第3話-都市伝説
四年ぶりの新たなメッセージは、以前のように頭の中に届くようなことはなかった。極めて精神的な干渉であった四年前と比べて今回は極めて物理的だった。
テレビで流れたのである。
放送局もチャンネルも関係なく、電源が入っているか否かに関わらず、世界中の全てのモニターにメッセージが流れた。
『私は今、世界中の人間に言葉を送っている』
『これから誰か一人に絶対的な力を与える。その者はあらゆる力を行使することができる。水や炎を生むことも。風や草木を起こすことも。光も闇も、人も動物も、身体も心も、過去も未来も、全てを自由にする権利を得られる。この力を誰か一人だけが得られる』
『私は何人かの者を選定する。その者達で競い合ってもらう。勝った一人が私と同じ力を得られる』
『選定は今から始まる。選ばれた者達は、私と会うことになるだろう』
最後の言葉が流れた後、モニターは平常に戻った。ニュースを流していたテレビはニュース番組に戻り、電源が落ちていたテレビは最初から何も動いていなかったのように、しんと静まり返った。
モニターを見ていた者達は全員固まっていた。モニターの向こうで生放送していた芸能人達も一同固まっていた。
世界中の全ての放送が一分程度、何者かに奪われたのだ。
何者だろうか。答えは多くの人が知っていた。四年前にも感じたからである。
『神』だ。世界は再び混乱に包まれた。
四年前の集団ヒステリーが再び発症したのだと誰かが説明したとして誰が信じるだろうか。実際に専門家や政治家もそうした発言は行わなかった。彼ら自身も気づいていた。説明しようもない、途方もないことに人類が襲われているとことに。
異常性を証明したのはメッセージの消失だった。多くの人がモニターに映ったメッセージを撮影したり録画したりしていた。しかし後々に再生してみると何も映っていなかった。真っ黒な映像だけが記録されており音声も取れていなかった。
今回のメッセージも何らかの媒体に保存することはできず、人々の見聞で残るのみとなった。
それゆえに異常、それゆえに神憑り。
人々は四年越しにようやく確信した。
この世に神はいる。あるいは神的な『何か』がいる。
ではメッセージの真意は何なのか。各々が解読に奔走した。
言葉通りであるという見方が大勢の意見だった。つまり神か神的な存在は、誰かに力を渡すためにその者を決める『競い合い』を密やかに行っているのだ。メッセージはそれを始める開幕の号砲だ。
そう推測はできても常識で凝り固まった人々には実感が湧かない。この世界のどこかで神話で描かれるような競い合いが起きているという想像は、どうしても頭のどこかで拒絶してしまう。
しかし常識はもはや無意味なのだ。この世界が非常識を垣間見せたのだから。
多くの人がこのあとの展開を期待していたが、今回もメッセージ以上のことは何も起きず、何も生じず、神的存在は現れなかった。そして世界はまた日常へ戻った。
それでも一回目の時とは違い、世界中の人間の多くが神的存在は実在するのだと信じるようになった。
いつしかこの神的存在のことを、メッセージで出てきた言葉を引用して『絶対者』と呼ぶようになった。
※
『三度目』はあるのだろうか、世間はその予想で大いに賑わった。きっとあるはずだという予想が大半を占めていた。
一度目から四年後に二度目があったのだから、次もまた四年後だと主張する者が多くいた。これから延々と四年おきに現れると予想する者もいた。
結果的には、事態は単純ではなかった。
一九九二年、三度目の絶対者は現れなかった。何も起きず、夏が過ぎ、冬が過ぎて一九九三年になった。
規則的な間隔では無いと主張する者の意見が主流になり、人々はいつ三度目が起きるのかと戦々恐々だった。
真実は誰にも分からないまま一年が経ち、二年が経ち、そしてさらに四年後の一九九六年。
何も起きなかった。
多くの人達の恐怖を杞憂に変えて、多くの人達の期待を無下にして、何も起きず現れなかった。
一九九六年に異常が起きなかったことを皮切りに集団ヒステリーという主張の声が再び強くなり、そして五年、十年と何も起きないうちに一連の事象は思い出話になり、都市伝説に形を変えていった。何の映像も写真も音声も残っていないことが風化を早めた。
人類史上最大の出来事と呼ばれていたこの事象は、ただのオカルティックな事件へと縮小されていった。
一時は世界の大半が信じていた絶対者の存在も、時間の経過によって架空の存在、夢幻の存在という概念に落ち着いた。
日本国内でも、一連の事件や騒動はオカルト雑誌やインターネットでしか扱われないネタに変わっていった。
…そして今年は二〇二〇年。
四年周期の説でいえば、当年にあたる年である。