第35話-『H』の『深淵』 その③
もはや助からない。
空中で落下している状況で何かに掴まることはできず、触れることすらできない。
ただ落下していくしかない。
校舎は四階建てで屋上から地上までは十五メートル以上はある。重症に留まり生還する可能性も無くはないが、殆ど絶望的な高さだった。
大導路は真っ白になっていた。何も考えられなかった。恐怖や悲鳴が生まれる直前の、リセットされた無垢な思考があった。
刹那の空白の後に来たのは恐怖だった。大導路の脳内に耐え難い恐怖が溢れ出た。
一方でまた別の感情が、思考が生まれていた。
常識的に考えてもはや絶対に助からない。
常識以外の手なら、まだ目がある。
大導路は落ちながら腕を真横に伸ばした。校舎の方に手を向ける。
チャンスは一瞬、そして一度きりだった。
集中に割く時間は無い。生きたいという本能が見せる直感、そして運を信じるしかない。
『方向』を発動させた。
落下エネルギーの方向を真横に転向させる。
狙いは校舎の硬いコンクリートの壁の合間にあるもの、窓だ。
時速数十キロまで加速して落下していた大導路の身体は、突如九十度の角度を切って真横に吹っ飛んだ。
そして派手に窓ガラスに突っ込んだ。
「きゃあああああ!」
女子の金切り声が聴こえる。ガラスをぶち壊して突如教室に飛び込んだ大導路は綺麗な着地などできるわけもなく、机や椅子にガンガン衝突しながら不格好に床につんのめった。
昂った神経が五感を掻き乱している。周囲の女子達の高い悲鳴が死ぬほど耳障りだった。
胸が裂けて出てきそうな程強烈な心臓の鼓動が、一定の間隔で痛みを与えてくる。目と口内が尋常じゃないほど乾いていた。
そういった感覚の後にジワジワと、鈍い痛みと鋭い痛みがそれぞれ全身から伝わってきた。教室に転がり込んだ際に全身を嫌という程打っており、割れたガラスが腕や肩に刺さっていた。
しかし生きていた。全ての感覚は生きていることの証明だ。
そしてやるべきことがある。
「昼休みに…大変な邪魔をしたが…どいてくれ…行かないと」
囲んでいる生徒達に退くよう促して人混みの輪から抜け出た。周囲を観察してここが一年生の教室であり、二階であることを知る。
行かなくてはならない。
今屋上にいるのは八方と園田。目撃者である園田を八方が放っておく訳がない。
今一度、戦わなくてはならない。
※
傷ついた身体で神経もやられているが不思議と気後れは無かった。
むしろ一秒でも早く向かわねばという気持ちに駆られていた。
落下していた時、こちらを見下ろしている八方の姿がわずかに視界に入っていた。
それならば見て気づいたはずだ。地面に激突することなく脱出したことを。
そして再び上がってくる可能性も考慮すれば、八方が取るべき手段は想像ができた。
息を切りながら一気に上り、屋上の扉を蹴って開けた。
やはり、と思った。
視界に入ったのは依然としてその場にいた八方と園田の姿だった。園田は床に膝をついており、その首筋にピタリとナイフが押し付けられていた。
八方は果物ナイフを再度手に入れて園田の身動きを封じていた。大導路がやってくる予感を抱いていたのか、大導路が上がってくる前から扉の方向を睨んでいたようだ。
やはり来てよかったと、大導路は不思議と安堵した。
来なかったら八方は目撃者である園田を殺していただろう。
それを平然とやる冷酷さを八方が持っていることに、戦いを経て大導路は気づいていた。
躊躇ない行動、殺人行為を犯しても動揺しない態度。八方は『殺意解放』を行っている、と推察できていた。
園田は怯えた表情でじっとしていた。ナイフを突きつけられているという状況が理解できなさすぎて、萎縮してしまっているようだ。
「園田を放せ」
言い放ったが八方は殆ど反応しなかった。隙の無い態度で大導路を見ている。
交渉の余地は全くなさそうだ、と諦めつつ、どうすべきか手を考えていた。八方を刺激しないように扉から離れて少しづつ距離を近づける。
どうあれ遠距離のままでは何もできない。一歩、二歩と慎重に歩いた。その時だった。
ガクン、と急激に体勢が崩れた。突如として落下感が押し寄せてくる。
一体何が。そう思考している刹那のうちに、大導路の身体は一瞬で床に沈んだ。
倒れたのではない。落ちたのだ。
足元に急に空いた穴が吸い込むように大導路を下階に落とした。
昨日と同じだ、と瞬間的に大導路は理解した。昨日、自席が崩落した時と同じ事象だ。
大導路の姿が、屋上から消えた。
「…」
落ちていく様を見ていた八方だったが、緊張は一切緩めていなかった。
それゆえに姿を消して二秒程度で、穴から勢いよく大導路が真上に飛び出したのを八方は見逃さなかった。
「!」
目を見張る八方、対して大導路は飛び出た時の体勢をどうにか動かして、穴の縁を掴むと落ちないように力んで床に転がった。
『方向』で落下のエネルギーを真上方向に転向していた。
落ちながら真上に腕を向けて能力を発動したことで、屋上から突き落とされた時と同様に、今度は上方に転向してロケットの如く上昇することができた。
大導路の額に汗が一筋流れる。落ちながら正確に手を上に向けるのは困難だった。今の攻撃を完全に攻略したわけではない。これ以上食らうのは何としても避けたかった。
もし能力の使用が間に合わなければ丸一階分、ろくに受身も取れないまま落下することになる。死にはしないだろうが負傷は避けられない。
焦る一方で、大導路は敵の能力の性質をほぼ理解しつつあった。
『物体に穴を空ける能力』。
教室や屋上の床や金網がくり抜かれたように穿たれていた。その事実こそ能力の正体そのものだ。
そして発動条件が触れることであることにも気づいていた。
直接触れるのが条件、そして一度触れていれば、穴を開けるタイミングはある程度操れるのだと考察していた。
金網は触れた時に穴が空いた。しかし教室や屋上の床が空いた時は、触れられていない。
目線を向けるだけで穴を空けられる、あるいは何の条件も無しに空けられるなどの推理もできたが、しかし今この瞬間に立っている床を空けられていないのは恐らく条件を満たしていないからだ。
すなわち一度は触れていないといけない。これが発動条件だと推理できていた。
昨日、八方が大導路の教室から出てきたのも、自席が置いてある位置の床を触るためだったと考えれば辻褄が合う。
能力の全容を掴むとともに、その性質の凶悪さに戦慄する。
しかし攻略の糸口はある。
大導路は冷静だった。二度も落とされて人質も取られている。難局ではあったが不思議と勝利の予感をイメージすることさえできていた。
これが相手の能力の全貌だとしたら、勝機は十分にある。




