第34話-『H』の『深淵』 その②
「園田、今は事情は話せない。とりあえずここを去って且つ誰にも言わないでほしい」
「ええ…だってお前ナイフ…」
園田が躊躇っているうちに、八方がこちらに向かって駆け出した。左腕に深々刺さっていたナイフを抜いている。
まずい。
ナイフの攻撃は十分な成果を出した。この状況で脅しをかけることで八方を撤退させられることもできるのではないか、と淡い期待を抱いていたがその狙いは脆くも崩れ去った。
八方は戦う気だ。そして武器を渡してしまっていた。
シュ、という風切り音を大導路は聞いた。自分が避けた直後に、すぐそばから聞こえてきたので身体が凍る思いをする。
一気に詰め寄ってきた八方は大導路めがけてナイフを振り回してきた。かわした直後には次の一撃が来る。
距離も常に詰めてくるので、後退し続けて距離を取る。恐るべきナイフの連撃に大導路は戸惑った。相手の身体能力が想定していたより高い。
戦闘が開始して早々に誤算に気づくが、それでも確実にナイフを避けていく。
左腕の負傷は明らかに八方のバランス感覚にも影響を与えていた。腕をあまり動かさないように意識した動きが、結果的に思い切りに欠ける一撃となってしまっている。
ギリギリではあるが避けられる。若干の優位を感じ始めた瞬間、背中にガシャッと音がして接触を感じた。
屋上の金網にぶつかったのだ。八方のとまらぬ攻撃は容易に大導路を追い詰めた。
まずいと思う一方で、意識を集中させるならここだという予感があった。八方が振るう次の一撃を余すとこなく見極めなければならない。
退路を失った大導路に対して、八方は一直線にナイフを突いてきた。
ここだ!
大導路は左手で手刀を繰り出した。八方に対して真横からの反撃だったが、狙いは八方ではない。
狙いは、八方が真っ直ぐ向けてきたナイフの横腹だった。
大導路の指先とナイフの横腹が触れた時、発動した。
『方向』の発動。
触れた物体の運動エネルギーの方向を、手が向いている方向へ変える。
真っ直ぐ向かっていたナイフは大導路の手の方向に従って、唐突に真横へエネルギーを転向した。
八方はナイフに与えられた突然のエネルギーを抑えることができず、ナイフは握っていた手から抜けて横にすっとんでいった。
よし。大導路は手応えを感じていた。
しかし八方の傷ついている左腕がナイフに続く第二の攻撃として向かってきたと気づいた時、その余裕は消し飛んだ。
何かを握っている。握っていたのは蒼刃だった。刃は出ていない。
大導路も残る右腕で止めようと試みたが間に合わず、蒼刃の鞘は大導路の腹部に衝突した。
「ぐっ」
勢いよく突き立てられた際の衝撃を感じたが、大導路が恐怖を覚えたのはその衝撃ゆえではない。
腹部に当たった次の瞬間、鞘から蒼い光がほとばしり大導路の身体を貫いたためだ。
「うおっ!」
思わず声が出た。痛みは無い。貫かれたことによる感覚も無い。何の異常も無かったが、それは腹部だからだ。
これは、死ぬほどまずい。
まさに死ぬほどだった。大導路は慌ててナイフを弾いた左腕を戻して、八方の手ごと鞘を上から押さえつけた。対して八方は逆に、ナイフを握った手を上方に向けて強く力ませた。
大導路の腹の中で蒼刃の刃が僅かに上がったり下がったりしていた。この刃がさらに数十センチ上がり、心臓に刃が届いた瞬間に即死する。
死まで残り数十センチ、どう考えても焦る場面だった。八方もナイフを持っていた片腕を戻して両手で鞘を握った。
お互いが両腕に全力を込めて蒼刃を動かそうとしている。
力は敵の方が上。その致命的な事実を感じつつあった。
大導路は全身の力をこめて押さえつけていたが、それでも蒼刃は刺さった地点から数センチ程上がっていた。
体重をかけているにも関わらず、拮抗状態は破られそうになっていた。少しでも油断すれば蒼刃は勢いよく駆け上がり、大導路の心臓を通り抜けるだろう
。
八方が軽く腰を落とした。さらに力をこめる気配だ。状況を変えようにも八方と後ろの金網に挟まれ、隙間が狭すぎてとても逃げ出せない。
八方が背伸びするくらいの勢いで身体を跳ね上げた。全身を使った攻めだ。
今だ!
大導路は蒼刃を押さえている両手の角度を変えて、手先を下に向けた。握りを変えたことで力は緩み、蒼刃を握る八方の手が大導路の手ごと上昇した。
『方向』の発動。
八方の両手が下方へ突然の急加速して、釣られて身体ごと真下へつんのめった。八方は予想していない身体の動きについていけず両膝を着いてしまう。
『方向』により、八方の手は大導路が手で指していた方向、つまりは下方へと動かされた。勢いが強いのは、それだけ八方の膂力が強かったということだ。
崩れ落ちた八方のうなじを見て、無防備だと大導路は思った。ブレザーのポケットには自身の蒼刃が入っている。取り出して刃を出して、後頭部に突き刺す時間の余裕は十分あるように感じられた。
しかし殺意は固まっていなかった。
そしてそれが、致命的なミスだった。
八方が突如、素早い速さで右手を真っ直ぐ突き出した。大導路は身体をひねって寸前のところで避ける。八方の手は大導路の背後にあった金網を掴んだ。
瞬間、金網が僅かに金属音を出して、円形の穴をぶち空けた。八方の手を中心として半径一メートルほどの穴だった。
何が起きたのかを考える余裕も無く、大導路は八方の追撃のタックルをくらった。ろくに抵抗もできないまま、吸い込まれるように穴を抜けて金網をくぐってしまった。
金網の先は、屋上の縁だ。
「う、うお」
どうにか体勢を直そうとした時、腹部に衝撃を喰らった。八方が立ち上がりつつ回転して放った後ろ回し蹴りだ。
ダメ押しの一撃をくらって大導路の身体は屋上を越えて足場を失い、空中に躍り出た。
躊躇という判断ミスが死を誘った。
屋上の縁に立ち見下ろしている八方の目に映っているのは、地面に一直線に落ちていき姿が小さくなっていく大導路だった。




