表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

1.契約

「あ……んん」


 苦しげな声が、壁一面に敷き詰められた古書の中に吸い込まれていく。


「やっ」


 ぬるりとした物体が首元をゆっくりと這いまわり、かわいらしい唇から小さな悲鳴が漏れた。


 どうしてこんなことに……。


 穂乃花は、目の前の信じがたい光景に、この後の自分の身を案じて、ぎゅっと目を閉じた。


 こんなはずじゃなかった。呪文は間違っていなかったはず。


 いまだこの現実を受け入れられず、夢であることを願って再びそっと目を開いてみると、そこには黒い毛でおおわれた二メートルはあろうかという生き物がじっとこちらを見ていた。

 足元には、兄が大事にしていた古書が落ちている。


 黒い革張りの表紙――


 よく兄がそれを手に、書斎で熱心に読みふけっていた。黒縁の眼鏡から覗く真剣なまなざしを思い出して、胸が苦しくなった。


「いやっ」


 突然、獣の口から這い出した緑色の舌が、穂乃花の耳たぶをチロリと舐めた。逃げようにも、毛の間から伸びたミミズのような物体に手足の自由を奪われ、穂乃花は顔をそむけることしかできない。


「やめてっ」


 気丈にも大きな声を上げると、その生き物は舌を引っ込めて、にたりと笑った。


 なん、なの……?


 気味の悪い笑みに、穂乃花の全身に鳥肌が立った。

 生き物の体の中央で何かが動いたかと思うと、黒い毛がこんもりと膨らみ、その間から、赤黒い物体が顔をのぞかせた。手足を縛りつけているミミズの十倍はあろうかという太くテカテカとしたそれは、穂乃花の足元に絡みつき、ゆっくりと太ももを這いあがっていった。


「ひゃぁっ」


 スカートの中へと遠慮なく伸びていく物体に、たまらず悲鳴を上げた時、

「いい眺めだな」

 と幾分楽しげな声が部屋に響いた。


「だ、誰?!」

「誰って、悪魔だけど?」


 そこには、床に描かれた五芒星から頭を半分ほど出した青年の姿があった。


「あ、悪魔?」

「自分で呼んでおいて、失礼な奴だな」


 青年は気分を害したように眉を顰め、ゆっくりと五芒星から姿を現した。

 赤い瞳がきらりと光る。

 一瞬、穂乃花はその宝石のような瞳に、吸い込まれそうになった。

 黒髪に意志の強そうな顔。白いシャツと黒いズボンに身を包んだ自称悪魔は、赤い瞳と大きな黒い翼を除けば、どこにでもいそうな高校生に見える。

 自分の危機的状況も忘れて茫然と彼を眺めていると、太ももに伸びた特大ミミズが、再び動き出して、「やん」と思わず声が漏れた。


「何だか大変そうだな。へたっくそな、五芒星なんかで召喚の呪文唱えるから」

「ちょっ、見てないで助けてよ!」

「それが、お前の願いか?」


 腕を組んだ悪魔がつまらなそうに聞いた。穂乃花を見つめる赤い瞳が細められる。


「それは」


 途端、兄の顔が頭に浮かんで、穂乃花は口をつぐむ。こんなことで契約を使ってしまうわけにはいかない。まだ他にやらなければならないことがあるのだ。


「本当に助けられるの?」

「はぁっ?」

「あなたに、この強靭な生き物を倒せる力があるの?」


 あえて挑発的に言うと、赤い瞳をギラリと光らせた悪魔は大きな声を上げた。


「誰に向かって言っている。こんな下級妖魔などっ」


 言いかけた途中で、パシュッと破裂音がして、目の前の生き物が真二つに割れた。


「ほらな?」


 これぞ、どや顔! と見本のような得意げな顔をする悪魔に、穂乃花は内心苦笑いしながら、それは心の中に押し込んで、神妙にうなずいておく。


 すると、

「無償での施しは減点対象ですよ」

 と、どこからか柔らかい男性の声がした。


「うわっ、やっちまった!」


 ハッとした様子で頭を抱えた悪魔の足元で、彼の影が蠢めいている。自分の意思を持つかの如く動き出した影はにゅっと起き上がり、美しい男性へと姿を変えていった。


「何度目ですか? 本当に困った方ですね」


 銀髪に黒のタキシード。悪魔の頭一つ分背が高い。銀縁の眼鏡から覗く深い藍色の瞳で穂乃花を見ると、彼は優雅にお辞儀をした。


「レイと申します。お見知りおきを」

「あ、初めまして。南穂乃花と言います。よろしくお願いします」

「ってお前ら、俺を差し置いて、挨拶してんじゃねぇよ。そして女! まずは俺に礼を言え! 無礼な奴だな」


 ふてくされた様子で悪魔が穂乃花を睨む。


「はぁ、どうも」

「はぁ、どうもじゃねぇよ! ありがとうございます、シオン様だろ?」


 悪魔はすこぶるプライドが高いと兄から聞いてはいたが、それは本当のようだ。

 これから契約する相手の機嫌を損ねるのも嫌だったので、穂乃花はおとなしく頭を下げた。


「ありがとうございます、シオン様」

「それでいい」


 満足そうにうなずいたシオンという名の悪魔は、「で、お前はなぜ俺を呼び出した?」と聞いた。いきなり本題に入り、ドクンと心臓が音を立てる。


「兄を……行方不明になった兄を探してほしい」


 思わず声が震えた。兄のことになると、いつも心の冷静さを保てなくなる。それも仕方のないことだった。小さい頃に両親を不慮の事故で無くした穂乃花にとって、一回り年の離れた兄は親代わりであり、たった一人の家族。そのかけがえのない人が、行方知れずになっているのだ。


「対価は?」


 そんな穂乃花の気持ちなど知る由もなく、冷たくシオンは聞いた。


「え?」

「願いを聞いてやる対価だ。でなければ、契約は成立しない」


 見た目は人間とそう変わらないが、やはり悪魔なのだ。悪魔と契約を交わすには相応な代償を払わねばならない。だから、絶対に契約を交わしてはいけないと、兄から強く言われていた。でも……。

 ゴクリとつばを飲み込んだ穂乃花は、覚悟を決めたようにシオンの顔を見返した。


「何を支払えばいい?」

「うーん、まぁ、人探し程度なら、俺レベルの悪魔にかかれば一瞬だからな。目玉ひとつくらいでいいけど」

「目玉?!」

「お前の目玉は、澄んでいてうまそうだ」


 ペロリとシオンが舌なめずりをする。その様子に穂乃花は一歩後ずさりをして、首を振った。

 兄は見つけたい。兄のためなら、目の一つや二つとも思う。だけど自分が兄のために何かを失ったことを知ったら、戻ってきた彼はひどく悲しむだろう。妹のためなら、簡単に命を差し出すような人だった。


「あの、見た目に分からないような、他の人に気付かれないようなものにできない?」

「じゃぁ、心臓にするか? それとも魂か?」

「えっ」


 穂乃花はたじろぐ。死んでは元も子もない。


「別に嫌ならいいけど」

「ちょっちょっと待って! こ、これ、両親の形見なの。アレキサンドライトって言って、希少な宝石だから、高値で売れ」

「お前さ、金なんてくだらないものを、この俺が欲しがると思うか?」


 穂乃花の言葉を遮ったシオンは、呆れた顔で、パチンと指を鳴らした。途端、その手に札束が現れ、穂乃花は呆気にとられた。


「嘘……」

「悪魔舐めんな」


 困った。代償の話は聞いていたが、人探しくらいなら、ある程度のお金を支払えば済むものだと高を括っていた。


「あのぉ、体に害がない形で、他に何かない?」


 藁をもすがる思いでそう聞くと、シオンは穂乃花のことをしばらく見た後で、「じゃぁ、純潔をよこせ」と言った。


「じゅ、純血? それって、私の血を吸うってこと?」

「は? 俺は吸血鬼じゃねぇ!」


 途端、ひどく気分を害した様子で怒鳴ったシオンは、大きく舌打ちをついた。


「純潔だ。お前、処女だろ? それを俺によこせ」

「しょ……」


 その意味を理解し、絶句した穂乃花は、そのまま思考停止して固まった。

 自分の大切な初めてを好きでもない人に、いや、それどころか、人間ならざる者の手によって奪われるとは……。


「どうする? 俺も忙しいんで、さっさと決めてくれない?」

「本当に、それで兄を探し出してくれるのね?」

「あぁ」


 面倒くさそうに答えるシオンに対し、穂乃花は心を落ち着けようと、一旦深呼吸をした。兄が行方不明になった状況からして、人ならざる者が関与しているのは明らかだ。であれば、もう彼の力を借りるしかない。


「分かった。それで契約する」


 うなずいた穂乃花に、シオンは満足そうに笑った。


「よし、契約締結だ」


 シオンが言うと、穂乃花の額に紋章が浮き上がり、それは体に吸い込まれるように消えていった。

 こうして、穂乃花は自分の純潔を代償に、シオンとの契約を結んだのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ