皇太子妃は困惑する。
わたくしはヨハンナ・ル・レアン。
レアン公爵家の長女にして、この国アリナス皇国の皇太子妃である。しかし、わたくしには100年前に生きたもう一人の皇太子妃の記憶がある。
エミーリア・フィオ・ルブル・アリナスと言う名の惨めな女の記憶が。
アリナス大陸の北にある小国ルブル王国の四女に生まれたわたくしは大国であるアリナス皇国からの突然の縁談に困惑していた。美しい姉たちとは違い、顔ははっきり言って美人よりの普通の王女だったわたくしは何故自分に皇太子との縁談が来たのか良くわからなかった。
お父様はこれ幸いと縁談を進めて私はアリナス皇国に半ば流されて輿入れすることになった。
正直、いつも美人な事を鼻にかけて私の容姿を笑い者にしていた姉達より立派な縁談に優越感はあった。結婚相手のクロード殿下の姿絵も大変美しく、まさに理想の王子様で姉達がハンカチを噛んで悔しがっていたのには胸がすく気持ちだった。
「リア、わたくしのリア。…辛くなったら帰ってきなさい。」
「……お母様?」
堅物で保守的なお母様の発言にしては弱い言葉に私は訝しんだが、その理由を後々知り母の不器用な思いやりに涙が溢れた。
わたくしの前世の夫、クロード皇太子はまともそうな外面とは裏腹に心を酷く病んでいた。
元婚約者である聖女エミリアの死によって。
「ああ、エミリア。修道院なんかにいてそんなに髪が汚れてしまったのだな?その色の其方も良いが、やはり白金の髪でなくては…」
城について早々に、クロード皇太子はそう言うと侍女にわたくしを湯殿に案内させた。わたくしは意味がわからず、首を傾げた。
宿では端正に身体や髪を清めたし、移動中の馬車の中でもドレスに不備がないか散々確認したのだ。何故、殿下はわたくしの茶髪を汚れたと言うのか…。
湯殿につくなり、侍女達はある液体を持ってきてわたくしの髪に塗りたくった。
「何、変な匂いだわ、やめて臭いの!」
「どうか、ご容赦くださいませ。」
「安心してくださいませ、これは色抜き薬です。」
「色抜き…薬?」
薬を流すと、濁った茶色の液体が流れて後に残ったのは白金の髪に脱色されたわたくしの髪だった。
「え、」
「瞳の色は同じでようございましたわ。」
「本当に、流石に眼薬もご用意したくなかったですから。」
「ね、ねぇ。何がどうなっているの?何故わたくしはこんな髪にされているの!?」
お母様と同じ艶やかなチョコブラウンの髪が、薬のせいで老婆のような白金の髪にされている事実に戸惑い嘆くわたくしに、アリナスの侍女達は視線を逸らす。
「妃殿下、戸惑われるのはわかります。」
「ですがこれは皇太子殿下のため、ひいては皇国のためでございます。どうか、お許しくださいませ。」
その時から、わたくしの心に見えない棘が刺さり出した。
その後良くわからないまま結婚式をあげ、母の前でこの姿を晒した時、わたくしは泣きたくなった。眉目秀麗な夫と結婚できた多幸感は全くなく、何か得体のしれないものの生贄にされたような恐怖感に苛まれながらわたくしは皇太子妃となった。
「エミリア、大丈夫か?そなたは細身なのだから無理をするでない。」
「……はい、殿下。」
だけど、皇太子殿下はお優しかった。舞踏会でもわたくしを片時も離さず側に置き、優しく気遣ってくださる。
結婚して2年目で子が出来た時はすごく嬉しかったし、自分がアリナス皇国の国母となったという事実に酔っていたのだ。
しかし、夫は皇帝になることはなかった。
即位式の招待に北の大司教様は応じなかった。皇太子の元に来た他の3人の大司教様も即位式に四方の大司教が揃わなかった事が初めてで大変戸惑われていらした。祝いに来た来賓達の前で殿下は盛大に恥をかき、精神的に耐えきれず寝室に引き篭もられてしまった。
わたくしはいてもたってもおれず、北の大司教様の元に向かった。夫には皇帝になってもらわないといけない、でないと…
「……なんのために嫁いできたのかわからない。ですか?」
「へ…」
「妃殿下、恐れながら申し上げます。皇太子殿下からも、ご自分の心からも目を逸らすのはお止しなさい。」
「……っ」
北の大司教様は真っ直ぐにわたくしを見据え静かに言葉を重ねる。それはナイフの様に鋭く、私の琴線を見事なまでにぶった斬った。
「……貴女様も、気付かれているでしょう。あの方は皇帝の器でもなく、男としても最低であると。」
「やめて…言わないで!!」
「否定するのは、皇太子への恋ゆえのものですか?」
いいえ、そう。そうなの。わたくしは皇太子殿下に恋などしていなかった。
だってそうでしょう?愛する母の髪の色を汚いという男をどう愛せと言うの?月に一度、あの臭い薬をかけられ髪は激しく痛み、昔のような艶やかさなどない。
それにわたくしの名前はエミーリア。同じ名前だけどイントネーションが違う。エミリアなどではない。
閨でその名を呼ぶたび、誰かに重ねられるたび吐き気がした。触れられるだけで怖気で鳥肌が立った。
他の女への愛に狂う男を愛するなんてまともな女がする事ではない。でも、わたくしは目を背け続け、心に蓋をした。何故なら、
「わたくしが、アリナス皇国の皇太子妃だからよ。」
「………。」
「遠い小さな国から出てきたわたくしに、帰る故郷はありませんわ。それくらいの覚悟で彼の方に嫁いできましたわ。妻としても、国母として…例え夫が皇帝に相応しくない人間でも、その背を支え続けなければならないの。そう、神に誓ったのよ!?貴方は、わたくしのその覚悟を侮るというの!?」
そう怒鳴りつけると、大司教様は静かに目を伏せるとゆっくりとため息を漏らす。
「……妃殿下の覚悟は素晴らしいものです。ですが、それは皇太子妃としての解答としては50点としか言えませんね。」
「っ…まだ、わたくしを侮辱なさるのっ」
「理解されていないから、お応え致します。妃殿下は皇太子殿下に自分はエミーリアであって、エミリアではないときちんと叱りつけなければなりませんでした。」
「!」
「エミリアはエミリアとしての人生を全うしました。短くですが、懸命に生きた彼女に誰が成り代われると言うのです。妃殿下には妃殿下の人生があります。まだ、貴女様は成すべきことが山積している。なのに男ひとりに拘っている場合ではないでしょう。」
呆れた表情の大司教様には全てが見通すお力があるのか、私はぐっさりと致命傷を抉られるような鋭い言葉に唇を噛んだ。
「貴女様はもはや国母となられた。その地位は揺らがぬものでありましょう。さっさと城に帰られて夫の尻でも叩くと宜しい。」
この大司教様はとことんわたくしを甘えさせてくれなかった。だけど、不思議と胸にストンと落ちる言葉を下さった。
「………今度は、」
「…はい。」
「今度は満点の皇太子妃として、再びお会いしとうございます。必ず。」
再び顔を上げたわたくしには迷いは無かった。
そして、わたくしは城に帰ると盛大に夫をベッドから叩き出すと、胸ぐらを掴みわたくしはエミリアではない!と引導を突きつけ、髪の色抜きもやめ、自分を取り戻していった。
「エミリアはそんなことをしない!」「エミリア、エミリア」とおぎゃおぎゃ五月蝿い夫の横っ面を叩き、皇太子位を元老院達と計り強制退位させると、新しい皇太子の教育の邪魔だから田舎の離宮に放り込んだ。わたくしはその後、摂政として新皇太子の教育と、国政に取り組んだ。目紛るしい日々だったけどやり切った。
そして、息子が無事に皇帝に即位して孫が産まれてホッとした辺りで病に倒れた。非常に不本意だけど、あの時の大司教様の言葉に感謝している。
「……今度は満点な皇太子妃になれたでしょうか。ねえ、お兄様。」
「………結婚式に言われてもねぇ。まあ。これからに期待…ということにしておきましょう。」
そう嫌味を言えばすんなりいなされ、わたくしは頬を膨らませた。
わたくしはレアン公爵家のヨハンナとして生まれた。
正直、聖女エミリアの名前には苦い思い出があるから、ヨハンナという名前にホッとした。婚約者のフロイスは前世のわたくしの髪と同じチョコブラウンの髪で、性格も容姿も立派な男前だ。あの元夫の血はこの100年でだいぶ淘汰されたようだ。…まあ、自分の子孫に血は繋がっていないとはいえ嫁ぐのは若干の抵抗はあったのだけど、フロイスのアプローチに絆されてしまったのでしかたがない。前世と今世合わせて初めての恋なのだから許して欲しい。
だけど、予想だにしていなかったことに、あのわたくしを言葉で打ちのめした大司教様が兄として転生されていて困惑した。
そしてさらに、聖女エミリアがまさかの妹にはまいった。勘弁してほしいとさえ思ったわ。今世の兄である大司教様から聞いた時には、卒倒した。でも、さすが聖女。ちょっとポヤポヤ抜けてるけど一生懸命で、わたくしをお姉様って慕ってくれて性格も可愛いの。前世の夫が執着するわけだ。
ま、嫉妬して欲しいとかくだらない理由で蔑ろにしていたから婚約解消されたわけだけど…改めて思うわ。アイツ馬鹿だわ。
「お姉様っ!結婚おめでとうございますっ!」
「ありがとう、…エミリア。」
神様は本当におられるのだろう。きっと。
今度こそ、幸せな皇太子妃になりたい。愛する人と結婚したい。大司教様を見返したい。そんな沸々とした混じりあった願いを全て叶えてくださった。
だけど、悩みはある。
この可愛い妹の将来をハラハラした気持ちで見守らなくてはいけないことだ。
クロードみたいなポンコツに引っかからないよう、わたくしが目を光らせなくては…多分、それが神様がわたくしの願いを叶えてくださった代償なのだから。
……どうか聖女エミリアに幸あらんことを。
……大司教様もウゲッと思っています。ヨハンナとの兄妹仲は嫌味を言い合う仲だけど、エミリアの事になると団結力を発揮する感じです。
多分、前世のエミーリアさんはとばっちり系ヒロインです。




