第10話-窮地
まずい。
「気のせいだろ。ただたまたまそういうポーズを取っていただけさ。俺はもう行くよ」
急いでここから去らなくては。後ずさりしている場合ではない。振り返って男に背を向けると限りなく早く、競歩のような足取りで素早く離れ始めた。
「待てよ」
背後からまたも声がかかる。それを無視することは極めて危険だと、そう感じてしまう声質だった。
振り向くと男は既に立ち上がってこちらを向いていた。依然として左腕を胸の高さにまで上げている。
「十分だ」
睨む男の目から浮き出ている感情は、大導路がこれまでの人生で受けたことが無いものだった。
強い敵意。
「十分、理解したよ」
時計を見るような仕草、いま相手がしているポーズ…。何が起きているのか、男が何をどう理解したのか、大導路は全てを悟った。
今、相手も紅針盤を起動したのだ。
男が右手をこちらに向けた。向けられた右手の真意を理解する前に、本能的にその場から後ろへ跳んだ。
その動作は正解だった。突如として男の右手から炎が現れ、ホースから放たれる水の如くこちらへまっすぐ向かってきた。
伸びた炎はさっきまで立っていた場所まで届いた。眼前の空気の気温の上昇を感じる。立ちどころに目が乾いて肌が火照る。男の手から出た炎は数秒間放出されたあと、小さくなって消えた。
「まさか他の参加者も現れるとはな。いやむしろこんな騒ぎを起こしているのだから、そりゃ現れるか。案外、あいつとお前以外にもこの辺りにいたりしてな」
男が独り言を呟いているが、こちらは事態を把握するので精一杯だった。
炎が手から出た?状況の解を得る前にどんどん事態は発展していく。
男は再度手をこちらに向けた。今度は人差し指だけを向けてきた。挑発、示威行為、いやそんなものではない。
「お前がどこの誰かなんてのはどうでもいい。重要なのは事実だ。俺は昨日絶対者に呼ばれて能力者になった。お前もそうだろう。あの中にいたのだろう。そして俺達は殺し合わなければいけないと言われた」
指先に炎が灯った。
「それが全てだ」
そして射出された。
それはまるで投石のようだったが、炎を纏った何かではなく完全な炎そのものだった。野球ボールくらいの大きさの火球だった。
大導路は身体を精一杯よじる。コンマ一秒前に身体があった空間を火球が通過した。背後にある住宅の壁にぶつかり、衝突音はしなかったが壁が燃える音を出し始めた。
まずい、まずすぎる。
ひねった体勢を戻すと駆け出した。慎重に去る必要はもはやない。正体はバレた。
路地を走る。この状況を見て通報してくれそうな通行人の存在が欲しかった。まず人通りの多い所へ行かなくては。
通行人がいて通報してくれたところで男が攻撃を止めるという保証は全く無かったが、しかし今は逃げるしかない。
狭い路地の出口まであと十メートルほど。脱出の希望を感じ始めたところで視界に突如、何かが入ってきた。上からだった。
ドシャッと崩れる音を出して眼前に着地したそれは、古新聞の束だった。
先程は消火されていたが今は轟々と燃え上がっている。それも尋常ではない燃え方だった。
ガソリンでもかけたのか?思わずそう考えるほどの猛火だった。
路地を抜けようにも目の前に落ちた新聞束が大きな火柱を上げている。狭い路地で通り抜けるのは危険だった。
「よく燃えているだろう。炎と熱を十分こめたからな」
もたついているうちに男が追いついてきた。新聞束は男が投げたのだろう。
男の解説は全く意味が分からなかったが、理解させようという気など男には無いのだろう。
「これで終わりだな」
男は再び人差し指をこちらに向けた。火球を放てる指だ。そしてこの至近距離。
避けられない。
死、焼死。自分が焼け死ぬなどと想像したことがあっただろうか。しかしそれは現実になりつつある。
残酷な現実に急にのしかかられて、大導路の全身に強い悪寒が走った。死ぬ。死んでしまう。
その時、何かが目の前に飛び出た。
人だった。
大導路の横をすり抜けて男の間に立った何者かが、両手を広げて仁王立ちをしている。
何者かは顔を男の方に向けているので、大導路には正体が分からない。
「…来ると思っていたぜ。お前は偽善者だからな」
男が話しかけていた。その声は大導路に対する殺意の籠った冷酷な声質でななく、どこか喜んでいるような、感情的な声だった。
そして指から炎が放たれた。火球は何者かの身体に真正面からぶつかった。
膨れ上がる熱気、暴力的に飛び散る火の粉。大導路は思わず目を覆った。目の前で誰かが死んだ。そう思った。そう思わずにはいられなかった。
しかし薄目を開けて前方を見ると、何者は依然としてそこに立っていた。倒れておらず、また負傷で弱っているようにも見えない。
「噴上…」
突如として女性の声が聞こえた。前方からの声だった。
「安在、その力は…『攻撃を吸収』したのか?」
男が返事をした。つまり男の名前が噴上ということだ。
「炎を吸収したのか。なるほど面白いな。だがそりゃ人を殺す力じゃないな。お前らしい力だ。だから俺には勝てない」
噴上は手の平を安在に向けると、またも手の平から炎が吹き走った。
まるで火炎放射だ。それが安在という女子に直撃したが、安在は若干身をかがめた程度でそれ以上の抵抗を見せなかった。肌も髪も一切焼けていない。服も無傷だ。
「うっ…」
しかし呻くような声を大導路は確かに聞いた。
「無敵じゃないだろう。吸収に限界はあるんじゃないのか?」
噴上の挑発的な言い方に対して、安在は何も返さなかった。その代わり炎に全身を当てながら振り向いて大導路へ叫んだ。
「走って!」
「…君は!?」
「いいから!逃げて!」
言われて素直に逃走を図った。もとより逃げる算段だったのだ。改めて路地の出口を見ると、炎上していた新聞束の炎は殆ど消え失せていた。助けに現れる前に消してくれたのだろうか。
噴上という男の炎を消したり出したりする能力。それを打ち消す安在という女の能力、分からないことだらけだったが今は思考の時ではない。
一目散に走った。すぐ後方から足音が聞こえるのは、安在がついて来ているのだろう。
一方で炎が吹き荒れる風音も聞こえてきた。噴上の追撃と思われたが、しかしこちらまで炎は届いていない。安在が一手に受け止めてくれているのだろうか。
路地を抜けた二人は通りを見回すと、先ほどの修羅場が嘘のように通りはごく普通の日常が広がっていた。通行人も何人かおりごく普通に歩いている。
非日常と日常の温度差に目眩が起きそうになりながら、さらに走った。とにかく逃亡するしかない。安在もそれに追従した。
噴上が追いかけてくることはなかった。やはり衆目の前では攻撃しにくいということか。
全速力で走っている男女に対して、通行人達は怪訝な顔で見てきたがそんなことを意に介している場合ではない。五百メートルほど全力で走ったところで、どうやら助かりそうかも、という安心の気持ちが生まれ始めた。
依然走りつつではあったが振り向いて後方の安在を見た。口を開けて息苦しそうだったが、こちらもまだ走るのを止めるつもりはないらしい。
「助けてくれてありがとう」
最初にお礼を言った。色々状況は不明だが、状況的に助けられたと考えて間違いないだろう。




