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翌日、七月二十四日になっても父からは音沙汰なしだった。さすがに心配になったものの、円の中には楽観的な、あるひとつの考えがあった。
「円さん、ちょっといいですか?」
警察に連絡を入れようか迷っていたところ、嘉川が声を掛けてきた。差し出された皺の多い手には白い封筒が乗っていた。
「ついさっき円さん宛てに届いたんですけど、差出人が誰なのか書かれていないんですよね……」
礼を言って受け取り、なんの飾り気もない白い封筒の裏表をしっかりと確認する。やはり差出人の名前はどこにもない。宛名の筆跡にも見覚えはなかった。
消印は昨日の日付で、隣県の郵便局から出されたものだ。円はその場で封を破り捨て中身に目を通した。
『神無木操、及び妻の薫子が有事の際には、警察ではなく以下の八人を頼ること。ご両親と無事に再会できた暁には、八人全員に百万円の成功報酬を支払うこと。くれぐれも単身での行動は避けるように。神無木操の友人より』
父はそれなりに大手の会社を経営している身分だ。無事に帰って来さえすれば、合計八百万の金は簡単に出る。円はさらに手紙を読み進めた。
佐村哲
司堂要
安来和泉
倉内未歩
和泉源
門野麻恵
百瀬千代丸
三原明春
紙には八人の名前が連なっており、後ろには電話番号が書いてある。その中に円の知る人間は、安来和泉ただ一人しかいなかった。
知っている場所へ両親に会いに行くのに八人も集めなければならないというのは少し数が多すぎる気もしたが、十四年前に起きた祖父の失踪事件の時のことを考えると、何か不安な要素がこの手紙の差出人にはあったのだと思う。
祖父失踪事件当時、まだ円は五歳の子供だった。警察も動員され、館や周辺の渓谷など、数日に渡りくまなく捜索が行われたが結局祖父は見付からなかった。警察の捜査が打ち切られた後も、父が雇った探偵がしばらく周辺を調べ回っていたようだが、成果は上がらなかったようだ。
そういった経緯から、硝子の館で何かが起きた場合、いくら手があっても足りない可能性を父の友人を名乗る人物は考慮したのだろう。
友人も知り合いもなく、一人の世界に引きこもって来た円にとって、頼るべき人間の当てなど思い浮かばない。もしかしたら何かの罠かもしれないが、連絡してみるだけなら、と円はスマホを手に取った。
それぞれに電話を掛けると、内容を詳しく聞きたいという理由で、会って話をする場所と時間を指定されたため、時間を一、二時間ずつずらしてもらい予定を調整した。すべて都内であったため、今日一日で八人全員と話ができそうだ。急いで両親のもとへ駆け付けたい円の立場からいえば有難い話だった。
年季の入った引きこもりの円にとって、一人で外出するというのはとても勇気のいることだったが、両親のためだと思えば気持ちは奮い立つ。
嘉川が心配して付いてこようとしたが、円は丁重に断ると一人で家を出た。家を出る前に家族四人で写っている写真をインディゴブルーのショルダーバッグにしまい込んだ。父と母の容姿を相手に伝えるために必要になると思ったからだ。
神無木家があるのは東京都O区にある高級住宅街だ。坂道が多いのが玉に瑕だが、静かで緑も多く、人混みが嫌いな円にとっては住みやすい場所だった。
肩の少し下辺りまである黒髪は邪魔なので、緩い三つ編みにして白いリボンでくくり、背中に流した。
紺のクロップドパンツを履き、白のワンピースに同色のローファーを引っ掛けて家を出る。
午前九時十分。円は電話で家の前へ呼び付けてあったタクシーに乗り、最初の待ち合わせ場所『佐村探偵事務所』へと向かったものの、目的地は車の通行が禁止された路地裏にある。円は通りの途中でタクシーを降りなければならなかった。
「三十分ほどで戻れると思うので、ここで待っていてもらってもいいですか?」
「構いませんが、料金が高くなりますよ。戻って来た時に別のを拾った方がいいと思いますがね」
「今日一日で回りたい場所が何ヵ所もあるので、タクシーを見付けている時間も惜しいんです」
せっかくの儲け話に自分から茶々を入れる人のいい運転手は、仕方がないといったように頷いた。
円の家は世辞抜きにして金持ちだ。幼い頃より金に困ったことは一度もない。そのせいで金銭感覚が他の人間と多少ずれている、という認識は円自身も持っている。
せいぜい三階か四階くらいの背の低いビルが立ち並ぶ路地裏には、毒々しい色の古びた看板が所狭しと設置され、いかがわしい店の入り口を掠れた文字で必死にアピールしている。
通りの脇には汚れたチラシや、空き缶、なんだかよくわからないゴミが寄せられていて、夜間になるとモラルと治安が乱れる場所であることが容易に想像できた。
幸いにも今は早朝ということもあり人気はない。栄養状態の悪そうな野良猫が剣呑な目で円を睨め付けて通り過ぎて行ったくらいだ。今時こんな場所に事務所を構えているなんて一体どんな人間なのか、会う前から心配になってきた。
いつもエアコンで温度調整がされた部屋に閉じ籠っていたため、ここに来るまでにすでに汗だくになっていた。今日はまた憎たらしいくらいの晴天だった。ビルで日陰になるとはいえ、上がり始めた辺りの気温は温度調節機能が脆弱な円の体を苛んだ。
佐村探偵事務所は、やっているのかいないのかわからない寂れたカラオケ店と、いかにも怪しい外国人キャバレーの建物に挟まれていた。
佐村探偵事務所の青字が目立つステンレス製の看板は、よく見れば右端がひしゃげている。たまたまなのか、誰かの恨みを買ってそうなったのかは知らないが、円は一抹の不安を感じずにはいられなかった。
一階部分はシャッターが閉まっている。不良や酔っ払いなどに窓を割られないための対策だろう。事務所は細い鉄製階段を上った二階部分にあるらしかった。
かんかんと小気味のいい音を鳴らしながら、赤錆の浮いた階段を上る。狭い踊り場の左手に内開きのドアがあり、佐村探偵事務所と書かれた木製の門標が掲げられていた。