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司堂探偵事務所は佐村の事務所からタクシーで十五分ほどの表通りにあった。
待ち合わせ時間は午前十時半なので、十分以上も早く着いてしまったことになる。佐村探偵事務所とは違い小奇麗で目立つ表構えだ。
このまま時間までタクシーで辺りを一周してもらおうかと考えた時だった。事務所の入り口から身形のいい中年男性が出て来た。先客だろうか。
見送りに出て来たのは、少し癖のある黒髪を軽く撫でつけ、黒縁の眼鏡を掛けた美青年だ。ネイビーのスーツに白いシャツ、エンジ色のネクタイをしたインテリな感じのする青年で、年は三十半ばくらいだと思われるが、遠目にもふんぞり返って見えるのは気のせいではない。
特別姿勢がいいという訳でもないのに形の整った顎はわずかに持ち上がり、他人を見下しているような印象を与える。同じ色のスーツを着ているのに、佐村ほど着こなしているように感じないのは、過剰なほど自信に満ち溢れた立ち居振る舞いが周りから浮いて見えるせいだ。
薄い眼鏡の奥には油断ならない光を宿した両眼があり、客を見送るまで張り付いていた笑顔は、件の中年男性が立ち去った後には嘘のように消えていた。残ったのは冷たい表情を張り付けた二面性のある男だけだ。
彼はタクシーの中から観察していた円の視線に気付くと、ふと考える仕草を見せてこちらに近付いてきた。腰をかがめて窓越しに覗きこんで来る男の顔には、皮肉に満ちた薄笑いが浮かんでいる。てっきり話し掛けられるのかと思っていたら、男の目的は円の隣に座っている佐村のようだった。
「こんなとろこまで客を取りに来たのか? 佐村」
佐村と男は顔見知りらしい。男がドア越しに投げ掛けて来た嫌味を、佐村は気にした様子もない。
「むしろお客様の護衛をして来てやったんだけどな」
「は?」
男は先ほどまでの笑みを消し、怪訝な表情を浮かべた。それから円を見て、少しバツの悪そうな顔になった。
「おい司堂、さっきまでの嘘笑いはどうしたんだよ。本当に大根役者だな手前は」
佐村の当てこすりに一瞬顔を歪めたものの、円が今日会う約束をしている依頼人だと気付いた司堂は、再び人の良さそうな笑顔を張り付ける。佐村の言葉を信じるなら、これは偽りの顔なのだ。
「神無木円さん、ですか? お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありません」
「ああ、いえ、別に大丈夫です」
「まだ時間には早いですが、予定が切り上がったので、ご都合がよろしければ事務所の方へ案内いたしますが……?」
「それは助かります。時間より早く着いてしまって、どうしようかなって困っていたところだったので」
タクシーを降り、司堂に続いて事務所の方へ向かう。途中で振り向いた司堂は、当たり前のように付いて来る佐村を睨み上げた。
「お前は来るな、佐村」
「なんでだよ? お前の事務所の中でこそ女には護衛が必要だろうに」
その口調からは完全に司堂を馬鹿にして、からかっていることが窺い知れた。佐村よりも司堂の方がはるかに年上だろうし、探偵業においても司堂の方が先輩にあたると思うのだが、年長者に対する尊敬や遠慮などは一切感じられない。
「おい、人聞きの悪いことを言うな!」
「人聞きは悪いが事実だろ」
佐村には何を言っても無駄だと観念したのか、司堂は長い溜息を漏らすと事務所の自動ドアをくぐった。
白を基調にしたオフィスには観葉植物が沢山置かれていて、清潔感に溢れた居心地のいい空間だった。
こう言っては悪いが、佐村のオフィスはまるで聴取室のようで息が詰まった。それは佐村の威圧的な態度が半分以上の原因を占めていたにしても、だ。
名刺を渡されたので、丁重に受け取る。
低い長テーブルを挟んでクリーム色の椅子が四脚並んでいたが、円達の向かい側に腰をおろそうとした司堂は、椅子の上に小さな糸くずが落ちていることに気付き、指先で摘まんでゴミ箱に捨てた。その手付きはまるで汚くて仕方のないものを嫌々摘まみ上げているような様子だった。
司堂はテーブルに置いてあったウェットティッシュを引き抜き丁寧に手を拭う。几帳面な上に潔癖症の気があるのか。硝子の館は人里離れた渓谷にあるため、当然虫なども多いのだが、この人を連れて行って大丈夫だろうかと円は心配になった。
司堂探偵事務所にはいかにも仕事ができそうな美人秘書がおり、良く冷えた麦茶を出してくれた。円はそれを一気に飲み干す。くすりと笑った秘書はすぐに新しい麦茶を注ぎ直してくれた。
テーブルを挟んで向かい側の椅子に腰掛けた司堂は、前かがみになって「さて」と前置きした。
円が仕事の話を切り出そうとした時だった。「失礼」と言って司堂は席を立つ。奥のブースへ移動した司堂の声が聞こえてくる。
「もうじき大金が舞い込みそうな話が来てるんですよ。あと少しだけ期限を延ばしてもらえませんか」
内容からして電話の相手は借金取りだろう。
「はい。必ずその日までには。では、失礼します」
通話を切って向かい側に座り直した司堂は「席を外してすみませんでした」と前置きしてから、さっそく仕事の話を聞きたがった。
司堂が最初に確認したかったのは成功報酬の額に間違いがないかどうからしかった。先ほどの電話で「大金が舞い込みそうな話」と言っていたのは、円の依頼に期待してのことだったに違いない。
「それは、八人のうちの誰が事件を解決したとしても、参加した全員に百万円が支払われる、という解釈で間違いないんですね?」
「はい、その通りです」
司堂はしょっちゅう首を左右に傾ける癖があり、話の間中そうしているので気になって仕方がなかった。彼は苦笑いを浮かべて「ちょっと肩の調子が悪いんですよ。無理して重い物を持ち上げたせいかな」と言った。
首の動かし方が、頑固な肩こりに悩まされていた祖父に似ている気がしたのだが、追及するのもおかしな話なので円は曖昧に頷いておいた。そもそも司堂という男にそれほど興味はない。
金の工面に苦労しているようだが、司堂が身に着けているものはそれなりに高価な代物だ。見栄を張るタイプの人間なのだろうことが窺い知れた。
円が仕事の内容を細かく話している傍らで、佐村は暇を持て余し、事務所の奥に置かれた本棚から勝手に持ち出した心理テストの本を読んでいた。
「断る理由はないな」
「硝子の館は虫の多い場所にありますけど、大丈夫ですか?」
一応確認すると一瞬だけ気圧されたような顔になったものの、すぐに取り繕って司堂は笑顔を見せた。その笑顔がわずかに引き攣っていることに本人は気付いていないようだ。
「神無木さんのご両親を無事に見付け出すためなら、どこへでも行きますよ」
それから司堂は細かい日程などを聞いてきた。できるだけ早く出発したいと希望した円だったが、携帯も通じない、ネット回線も引いていない、冷蔵庫もない、厨房設備もない場所に行くには、それなりに準備が必要であることも承知している。
「準備も必要ですが、明日はどうしても外せない別件の予定がありまして……」
「それでは、明後日の午前十一時にK県のH駅で待ち合わせということでどうでしょうか? 私も何も準備をせずにここまで来てしまったので、明日一日は必需品を揃える時間で潰れそうです」
司堂は頷いた。焦る気持ちはあるものの、最悪三日間は不便な硝子の館で過ごすだけの準備をしていかなければどうにもならない。
「ただ、後六人の方にも予定を確認する必要があるので、変更があった場合にはまた連絡します。佐村さんもそれでいいですか?」
確認のために隣を見る、と佐村は心理テストの本をテーブルに置き、代わりにメモ帳にペンを走らせていた。
「佐村さん?」
「ローマ字以外でこれが何に見える?」
人の話を欠片も聞いていない佐村が突き付けて来たメモの切れ端には、大きく『Y』の字が書かれていた。円は瞬間的にひらめいて答えを口にする。
「兎の鼻!」
思った通りのことを口にしただけなのだが、佐村は深い溜息をつき、司堂は信じられないといった顔で円を見た。
「これはな、スケベ度を調べる心理テストだ」
「はぁ……兎の鼻じゃなかったらなんなんですか」
「面倒くさいから俺に聞くな」
自分で問題を出してきたくせに、途中で急に面倒になるのはやめてほしいものだ。呆れた目で佐村を見ていた司堂と視線が合わさった。問題のありそうな男だが、その時だけは彼と意気投合できた気がした。
「そうえいば、硝子の館っていえば隠された宝の話が有名ですよね。その宝って結局今も見付かっていないんでしょ?」
なんの脈絡もない唐突な話題に円は内心首を傾げたものの、隠し立てするようなことでもないので正直に答える。
「宝のことは祖父だけが知っていて、その宝がどんな物であるのかも誰にも教えなかったみたいですね。今となっては本当にあるのかどうかも怪しい話ですけど」
「ロマンチックな話だね」
司堂の顔に浮かんだ満面の笑みを、少しだけ薄気味悪く感じた。
何かと裏のありそうな人間ではあるが、協力者であることに変わりはない。円は仕事を引き受けてくれたことに関して礼を言い、佐村と共に司堂探偵事務所を後にした。
次に約束を取り付けているのは安来和泉だ。その名前を見るたびに円の胸の奥が軋むように痛む。
彼女は三年前に家庭教師として二ヶ月ほど神無木家に出入りしていたことがあるのだ。その時に起きた出来事を思い出すと、円の心は重くなる。
どうしてあんな風に家を追い出された彼女が、神無木操の頼れる人物に名を連ねているのかという疑問の答えが知りたくて、急いで安来探偵事務所に向かった。