3.転校生
昼休みを告げる鐘がなり騒がしくなった教室で、胃がキュッと縮こまるのを感じながら、穂乃花は教室の出口へと向かう。
自分が通り過ぎた途端、女子グループの爆笑がして、穂乃花の体がこわばった。クラスの中でも可愛くて華やかな女子だけで構成された上位階級のグループだ。
「トイレでご飯とかありえないし」
「犯罪者にはお似合いじゃない?」
クスクスと小馬鹿にした笑い声と共に背中から飛んできた言葉は、決して陰口などではない。陰で言われている分には、相手にも悪いことだという気持ちがある。だけど、今ここで向けられたのは、穂乃花に聞こえるようあえて放った言葉だ。聞こえたっていいと思われている存在。傷つけても問題のない、いや、罰すべき人間。それが自分。
言い返すことなどできるわけもなく、穂乃花は気付かなかったふりをして、そのまま教室の外に出た。
休み時間なんてなければいいのに。
本当にそう思う。
授業を受けるだけなら、こんな風に攻撃する機会を与えずに済むのに。
しばらく歩いてから、少し悩んだのち、その足を止めた。
トイレはやめておこう。昨日、ドアの上から水をかけられた。かといって、屋上や中庭は、人目につくし……。
結局、あそこしかないと思い、穂乃花は旧校舎に足を向けた。
現在、旧校舎はほとんど使われていない。一部の空き教室が運動部の部室として開放されているが、人が入るのは放課後だけであり、二階以上は安全上の問題があるとして閉鎖されていた。
その二階へと続く階段に向かうと、進入禁止と書かれた看板をよけて、構わず上へと進んでいった。
穂乃花が通うこの桜ヶ丘学園は百年以上の歴史があり、それだけに、旧校舎は木造建てでかなり古い。ところどころ腐った床は、歩くだけでキシキシと音を立てる。しかも、新校舎の影になった現在は日が入らず、日中でもじめじめとして、かび臭かった。生徒たちがこちらの校舎に近づかないのも納得だ。夏の夜などは、お化け屋敷の会場として、面白半分に入る生徒もいるようだが。
そう考えてから、穂乃花はぶるっと身震いをした。
初夏だと言うのに、空気はひんやりとして、薄気味悪い。どこの学校でも噂されるものだが、桜ヶ丘学園の七不思議はすべて旧校舎にまつわるものだった。
本当ならこんなところで昼ご飯を食べたくはないが、同級生の冷たい視線を浴びて食べるよりはましだった。階段を上がってすぐの教室に入り、ドアを閉めた。
元は理科室だったようだ。壁沿いの棚にはフラスコや薬品が入っていたと思しきガラス瓶がいくつかまだ残っている。埃がかぶっていないところを見ると、一応、定期的に掃除をしているのだろうか。
自分で作ったお弁当を開き、机の上に広げてみたものの、全く食欲はなく、大きなため息が漏れた。
「学校、やめたいな」
幾度となく思った言葉が漏れてしまう。ここまでしてなぜ学校に通うのだろうと、そう思った。でも、学校をやめたら、両親に代わって自分を学校に通わせてくれた兄に申し訳が立たない。
再び大きなため息が漏れた時、
「しけた面してんな」
と突然後ろから声をかけられた。
ひやぁと飛び上がった穂乃花に、
「何だよ、化け物にでも出くわしたみたいに」
とシオンが心外だと言わんばかりの顔をした。
いや、十分化け物でしょう、悪魔だし。と、穂乃花は思ったが、口には出さなかった。
「何よ、急に。あ、もしかして、お兄ちゃんが見つかったの?」
期待に満ちた顔でシオンを見ると、彼は気まずそうに視線をそらした。
「そう、焦るなよ。俺も忙しいんだ」
「人探しくらい、俺の手にかかれば一瞬なんじゃなかったの?」
「普通の人探しとは違うんだ」
「違うって?」
「知るか」
プイと横を向いたシオンに不安が募る。
「どういうこと? ちゃんと説明して」
思わず彼の腕をつかみ、ぐいと顔を近づけると、
「うるせぇな」
とシオンは面倒くさそうにため息をついた。
「普通は、魂の気配を辿ればすぐ見つかるんだよ。だけど、お前の兄貴は、その気配をあえて消している」
「あえて消している?」
「あぁ、かすかな気配を感じるが、近づこうとすると跡形もなく消える。自分で消しているのか、誰かによって消されているのかは分からないが」
心臓の音が早くなった。
「誰かによってって?」
「さぁな、結界を張られたらこちらは打つ手なしだ」
「もう、頼りないなぁ! じゃぁ、どうするのよ!」
兄がもしかしたら何者かに囚われているかもしれない。その不安に焦りが生じる。一段と語気を荒げて、シオンの腕をギュッと握った穂乃花に対し、シオンはしかめ面をしてその手を払った。
「だから、その糸口を探すために、お前のとこに来たんだろうが」
「糸口?」
「あぁ、兄貴がいなくなった時の状況を詳しく教えろ」
その後、穂乃花は木の椅子に腰を掛けて、兄がいなくなった二ケ月前のことを説明した。
それは、冬の寒さが和らいだ三月の上旬。
穂乃花が夕飯の支度をしていると、帰ってきた兄が取り乱した様子で部屋に入ってきた。ただいまも言わず書斎に向かう彼に、「何かあったの?」と問いかけると、「全部、嘘だった」と押し殺した声でつぶやき、そのまま書斎に入ってしまった。
いつも冷静沈着な兄が、怒りを隠せずにいる姿に穂乃花は驚いた。すぐさま、彼の後を追って書斎に向かったが、ドアは鍵が閉められていた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
ドアをノックすると、
「調べたいことがある。私が出るまで、声はかけないでくれ」
と低い声が返ってきた。
それから数時間が過ぎても兄は部屋から出てこなかった。声をかけるなと言われていたため、穂乃花はそのまま先に寝ることにした。
翌朝、リビングには兄の姿はなく、書斎に向かって声をかけたが返事はなかった。書斎のドアのカギはかかったままで、仕方なく穂乃花は学校へ登校した。
学校から帰宅しても書斎の鍵はかかったままで、声をかけても返事をしない。さすがに不安になって、穂乃花はスペアのキーで鍵を開けた。
けれど、そこに兄はいなかった。
「誰かに拉致されたとか、そう言う可能性は?」
「部屋は荒らされた様子もなくて、窓の鍵も閉まったまま。忽然と兄の姿だけがなくなっていた」
すぐさま警察に通報したが、自分で出かけただけだろうと取り合ってもらえなかった。書斎のドアには鍵がかかっていたことも告げたが、スペアのキーで閉めてから出かけたんじゃないのかと言われ、いつもはいていた革靴が残っていると食い下がっても、別の靴を履いていったんだろうと却下された。
だけど穂乃花は何かがあったのだと確信していた。あの晩の兄の様子は尋常じゃなかった。
「何か残されていなかったのかよ」
「何も……ただ」
「ただ?」
「黒魔術の本が……書斎の机の上にあった」
兄は、歴史民俗を専門とする学者だった。そして、特に昔からの言い伝えや呪術といった類に興味を持っていた。
「たいていの言い伝えが、眉唾物だったけど、この本だけは違った。私が中学生の頃、遊び半分で、この本で召喚をやったことがあるの。そしたら突然部屋が炎に包まれて、私を助けようとした兄は背中に大やけどを負って」
その時のことを思って、胸が痛くなった。
「知識も力もねぇのに、召喚なんてするからだ。で、魔物の力によって、兄貴の身に何かが起きたのかと思って、俺を呼んだわけだな」
「うん」
警察にそんなことを話しても信じてはくれないだろう。それ以前に、魔物の力が介在しているなら、警察に頼ったところで、どうにかできるものではない。
「いなくなる前、兄貴に変わった様子はなかったのか?」
「うーん、何かを調べていたみたいだけど、兄は仕事だとしか」
そう答えると、シオンは舌打ちをついて、「使えねー女だな」と言った。
「それはこっちのセリフでしょ。普通のやり方じゃ行方が分からないから、悪魔と契約までしたのに。あ、悪魔じゃなかった。悪魔のみ・な・ら・い、とだったっけ」
わざと厭味ったらしく言った穂乃花に、シオンの赤い瞳がギロリ光る。その眼力に、穂乃花はたじろいて、目をそらした。
「じょ、冗談だって」
「次、そんな口きいたら、その口を二度と開けないようにしてやるぞ」
低く言い聞かせるような声に、穂乃花は冷汗をかきながらうなずいた。見習いとは言え、やはり悪魔だ。
「しっかし、何でこんなところで飯食ってんだよ」
突然、話を変えたシオンは、クルリと教室を見回してから、穂乃花の前にあるお弁当を見た。
「それは……」
口ごもった穂乃花に、
「はーん、お前虐められてんだろ」
とデリカシーのかけらもない。
「うるさいな」
「誰にやられてんだよ、俺がそいつの息の根を止めてやろうか? まぁ、代償は別払いだけどな」
悪魔らしく、口の端を開けてにやりと笑ったシオンに対し、穂乃花は小さくため息をついた。
「結構です」
「こんな場所じゃ、飯もまずくなるな」
「どうせ食欲なかったし。シオン、食べる?」
お弁当を彼に差し出すと、
「俺が何で人間などの飯を食わなきゃならないんだ」
と見下すように弁当の中身を見た。
「食べたくなければ食べてもらわなくて結構です」
さっさとお弁当をしまおうとした穂乃花に、「まぁ、食べてくれというなら食べてやるがな」と言って、シオンは弁当箱をひったくった。
何だ、食べたかったんじゃん。心の中で、ぷっと噴出した。
「その唐揚げ、美味しいでしょ」
「まぁまぁだな」
と言いつつその手は止まらない。
「何か、嬉しいな。自分の作った料理を誰かが美味しそうに食べてくれるのって」
兄がいなくなってから、一人で食事をするだけの毎日だった。どんなに失敗しても、美味しいよと笑って言ってくれる優しい兄。寂しさがぐうっと頭をもたげる。
そんな穂乃花の姿をじっと見ていたシオンは「別にうまいとは言ってないけどな」と横を向いた。
「よかったら、明日もお弁当作ろうか。一人分も二人分も変わらないし」
それに一人で食べるより、誰かと食べた方がおいしいから、と言いかけて呑み込んだ穂乃花の気持ちを知ってか知らずか、
「明日からも毎日こんな薄暗い場所で食べるのか?」
とシオンは聞いた。
「仕方ないよ」
「何で」
「誰だって、犯罪者の娘となんか一緒にご飯を食べたくないもん」
自嘲的な言葉が漏れてしまった。
「へぇ、お前の親、何か悪さしたのか」
「してない!」
「自分で言ったんだろうが」
「皆がそう思っているってだけ! 私は無実を信じている」
憤慨した様子で答えた穂乃花に、シオンは黙ったまま、食べかけの弁当を差し戻した。
「ごめん、シオンを責めたわけじゃなくて」
てっきりへそを曲げたのかと思ったが、シオンは「ちげーよ」と言って、「教室に戻ってお前が食べろ」と付け加えた。
「え?」
「犯罪者じゃないって信じてんだろ? だったら、こんなところでコソコソしてねぇで、堂々としてろ。信じてんなら、胸張って教室で食べて来い」
ハッとさせられた。信じていると言いながら、皆の視線に負けていた自分に。いつの間にか、犯罪者の娘としての立場を受け入れてしまっていたことに。
「うん、そう……だよね」
穂乃花は弁当を受け取って、立ち上がった。
「シオン」
「あ?」
教室から出る際、振り返って、「ありがとう」と言うと、彼は驚いた顔をした。
「別に」
ふいと目をそらした様子に、彼は照れているのだということが分かり、意外に可愛いところがある悪魔の見習いに、自然と顔が緩む。
「さっさと行けよ」
シオンはちっと舌打ちをしたが、心の中でもう一度ありがとうとお礼をいって、穂乃花は教室を出た。
新校舎に戻り自分の教室に着くと、ドアをくぐった途端、部屋全体がシンと静まり返った。心が折れそうになったが、自分を鼓舞して、皆の冷たい視線の中、自席まで行ってお弁当を開く。
ヒソヒソと何かを囁かれていたけれど、自分は何も悪いことはしていない、もちろん両親もだと、穂乃花は顔をあげてお弁当の卵焼きをほおばった。
しばらくして、誰かが穂乃花の席に近づいて来た。
長い栗毛にバッチリメイクのクラスメイト。先ほど、「犯罪者にはお似合いじゃない?」と発言した女子だった。
七海まどか。
学校で一位二位を争うほどの美人で、SNSのフォロアーもたくさんいると聞いたことがある。彼女は、穂乃花の席の前で足を止めると、もっていたぶどうジュースのペットボトルを開けた。
「ねぇ、二ノ宮さん。ぶどうジュース好き?」
突然そんなことを聞かれて、返事に窮していると、「ぶどう味、好きだよね?」と七海は笑顔のままペットボトルを傾けた。紫色の液体が、穂乃花のお弁当を浸していく。
その様子を声もなく見守っていた穂乃花に、「はい、どうぞ」と彼女はかわいらしく笑った。
「あの……」
「ほら、早く食べて。せっかく、私が美味しくしてあげたんだから」
とお弁当を差し出した。
やはり、教室に戻ってくるべきではなかったかもしれない。でも、ここで逃げては両親が犯罪者だと認めることになる。
穂乃花はぐっと涙をこらえて、お弁当を食べ始めた。甘くぐちょぐちょになったお米を呑み込めず吐き出しそうになると、
「刑務所で食べるご飯って、臭い飯って言うんだったっけ? 二ノ宮さんにお似合いね」
と笑った。
くすくすと教室に笑い声が広がる。
その時――
「いやっ、何?!」
突然、七海さんが驚いた声をあげた。
彼女の頭から紫色の液体が流れて落ち、白いブラウスを染めていく。呆気にとられる七海の後ろで、背の高い男性が彼女の頭上にぶどうジュースをかけていた。
その行為にも驚いたが、それ以上に穂乃花を驚かせたのは、男性の姿だった。
「シオン?」
それがシオンだとすぐには判断できず、そう問いかけたのには理由がある。彼の背にあった大きな黒い翼はなく、赤くきらめく瞳も黒曜石のように変わっていたからだ。
そして何よりも、うちの学校の制服を着ている。
「何するのよ!」
激高して振り返った七海は、シオンの顔を見て言葉を無くした。
その理由は、穂乃花にも理解できた。
それは、シオンが息をのむほどのイケメンだったからだ。
会った時から整った顔をしているとは思っていたが、赤い瞳や人間らしからぬ装いに、SNSで時々見かけるコスプレイヤーを見ているような感覚で、現実味がなかった。
けれど、同じ高校の制服を着たシオンは、その整った顔立ちも、スラリとしたモデルのようなスタイルも、周囲の学生とは一線を画していることがよく分かる。
「あ、あなた誰よ?!」
ようやく我に返った七海が動揺した様子で問うと、
「本日転校してきた、シオンだ。よろしくな」
といって、彼は唇の端をあげて不敵な笑みを見せた。