第7話-二十六分の一
簡単に作った朝食を終えて、大導路は制服に着替え鞄を持って玄関の扉を開けた。外へ出て扉を閉めた時、部屋に伝わった微かな振動が洗面室に届いた。
…鏡は無残に割れており、割れたまま貼り付いていた鏡の破片の一つが、振動を受けてポロリと取れると洗面台に落ちた。洗面台には折れた歯ブラシが既に転がっており、それにぶつかって耳障りな音が無人の部屋に響いた。
それらは異変の残滓として、そこに残り続けていた。
※
「うす、おはよう」
登校して自席に着くと前席に座る園田が挨拶をしてきた。
「おはよう」
大導路は淡々と言葉を返す。挨拶に愛想が無いのはいつものことだったが、園田は何かを感じて大導路の顔を眺めた。
「どうしたい。朝から何かあったのかい」
「いや、何もないさ」
朝礼が始まり時間割通りの授業が進行した。授業が始まっても大導路は上の空で窓から外を眺めていた。
いつもここから見える青空が、今日もいつもどおり広がっている。視界を少し下ろすと校舎付近の住宅街が見える。この辺りには高層マンションやビルは無い。平坦に遠くまで景色が続いている。
ここから何キロ先まで見えているのだろう?一キロ…あるいは二キロ?
そんなことを考えているのは、授業が始まる少し前に思い出したからだ。
絶対者に与えられたもの『紅針盤』。
『能力』が実際にあり、夢では無いのだとしたら、それなら『紅針盤』は…。
大導路は左手の甲をじっと見る。ごく普通の手だ。絶対者は言っていた。手の甲を見て思えばいい。
これが最終確認だ。紅針盤、と頭の中で唱えた。
その瞬間、左手の甲の中央から赤い光が一点現れた。その光は一秒もかからずに全方位に伸びて広がり、手と同じ大きさほどの円盤の形となって浮かび上がった。
声を出さず身体も動かさず一切過剰な反応をしなかったのは、起動する際にある程度の覚悟をしていたからであった。
きっと夢じゃない。そう薄々気づいていた。
しげしげと円盤を眺める。円盤の中央には黄色い光の点があった。絶対者の説明通りなら、これが自分ということになる。
半径二キロ…。
今この瞬間、円盤に他の光の点が現れていたら、それは他の参加者がニキロ以内にいるということになる。
殺し合う相手が。
しかし今は中央の点以外何も表示されていなかった。しばらく円盤を眺めていたが、一分すると円盤は姿が薄れていき、消えた。
起動できるのは一日に五回。
また外を見る。今見えている街並みの二キロ以内には他の参加者はいない。
これから殺すか殺されるかする相手は、今のところは近くにいない。
殺し合うのだという実感はまるで無かった。夢では無いと分かっても、これから殺人を行わなくてはいけないということはまるで理解できなかった。
自分が歩むことになりそうな新たな人生の道。その異様さをまだ測れず、当然それに対する覚悟も抱けなかった。
※
「大導路、いつも以上に静かだな」
昼休み、自前の弁当を食べながら園田が話しかけてきた。
「いつも以上に心ここにあらずって感じだな」
「…今日はひどくぼーっとするんだ」
園田は大導路の顔を覗くが、気持ちの入らない声で返事することしかできなかった。嘘は言っていない。先程から思考がまとまらないのだった。
「なあ。例えばの話なんだが」
大導路が話題を切り出す。その珍しさに園田は目を丸くする。
「例えば、絶対者になれたらどうする」
「お前、もしかしてマジになりたいと思っているの?」
園田が呆れた表情で言葉を返した。前日の進路相談のアンケートの内容を思い出しているのだろう。本当に絶対者に執着しているのか、と言いたげな表情をしていた。
「ものの例えだよ。なれたらどうする」
「なんだか子供じみた話だな。ていうか絶対者になったら何ができるの?」
言われて大導路は呆然とする。
「何ができるんだろうな。教えてくれなかったから分からない」
また別の機会に追加の説明をするような口ぶりだったので、いずれは教えてくれるのだろう。しかし大導路の言い方が園田には度し難かった。
「何を言ってんだお前…まぁいいや。要は神様みたいなもんになったらどうするって話だろ。俺なら世界を征服するね」
園田は軽快な口調で答えた。大導路は眉をひそめる。
「世界を征服するって具体的にどうするんだ」
「具体的?具体的と言われるとな…」
大導路の意外な追求に園田は面食らった。この話題への大導路の興味の持ちぶりに戸惑っている。
「うーん、そうだな。じゃあ地球全部の核を没収して平和にするかな。そして世界中の首相やら大統領やら王様やらを俺の支配下に置く」
「それで?」
「それで?うーん。じゃあ各国からお金をテキトーに没収して、それで世界中の美味いものを食って欲しいものを買って贅沢する」
「園田、結局美味いものを食って欲しいものを買いたいだけなんじゃないのか。世界を征服する必要はあるのか」
指摘すると、園田は渋い顔で肯く。
「冷静に考えて、無い。考えてみれば政治も戦争も経済も興味が無かったわ。俺が絶対者になったら、ひたすら私欲を満たすために動くね。それで充分」
言い終えたあと思い出したように付け加えた。
「あと思いついた。ライブだ」
「ライブ?」
「日本に来日しない偉大なアーティストが世界中に御万といるだろ。見に行くのは結構な金と労力が要る…。語学力も欲しい。絶対者っていうか神になれば、そういった問題はあっという間に解消だろ。なんなら瞬間移動か何かしてライブ会場に移動できるかもしれない」
「ちゃんと考えた結果がそれなのか。ライブ巡りなのか」
「結局、神になるだの全知全能になるだのの行き着く先は、自分の幸せだろ。俺にとってこれがそうなんだよ」
園田は自信ありげな顔で語った。
「世の中には俺が見ることが無いまま引退したり、死去したりするアーティストが大勢いるわけだ。そう考えるとたまに虚しくなる。絶対者になれたら、きっとそんな虚しさとはおサラバだな。大導路、お前だって映画が好きなんだから俺の言いたいこと分かるだろ」
そう言って大導路の顔を見ると、大導路は極めて真剣な表情をしていた。
「大導路?」
「…そうか。これまで作られた全ての映画を観たりできるのか…?」
目を丸くさせている。まるで『スケールの大きさに気づいた』とでも言わんばかりの表情だった。
「すごいんだな、絶対者って」
突然我に返った大導路が、得心がいったという感じの表情で言った。対して園田は訝しむばかりだった。
「やっぱりお前、本当に絶対者というか神様になりたいと思ってんのか?あの都市伝説が完璧に事実だったとしてもだ。この世で一人だけなれるってんなら、お前がなれる確率は数十億分の一だぞ?」
「…まぁそうだな」
大導路は同意する。しかし頭の中では園田の言葉を否定していた。
数十億分の一ではない。今や二十六分の一だ。