5-2
「待ち合わせの喫茶店に〈Miel〉を選んだのは、佐村君の言った通り円の中の神無木操と和泉源という人間の同一性を完全に断ち切らせるためだった。佐村君が円に付いてきたことが唯一の誤算だったがね。事前に調べて購入しておいた三原と同じボストンバッグ。あえて三原と同じタイミングを狙って駅を出て、名札のトリックを使ったが、それも佐村君の推理した通りだ。肩を壊した振りをしていたのは、それらを滞りなく遂行するための作戦だった。司堂は後々の計画のためにも互いに嫌い合っている構図が望ましかったのでね、理由を付けて喧嘩を吹っ掛けたんだ。この辺りのカラスの危険性については小さい頃から円に言い聞かせてあったから、光り物を隠すように言うことは確実だった。だが、さすがに薫子の腐乱死体を見た時は、俺もショックを受けたよ。愛する妻の成れの果ては、すべてこいつらのせいなのだと思うことで、私は怒りを糧とし、その場に崩れ落ちずに済んだ。今は爆弾や起爆装置なんて素人でも調べれば作れる時代だ。自作したブローチ型の起爆装置は、一の間を出る間際にスイッチを押し一の間の床にこっそりと落とした。高い確率でカラスが持ち去ってくれるだろうが、その場に残ったとしても違和感がないデザインを選んだことも佐村君が推理した通りだよ。椅子のクッション部分にはニコチンシールと同じ原理のものを詰めておいた。ただね、中毒症状は引き起こせても、それだけで誰かを殺せるとは思ってなかったよ。だから私は最初に殺そうと思った百瀬の喉に催吐させる振りをして手を突っ込み、持っていたニコチン抽出液が凝縮されたカプセルを押し込んだんだ。でなければあの短時間、椅子に座っていただけであそこまで酷い中毒症状は出ない。ただあの時点では、全員が狙われている、という意識を持ってもらうことと、何に毒が入っていたのかという方向に君らの意識を向けることが目的だっただけだ。だから俺も一緒に軽度の中毒症状を来たすため、椅子に座ったよ」
「それがわからない。なぜ、一気に俺達を殺してしまわなかったんだ? 元から復讐することが目的だったんだろ」
「見極めるために決まっている」
「何を?」
「本当に殺すに値する下衆なのかどうか、だ。俺だって無闇に人を殺したかった訳じゃない。俺は愉快犯ではないからな。百瀬は変わっていなかっただろう。巴を虐げていた時と同じ、強者にはひれ伏す癖に弱者に対しては威圧的だ。少しも変わっていない。俺の可愛い円に対して、非力だなんだと文句を垂れていたな。許せなかった」
泣き笑いのような表情が、般若面のように見えて円は恐怖を感じる。自分の血を分けた肉親に対して、こんな感情を抱かなければならない現実が悲しくて仕方がない。
「佐村君と安来さんだけだったよ。円を助け、害になることのない心ある人間は。だから佐村君と安来さんだけは、早々に殺人名簿から名を消した」
「倉内未歩は人間性云々はおいておくとして、直接的にはあんた達の過去には関わってないだろう。殺す必要があったのか?」
「あいつは父親の罪を少しも理解していなかった。父親に都合のいい友人がいると思い込み、その金を湯水のように使っていたのはあの女だ。倉内探偵事務所を開くための金がどこから工面されたのか知っているか? 松利が別の友人から泣き落としで騙し取った金だ。その相手は、松利が返金しないせいで家をなくし、自殺したという。松利が金を欲しがった理由は、無知で無邪気な娘を愛し過ぎたせいだ。言うなれば松利の罪は、倉内未歩が生み出したようなものなのさ。さらに動物だとしても殺しを犯して平気な顔をしていたあの女に生きている価値なんてないだろう」
「動物を……?」
「そうか、安来さんは知らなかったんだね。安来探偵事務所の悪い噂は、倉内未歩が犯した罪によるものだったんだよ」
安来はそこで初めて倉内未歩が犯した罪について知り、ショックが隠せないようだ。両手で口元を覆い、その場にへたり込む。円は安来の肩に手を添えて、言う必要もなかった事実を口にした神無木操を睨んだ。
神無木操の目は、もはやこの場の誰にも、円にすら向けられていない。陶酔し切った顔で、自分の犯した罪をまるで歌でも歌うかのようにつらつらと吐き出している。
「倉内未歩は既婚者には興味がない。頃合いを見計らって既婚者であることを告げ、代わりに『司堂が倉内のことが少し気になるようだ。年も近いし、彼なら一途に君を想ってくれるのでは』という偽の情報を吹き込んでおいた。倉内未歩は思い込みが激しく、物事を自分の都合のいいように作り変えてしまう癖がある。容易に嘘の話を信じ込んだ。司堂と門野が夜間に部屋で会うと知って、俺は使い道があるかもしれないと思い持って来たクッキーに司堂を騙ってその時間を指定し、部屋に来るように書いた。読んだ後は食べてくれと書き記してな。フードペンは分解してトイレに流したよ。一の間へ証拠を見付けに行くと言ったあの日、俺はわざとガスライターで葉巻に火を点け、マジックミラーが倉内の目に映るように仕向けた。倉内の目はいつも俺を追っていたからな。誘導は楽だった。倉内は元からマジックミラーの原理を知っている。ストーカー、覗き、盗撮が趣味みたいな女だったからな。あのマジックミラーは本来、二の間から一の間を監視するために設置したものだ。不安定な妻が、俺の母のように自殺などしないようにな」
そこまで想っていた妻を、目の前の男は殺したのだ。どんな理由があろうとも、決して許されない罪を犯した。
「それから何気ない会話で倉内に自分が既婚者であることを告げたのさ。あいつが既婚の男にだけは興味を持たないことは知っていた。部屋に戻ったすぐ後に、廊下に誰もいないことを確認して、倉内の部屋の前にラッピングしたメモのクッキーを置いた。それからドアスコープに映らない高さに腰をかがめて、倉内を呼び出すために何度かノックをして俺は自室に戻った。倉内が司堂のところへ向かったのを見計らって俺も部屋を出た。門野の登場でイラついている倉内には一の間のマジックミラーを必死で覗き込んでいたよ。私が部屋に入ると驚いて取り繕うとしたが『構わないよ。続けてくれ。君のような一途な女性に想われて司堂君は幸せ者だね』と覗き行為を肯定してやると、安心したようにこちらへの警戒をあっさりと解いたよ。マジックミラー越しに見える二の間の様子に夢中だった倉内を背後から思い切り火掻き棒で殴り倒した。ボストンバッグに倒れ込んだ倉内はまだ息があったな。俺は何度も何度も彼女の頭を殴り付け、動かなくなるまで続けた。凶器に火掻き棒を使ったのは、誰かに開かずの間の鍵であるヒントを与えたかったからだ。誰も気付かないようであれば俺自身が発言するつもりだったが、佐村君が気付いてくれたよ。後で殺す予定だった司堂殺しに繋がる大事な場面だったから、どうしても外せなかった」
皆が少しずつ、気付かない内に片棒を担がされていた。途中で何かがおかしいことに気付けていれば、止められたかもしれないのに。
「開かずの間の存在を知った司堂が、なんらかの提案をしてくることは明らかだった。皆を出歩けなようにして、その間に自分が開かずの間へこっそり侵入出来るような案をな。司堂が何も言わないようだったら俺が案を提示するつもりだったが、司堂は実に思い通りに動いてくれる、欲に駆られた俗物だったよ。三原に腕時計を返しに行くと、大事な腕時計を取るために扉の隙間から手と首を伸ばして来た。彼の頸部に数百万ボルトのスタンガンを当て気絶させた。三の間に引きずり込み、すでに死んでいることを確認してから、バスルームで切断したんだ。佐村君の言う通り、メスを関節部分に入れてな。持っているといらぬ証拠になりそうな腕時計を三原の手首に着け、そのまま司堂が見回りにくるのを待ち、ノックで返事を返した後、三原の首を持って門野を呼びに行った。佐村君の推理通りだよ。まさか深く考えずに持ち主に返した腕時計に足元を掬われるとは思っていなかったがね……」
自嘲の笑みを浮かべて、神無木操は何がおかしいのか片手で顔を覆い、くっくと咽喉を鳴らした。自分の描いたシナリオを、ほぼ目的を完遂するまでに進行させられたことに満足しているのかもしれない。
「私は門野が円の部屋へ行っている間に、自室に戻り安来さんを待った。司堂の扉をノックしに行き、司堂からの返事を確認した後、再び自室に戻り、それから司堂が開かずの間へこっそり入って行ったのを見計らって再び三の間へと戻り、三原の遺体を三原の私物を取り出した空のボストンバッグに詰めて司堂の部屋へと入った。鍵が掛かっていた時のために、あらかじめ全室を開けられるマスターキーは持っていたが、司堂は気が逸っていたんだろうな。二の間には鍵が掛かっていなかった。バスルームに三原を放り出し、バッグを三の間に戻して荷物も元通り詰め直し、俺は自室の十の間で悠々と過ごしていたという訳だ。腐乱死体の強烈な臭いが体に染みついたまま、潔癖症の司堂が耐えられる訳がない。だが奴は自室でシャワーを浴びることが出来なかった。次に俺が部屋を空ける時、必ず門野と結託して三原の遺体を移動させてくるだろうと踏んでいたよ。別にそこは外れても問題なかったが、二人は面白いように俺の台本通りに動いてくれた」
「なぜ司堂と門野の二人を一気に殺してしまわなかったんだ? 二人は最初から問題だらけでやらかしていただろ。殺すかどうか迷うまでもなく、あんたの殺人リストから消えることはなかったはずだ」
佐村の気遣いのない言葉に門野の表情が引き攣る。門野は数歩後ろに退き、佐村と神無木操から距離を取った。