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カフェ、ミエルから徒歩で十五分ほどのところに長部探偵事務所は建っていた。途中のコンビニで佐村はサンドイッチとウーロン茶を買い、歩きながら頬張っていた。すれ違う人間があからさまな嫌悪を込めて佐村を見やるが、佐村は少しも気にしていないようだ。
門野麻恵は長辺探偵事務所で働いている一探偵という話だった。今回は長部の事務所の中から門野を指名しての依頼ということになる。
事務所の中はエアコンの調子が悪いのか蒸し暑く、暑さでいらいらしているのか、それともそれが常なのか、不機嫌そうな四十代くらいの女性が無言で出迎えてくれた。
細身で長身、長い首の上に乗っているのは小さな美顔だ。見様によっては三十代といっても通用しそうな外見だった。
秘書だろうか。どこかで会ったことがあるような気がしたが、思い出せない。
グレーのスーツを見事なまでに着こなしたスタイルのいいその女性は、円を観察するように頭の先から爪先まで視線を這わせ、投げやりという表現が的確な口調で言葉を吐き出した。
「依頼に来たんじゃないの? それともただ、からかいに来ただけ?」
きつい性格が表情のみならず全身から滲み出ているため、円は彼女の気をこれ以上逆撫でしないように、丁寧に頭を下げてから事務所に入った。
ところが佐村は円とは真逆に位置する人間だ。思ったことを黙って溜めておけない。
「おいおい、一応客だろ俺達は。そんな態度じゃせっかくのお客様が逃げちまうぞ、おばさん」
おばさん、の部分だけ強調して言うものだから、場の空気が一気に氷点下になった。この状態で仕事の話をしなければならない円の気など知ってか知らずか、佐村は隣でのんきに足を組みくつろいでいる。本当になんのために付いてきたのか、この男は。
「それで、話というのは? 私が門野麻恵よ」
嫌々仕方なく、といった感じでアイスコーヒーを持ってきた女性、事務所に迎え入れてくれた人こそが門野麻恵だったようだ。
長い脚の上で組まれた門野の指は細く、まるでモデルのようだと円は思った。左手の薬指に白くリングの痕のようなものが残っていたが、話題にするのも不躾だと思い、円は仕事の話を切り出した。
「それで両親は硝子の館に向かったんですが」
「……硝子の館?」
聞き慣れない名称が引っ掛かったのか、門野が聞き返してくる。「祖父が建てたものです」とだけ答えておいた。
仕事内容から成功報酬までしっかりと聞き終えた彼女の顔からは先ほどまでの不機嫌さは消えていて、むしろどこか清々しいような空気さえ滲んでいる。
空になった佐村のアイスコーヒーのグラスを見て「お代わりはいかが?」と気を遣ってくるなど、出会い頭の彼女の様子からすればあり得ない変化だ。
円はなぜ彼女が急に態度を変えたのか気になりながらグラスに手を伸ばす。
「あ……」
グラスに浮いた結露で手が滑り、机の上にアイスコーヒーを零してしまった。あっという間にテーブルの上を伝い門野の方まで伸びて行く褐色の液体。
門野の顔が引き攣ったように歪み、わずかに舌打ちしたのがわかった。すぐに取り繕った彼女は、布巾を持ってきてテーブルの上を綺麗にする。
「す、すみません……」
肩身を狭くして謝る円に、門野は今日初めて見せる笑顔で返して来た。
「ご両親のことが心配ですものね。気が散っても仕方がないわ」
やはりこの女性は苦手だ。早めにこの場を去りたい。こちらが伝えた日程や予定、条件に対しても門野の方から意義はないようなので、円は早々に事務所を出た。
「緊張しました」
外の空気がこんなに美味しく感じるのは、門野が発する圧力が相当息苦しかったからだ。
「あの女、相当金に困ってるな」
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
「あの指輪の痕を見ただろ。つい最近、長い間はめていた指輪を外した痕だ。離婚したか、質に入れたか、もしくは相手に嫌気が差して自分から外したかしたんだろ。探偵ははっきり言ってどんどん金が入ってくるような職業じゃない。男と縁を切ったのが最近なら、探偵業なんかに身を置いているあの女は金に苦労しているはずだ。神無木の金回りがいいと知るや否や態度が豹変したのはそのせいだろ。一瞬だけ見せた舌打ちした時の顔が、あの女の本性だよ。大方あれは服を汚されたくなかったんだろ。クリーニングに出す金か新調する金が惜しかったのさ」
探偵とはわずかな情報から沢山の情報を引き出せるものなんだな、と円は感心した。
次は百瀬千代丸の探偵事務所だ。表通りで暇そうにしていたタクシーを拾う。行き先を伝えると辛気臭そうな顔をした男性運転手は、無言で車を発進させた。
「どう思う?」
後部座席に隣り合って座っていた佐村が、顔を前に向けたまま問いかけてくる。
「何がですか?」
「今回、雇われる探偵の性質だよ。ばらばら過ぎると思わないか」
「確かにこの人で本当に大丈夫だろうかと不安になるような人もいましたけど……父の友人が選んだからには何か特殊な能力を秘めているとかじゃないんでしょうか」
「どこのご都合漫画だよ、それは」
佐村の言う通り、現段階ではこの人選に首を傾げざるを得ないのは確かだが、きっと何か深い意味があるに違いない。
「多分ですけど、皆さん得意分野が違うんですよ」
「随分と幸せな頭をお持ちのようで」
当てこすりを言って、佐村は視線を窓の外へ投げた。それから目的地へ着くまで車内は無言だった。
全員探偵か元探偵であることに関しては、謎の多い硝子の館へ行くのだから、捜査や推理に長けた人間を徹底して選んだ意向はわかる気もするが、手紙の差出人の意図は依然として謎に包まれたままだ。