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待ち合わせ場所である駅前のカフェ〈Miel〉に到着したのは、午後十二時二十三分だった。予定の時間より七分早い。待ち人がいなければ軽食でも口にしながら待とうと思い、アンティーク風の木製ドアを引き開けるとカランとドアベルが鳴った。
店内は女性客が大半を占めていたが、その中で目立つ一人の男性客が店の奥の席に腰掛けていた。ドアベルの音に反応した五十代前後と思しき男性客が立ち上がり、人好きのする笑みを浮かべて円の顔を窺って来た。
「神無木円さん、でよろしいかな?」
円が着て行く服装や外見の特徴を伝えてあったことと、ほぼ時間通りにカフェに到着したことでこちらのことがわかったのだろう。円は頷いた。
相手は英国紳士のような気品に満ち溢れた長身痩躯の男性だ。落ち着いたブラウンのスーツが良く似合っている。
聞いていた特徴から彼が和泉源で間違いない。穏健そうで、声や雰囲気など、どこか父に似た空気を纏った人だと思った。
「隣の彼は?」
「同じ仕事を請けてくれる探偵の佐村さんです。なぜか付いてきてしまって」
真実のままに紹介すると隣から「犬みてえに言うな」と文句が飛んで来た。
「あらためまして、私は、わいずみげんという者です。名刺がなくて申し訳ないが、へいわの和に泉、源と覚えていただければ」
深々と頭を下げた和泉を見て、円も慌てて頭を下げ返す。向かい側の席を勧められたので腰をおろすと、店員から可愛らしいイラスト付きのメニューを手渡された。
ミエルというのはフランス語で蜂蜜という意味のようで、それらを使った飲み物や食べ物が揃っているらしい。
「へぇ、キャベツの蜂蜜まであるんだ。桜の蜂蜜なんて和風なものまであるんですね。花が咲く植物ならなんでも蜂蜜があるのかな」
「さすがにラフレシアはないだろ」
「当たり前じゃないですか、誰が食べるんですかそんなもの」
「じゃあ、さっきのお前のセリフはおかしいからな」
佐村とのくだらないやり取りに疲れを覚えた円は彼を無視することにして、アカシアの蜂蜜入りのレモネードとパンケーキを注文することにした。佐村は甘い物が苦手なのか水を頼んだ。そういえば安来の事務所で出されたワッフルにも手を付けていなかった。いくら理由があったとしても水だけ注文するとは嫌な客だ。
和泉は随分前から店内にいたのか、すでに空になったティーカップを下げようとしている店員の女性に「先ほどと同じものを。れんげの蜂蜜をたっぷりで」と追加注文をした。
「私は操君……君のお父さんの昔馴染みでね。少し前まで探偵業をしていたんだが、今は事務所を畳んで隠居生活を満喫しているよ」
和泉が言うには、父とは仕事の付き合いで知り合ったが、趣味や話が合うことで意気投合し、個人的な友人関係に繋がったようだ。
もしやこの手紙を書いた人は和泉なのでは、と思い単刀直入に聞いてみたが、和泉からは「そんな遠回しなことをする理由は私にはないが」と少し困惑気味の答えが返ってきた。
「しかし操君に、こんなに大きな娘さんがいるとは知らなかったな」
「あ……父は、私のことを恥ずかしいと思っていたでしょうから、隠したかったんだと思います」
小学生の時から学校をずる休みしたり、家に引きこもり気味だった。他の子供達との協調性が保てずに息苦しかったのだ。ただ逃げていただけだとわかっていても、戦う勇気が円にはなかった。
円の答えを聞いて、和泉は返事に困ったように少しだけ眉根を下げた。場を繋ぐように運ばれてきたのは和泉が注文した紅茶で、黄金色の蜂蜜が目一杯に入った小さな瓶が添えられていた。
和泉は優雅な手付きで紅茶の中に円を描くようにして蜂蜜を垂らすと、音が鳴らないようにスプーンで混ぜてから口を付ける。その所作が貴族然としていたので見惚れていると、和泉はそっとティーカップを受け皿の上に戻して目を細めた。
「操君もよく、私が蜂蜜入りの菓子や紅茶を口にしていると、穴が開きそうなくらい見詰めてきたな。もっとも彼の場合は、もう少し恨めしそうな視線だったが」
昔を思い出したのか、和泉はふっと笑いを零す。
「父は甘いものが大好きでしたが、蜂蜜にひどい食物アレルギーを持っていましたから」
「うん。それでよく、俺の前で蜂蜜を食べるな、と文句を言われたよ。私は構わず蜂蜜を口にしたがね」
父の話題を中心に、和んだ空気が場を満たす。佐村だけは会話に入らず、背もたれに体を預けて静かに目を閉じていた。眠ってはいないようなので、話は聞いているのだろう。
話の間中、和泉がしきりに腕と肩をひくつかせるので気になっていると、五十肩になってしまってね、と調子が悪いことを告げた。
それから仕事の話になり、和泉は報酬など貰わなくても今すぐに駆け付ける所存だと言ってくれた。
和泉を一見すれば金回りのかなりいい紳士であることが窺える。左手首にはめたアンティーク腕時計はデザインからしてかなりの値打ちものだろう。落ち着いた銀フレームの眼鏡もよく見れば細かい細工が施されており明らかに外国製だ。
日程を伝え、必要なことも伝える。携帯の電波も届かず、ネット回線が繋がっていなためパソコンも使えないが、電気は普通に通っているし、固定電話が引いてあるので安心してほしい、と。
日程に関しても和泉から注文が出ることはなく、このまま順調にいけば明後日の午後には両親に会えるだろう。
もう一杯紅茶を飲んで行くよ、と言った和泉に別れを告げて店を出ると、真上に差し掛かった太陽が、ぎらりと照り返した。
「次は?」
「門野麻恵さんですね。電話では、ちょっと苦手な感じの人でした」
「お前に苦手じゃない人間なんているのかよ」
ほんの少しの付き合いなのに、もう円のことが手に取るようにわかるとでも言いたげな口調だ。だが実際に円は人間が苦手だった。平気で人を傷付けるし、裏切るし、切っ掛けさえあればどこまでも残酷になれる人間を、好きだと本心から言える者達の気がしれない。そういう汚れた世界から逃げたくて仕方なかった。
「佐村さんは、人間が好きなんですか」
「大好きだね。鼻を明かしてやった時の顔が最高に面白い」
思わず呆れた目で見てしまったが、すぐに表情を取り繕って前を向く。
いつも誰かにどう思われているか……悪い印象を与えてしまってはいないか、そんなことばかり気にして生きてきた円は、一瞬でも表情に本心を覗かせてしまった自分に驚く。
佐村には不思議な力がある。相手の本心を引きずり出す能力でも持っているに違いない。