第36話-『H』の『深淵』 その④
大導路が八方を脅威と感じていたのと同じく、八方もまた大導路を脅威だと捉えていた。
屋上から落とされても死なない能力の応用性の高さもさることながら、あの場面で諦めなかった気力の強さは十分警戒に値した。さらに再び戦闘に挑んできたことも考慮すれば、敵の精神力は尋常でないことが窺える。
強い、という率直な感想があった。
そのうえで自分は負けないという自信もあった。今の八方には恐れも躊躇いもない。
殺意解放、その選択は八方の行動のブレーキを無くしていた。感ずる想いをそのまま行動に移せる。敵を殺すという想いがそのまま殺人行為に移せる。洗脳ではなく自分の意志で行っているのだという自覚もあった。
抵抗感の無さが躊躇のない強く素早い動きに繋がっていた。
大導路が戻ってくる前に八方は屋上の床の各所に触れていた。今立っている場所の周囲には『深淵』によるトラップが張り巡らされている。
先ほど大導路が穴から飛び上がった時の動きを八方は抜け目なく見ていた。穴から大導路は真上に飛び上がって出てきており、そのためまた穴に落ちないように腕を伸ばして穴の縁にしがみついて脱出していた。
能力の内容は分からないが、穴から戻ってくる時に真上にしか飛び上がれないとしたら、そこには大きな隙がある。
自分との距離が近い時に穴に落として、戻ってきた時の隙を狙って直接触れて身体に穴を空ける。それさえ実行できれば大導路は血と内臓を穴からこぼして即死するはずだ。
一連の行為に何の躊躇いもない。勝つのは自分だ。
大導路が距離を詰めてきた。八方は悟られない程度に手を動かす。一度触れた箇所を指差せば穴が空く。
トラップまであと二歩、あと一歩。
その時大導路が止まった。
「…」
何かを考えている様子だった。
そして横方向へ素早く駆け出したかと思うと、八方の周囲を走り始めた。回り込んで八方の後ろを取る狙いのようだ。予想外の行動に八方は目を見開いたが、しかし身体を回して常に大導路が正面にいる状態を維持する。
大導路がぐるぐる回り、八方はそれに合わせて身体を動かすのが何周分か続いた。園田は状況についていけず、ただ八方のそばで怯えるばかりだった。
敵の動きに問題無く対応できていると八方は考えていたが、この時大導路は八方の微妙な手の動きを見て、穴を空ける時は手で何らかの合図をしなければならない、という条件を看破していた。
何周かしたあと大導路は止まった。数歩後ずさる。
来るか。八方も集中する。大導路が立っている場所と八方の間には触れた箇所が複数あり、八方から手前三メートルあたりの位置は広範囲で穴を空けることができる。
仮に大導路がトラップを読んで飛び越えようと考えていたとしても、常人が飛び越えられる長さではない。
大導路が走った。想定したどおりの動きに八方は勝利を確信する。まずは落として同時に落とした穴に接近、飛び上がってきたところを直接攻撃で一撃だ。
しかし八方の想定は一瞬で超えられてしまった。
大導路が速すぎる。
走り始めた次の瞬間には、短距離アスリートのごとき恐るべき速度を出した。一介の学生の走りではない。
八方が慌てて床を指差す動作を見せたが、それが大導路への合図となってしまった。
大導路は跳んだ。速く、高く、遠く跳んだ。
トラップとして設置した広範囲の穴を全て越える勢いだった。
罠が壊滅した、一瞬間のうちに気づいた八方だが戦意は衰えず、次の瞬間には全身を身構えて直接攻撃の心積りをした。
落とすことに固執する必要は無い。敵が着地した瞬間に迎え撃つまで。大導路が蒼刃を突き刺そうとしてくるところを、カウンターの『深淵』でとどめを刺す。
大導路がバレないように何かを握っていることに、八方は気づいていた。握っているのは蒼刃で、着地と同時の一撃に賭けていると予想した。
しかし着地してからの攻撃、ではなく跳躍中の攻撃だとは予想できなかった。
大導路は跳びながら物を放った。それは蒼刃ではなく、複数のカッターだった。
それらを視界に捉えた八方は、どこでそんなものを…と疑問が浮かんだが、教室に飛び込んだ際に拾った物だとすぐに解を得た。
目を守るために本能的に両手をかざして防御の態勢を取る。広げた手に複数のカッターの刃が突き刺さった。
「ぐっ!」
無口な八方も流石に悲鳴をあげる。
しかし次の瞬間には手に刺さっていたカッターが消滅していた。
『深淵』を発動させ、その効果範囲より小さいカッターは存在を丸々消失させていた。
他に二本のカッターが八方の上着に刺さり軽い刺傷を与えたが、八方の関心はそこではない。
ドン、と床を強く叩くような音を出して、大導路が眼前に着地した。
大導路が立つその場所は『深淵』によるトラップを仕掛けていない。自身が落ちることを懸念して至近距離には仕掛けていなかった。
八方は接近を許してしまった不覚を覚えつつ素早く手を伸ばす。狙いは大導路の身体の中心である胸部。そこに触れれば勝てる。着地の衝撃で大導路の方が動きが遅いはずだ。
しかし伸ばした手は空ぶった。大導路は身体を捻りギリギリで八方の手を避けて、逆襲の拳の一撃を八方の顎にくらわした。
八方は受け身も取れず思い切り倒れる。大導路はその様子を見下ろしていた。
※
「園田、大丈夫か」
「あ、ああ…」
八方のそばで屈んでいた園田に声をかけると怯えながらも返事が来た。
人質の救出に成功した、という手応えを大導路は感じていた。
まさかこれほどとは、とも思う。走り幅跳びの要領で跳んだジャンプがあれ程の距離になるとは。
『借りた力』がこれほど強力だとは。
八方が立ち上がり、口から垂れる血を手で拭いつつ大導路達のやり取りを睨みつけていた。
一見チャンスではあったが八方への追撃は行わなかった。敵能力による床のトラップを考えると不用意には近づけない。
目が合った時に八方から強い戦闘の意志を感じた。能力を見破り罠を看破し、一撃を食らわせてもなお心は折れていないようだ。殺意解放が自身の死への恐怖を鈍らせているのかもしれない。
「お前たち、何をやっている!」
突如、屋上に入ってきた教師の怒声が無ければ、八方は大導路に向かって突進していただろう。
大導路の屋上からの落下、そして屋上に上がっていったところを目撃した生徒が通報したのか、ここに辿り着いた教師は混乱と怒りが混ざった複雑な表情で大導路達を見ていた。
八方は教師に一瞥をくれ、次にもう一度大導路を見て再度強い視線を送ったあと、屈んで足元の床に触れた。
次の瞬間には足元の床は円形に穴が空き、八方の姿が忽然と消えた。
下階に落ちたのだ。
意味不明な退出の仕方に教師はうろたえているが、大導路は八方が屈んだあたりから何をするのか予想できていた。制止しなかったのは敵の撤退を大導路自身が望んでいたからだ。これ以上は戦いたくなかった。
強力な能力、そしてブレない殺意、恐るべき奴だ、と賞賛にも似た脅威を覚えていた。
相手の濃厚な殺意に対して自分には殺意が無かった。その気力の差でよく生き残れたと安堵する。
しかしこの短い時間で何度も死にかけた。今生きているのは運の良さによるところも大きい。
いよいよ考えねばならなかった。不殺の意志では今後絶対に生き残れない。
生きるとは戦うこと。生き残るためには戦い続けなければならない。今自分が巻き込まれているこの戦いは、命を差し出す気合で命を奪わなくては成立しない。
自分は、本当の意味ではまだ戦っていないのではないか。
「お前ら、これはどういうことだ!」
混乱から冷めつつある教師が近づきながら叫んでくる。
「園田。あの教師には俺とお前は面識が無くて知らない生徒だと言っておいてくれ」
「え?」
「なんなら校内で見かけたことがないので制服を拝借した別の学校の生徒かもしれない、くらい言ってくれて構わない」
「どういうことだよ」
「機会があれば説明する」
そう言って大導路は、八方が落ちた穴に自身も落ちた。追いかけるわけではない。落ちる前に紅針盤を起動して、既に八方が校舎を出るところであることを把握していた。
八方と考えは同じだ。面倒事はごめんだった。今は逃げるしかない。
しかし日常を守るために戦ったのに、結果的に大事になってしまった。
もう学校には来れないな。校門めがけて駆けながら、大導路はぼんやり思った。
『H』Hollow…『深淵』(ザ・ホロウ)
能力者:八方 破孔
手で触れた物体に対して発動できる。
対象物について触れた場所を中心に半径一メートル、奥行一メートルの範囲で消滅させる。対象物が効果範囲より小さい物体の場合、完全に消滅させる。効果を与えるのは対象物のみで周囲の物体には影響は無い。
触れた対象物について触れてから五分以内、二十メートル以内の距離であれば、指差すことで同様の効果を発動できる。




