分は悪くないのか?」
旦那様がやっと話した言葉は、私を気遣う言葉だった。
「はい。大丈夫です」
嬉しくなってにっこりと笑った。
「ルイス。おまえはどうだ?」
「はい。そういえば、俺も今日は目眩がしません」
ルイスは首を傾げながら言ったけれど、ルイスの周りの闇は、ビシッと消してある。目眩なんてするはずがない。
「そうか。しかし、やはりここが良くない場所である事に変わりはない。ルイス。彼女を連れて立ち去りなさい」
「はい「いいえ」」
ルイスの返事に被せるように私は言った。
公爵様に逆らうなんて信じられない、と言う目で見てくるルイスを無視し、私は旦那様に懇願した。
「私を塔に入れてください」
また沈黙が始まった。