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安来探偵事務所は独立したビルではなく、角沼商事という聞いたことのない小社ビルの一角を間借りしているようだった。
表に掲げられた探偵事務所を示す看板も表札くらいの大きさで目立たず、中の作りも、これでは信用商売としては成り立っていないのではないかと心配になってくるレベルだ。
看板には小さな字で『大切なペット、お探しします』と書いてある。どうやら動物探し専門の探偵をしているようだった。
中に入ると角沼商事の社員らしき中年男性が通り抜け様に無遠慮な視線を投げ掛けて来た。事務所の片隅にある、そこだけ周りから浮いている小さな区画が安来和泉の仕事場だった。
「円ちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです、安来さん」
三年ぶりに会った安来は、以前より少し疲れた感はあるものの、年を取っていないように見えた。
ナチュラルメイクの童顔は、百六十はないだろう身長も相まって美人というより可愛いという表現の方が似合う。髪は落ち着いた茶色で、ふんわりしたシルエットが肩の少し上くらいで揺れている。
以前は黒髪を背中の辺りで切り揃えていたので、それだけでも印象が違って見える。
探偵というと男も女もスーツという印象を持っていたが、安来はスーツ姿ではなかった。年若い女性がふらりと初夏の街へ出かける時のような気楽な格好だ。
「探偵っぽくないでしょ?」
安来は少し困ったような、恥ずかしがっているような、何とも言えない顔で笑った。
「探偵ごっこって感じだな」
「え、ちょっと、佐村さん!?」
佐村の歯に衣を着せない物言いに円は焦る。言いたいことを口にするタイプの人間だとは感じていたが、まさかここまで無遠慮に言葉を吐くとは思っていなかったのだ。
心配して窺った安来の顔はきょとんとしていたものの、すぐに本当におかしくて仕方がないといった様子でくすくすと笑い出した。
「そんな風に正直に言ってもらえた方が気が楽です。この人は……円ちゃんの彼氏さん?」
安来がとんでもないことを口にしたので、円は頭を左右に振って否定した。
「違いますよ、こんな失礼な人!」
一緒に否定してくれるかと思ったが、佐村はそもそもこの話自体に何の興味も持てないようで、どう見ても探偵事務所には見えない空間に視線を飛ばしていた。
「とりあえず、座って」
安来に席を勧められ、円と佐村は隣り合ってソファに腰掛けた。小さな事務所スペースは安来の趣味なのかパステルカラーで統一されており、壁には花や動物の写真が飾られて、リラックスできる空間となっていた。安来は氷入りのアイスティーとカスタードクリームが挟まれたワッフルを三人分、テーブルの上に置く。こんなことを言っては安来はいい気がしないかもしれないが、広すぎず、探偵事務所の堅苦しいイメージから掛け離れた温かみのあるスペースは、ほっと心が落ち着く。
「知り合いに無理を言って月一万で貸してもらってるの。自分では気に入ってるんだけどね」
窓際のデスクの上に置かれた鳥籠のカナリアが綺麗な声で鳴いた。
アイスティーを飲みながらワッフルに口を付ける。生地がしっとりとしていて、滑らかなカスタードクリームはとても美味だった。
ふと、甘いものが大好きだった父のことを思い出す。父は母に「そんなに甘い物ばかり食べていると病気が酷くなりますよ」と見張られていたため、いつも円や巴のところへこっそりやって来ては、菓子をわけてくれないか、と頼み込んできた。
父が気付いていたかどうかはわからないが、円と巴はそんな父のために専用の菓子を用意して待っていたのだ。仕事で忙しく正月も一緒に過ごせない父と交わす数少ない大切な時間だった。
「それで、今日はどうしてここに?」
「父に何か、よくないことがあったのかもしれません」
話を切り出した瞬間、安来は席を立ち興奮した様子で「私にできることなら何でもするよ。何をしたらいい?」と、こっちが引け腰になる勢いを見せた。安来がこうして先走る可能性を考慮して、電話では詳しい話をしていなかった。
彼女は昔から変わらない。損得勘定なしで、人のために本心から動ける人間なのだ。報酬を聞く前からこれでは、商売ごとは向かないだろうと思いながらも、少しも悪擦れしていない彼女に前にも増して好感を持った。
「報酬は聞かないのかよ。それともタダ働きが好きなのか?」
冷たく失礼な一言を投げ掛けた佐村は、そんな意識もないらしくのんきにアイスティーをすすっている。すると今の会話を角沼商事の社員が聞いていたらしく間に割って入って来た。どこにでもいそうな三十代くらいの男性社員は苦笑を浮かべている。
「安来ちゃんは、お金で仕事しないんだよね。子供がわずかなお小遣いを握りしめてやってくるとさ、かかった費用以下の報酬で仕事を引き受けちゃうんだよ。そんなんじゃ仕事として成り立たないっていっても、安来ちゃんは意外と頑固だから聞いてくれないし」
「斉藤さん……」と安来はむくれている。斉藤は安来の弁護をしに来たのだろうが、当の彼女に睨まれて「ごめんごめん」と退散して行った。自嘲とも取れる笑みを浮かべた彼女は、アイスティーの中に浮かんだ氷をストローで無意味に掻き混ぜつつ呟くように言った。
「自分でもそろそろ探偵業をやめようかなって思ってるんだ。犬のトリミングの資格でも取ろうかなぁ……」
「あんたの弱音を聞きに来たんじゃないんだが」
佐村の冷静な一言に安来は申し訳なさそうな顔をして、アイスティーのグラスをテーブルの上に戻した。姿勢を正し、円に向き直る。
「円ちゃん、詳しい話を聞かせて」
円の話を真剣に聞いている安来だが、彼女の中にはすでにこの仕事を引き受ける以外の選択肢などありはしないだろう。
正直、動物探し専門の探偵に助けを求めろと指示をした手紙の主の意図がわからないのだが、安来のやる気は何らかの大きな助力になりそうだ。
安来は二つ返事で依頼を引き受けてくれた。日程に関しても彼女の方からは異論はないらしく、今のところ司堂に指定された日時で問題なさそうだ。
事務所を出ようと席を立った時「こんにちは」と小学生くらいの子供が入って来て、机の上に置かれたカナリアを見て大喜びしていた。てっきり安来が飼っている小鳥だと思ったが違ったようだ。安来は子供にカナリアの入った鳥籠を手渡すと「よかったね」と笑い掛けていた。
慈愛に満ちた微笑はやはり三年前のままだ。
三年前、家庭教師として神無木家にやってきた安来は当時まだ大学生だった。彼女は生徒との間に恋愛問題を持ち込まないという条件で父の神無木操に雇われた。
安来自体はその条件を守っていたのだが、弟の巴が彼女のことをどうしようもなく好きになってしまい、それが原因で〈あの事件〉が起き、安来はたった二ヶ月で解雇となったのだ。
子供達との会話に花を咲かせている安来の姿はまるで天使だった。
変わらぬ姿に安心を覚えていた円に佐村が言った。
「人間がどうして高等生物たり得るか知ってるか」
「えっと、知能が高いからですか?」
「それ故に嘘がつけるからだよ」
佐村は安来が善人の振りをしているとでも言いたいのだろうか。この人の考えていることはいまいちよくわからない。謎が多いという点では、これまでに会って来た色々な意味で癖だらけな探偵達の中で、佐村が断トツで一番という事実に本人は気付いてるのだろうか。
次の目的地はここから表通りを歩いて五分ほどのところにある、倉内未歩の探偵事務所だ。
「こんなに近くに探偵事務所があったらライバル心にも火が付くだろうな」
円も同じことを考えていたのだが、丁度子供を見送った安来が話に加わって来た。
「未歩さんは、よくお菓子を持ってうちの事務所に遊びに来てくれるの。さっき出したワッフルも未歩さんからもらったんだ。値引きセール品を箱詰めで買っちゃったからどうぞって言ってね。大量に残ってるから、よかったらまた食べに来て。消費期限が切れる前に」
安来と円が笑い合う傍らで、佐村は暇を持て余しているようだった。まったく、この愛想の無さは表彰ものだ。