第三章 殺人領域
ベッドに寝転びながら、ぼーっと眺めていたスマホの時刻表示は午後七時半を示した。
百瀬が死んでから約二時間半が経った。
つい先刻まで普通に話をしていた人間が心臓を止める瞬間を目の当たりにした。それは驚くほど呆気なく、唐突で、人間という生き物はここまであっさりと死んでしまうものなのかと思わずにはいられなかった。
なのに人間は死んだ後に多くのものを世界に残して行く。
悲しみ、怒り、謎、苦しみ、痛み、そして、虚無感だ。
自分も死ねば、誰かの心にそんな傷を残してしまうのだろうか。
だとしたら、逃げ場を求めてすべてをなげうつことは、許されざる大罪なのかもしれない。残された者の傷は、そんなに簡単に癒えるものではないからだ。
外から誰かの話し声がした気がして、円は様子を窺いながら廊下に出た。ガーデンテラスの入り口に片腕を預けて立っていたのは佐村だ。近付いてみるとガーデンテラスの中に誰かいるらしく、その人物に向けられた呆れ半分、蔑み半分といった佐村の横顔がここからも確認出来た。
「警察が入ったら真っ先に疑われるぞ、あんた」
隣に並んだ円に気付き、佐村は「見てみろ」と言わんばかりに顎で部屋内を示した。
皆の嘔吐物で汚れていたガーデンテラスは驚くほど片付いていた。吐瀉物で汚れていたはずの椅子も綺麗にされ、テーブルの端に逆さまに引っ掛けられている。
「彼女がどうしてもそのままにしておけないと言うものでね、私も手伝うことにしたんだよ」
いつの間にか隣に並んでいた和泉が、外から汲んで来たらしい水の入ったバケツを左手にぶら下げてガーデンテラスに入って行った。和泉に礼を言った安来は、新しいバケツで水を絞りながら、シャツのようなもので床を懸命に拭き続ける。おそらく自分の着替えか何かを雑巾代わりにしているのだろう。
彼女がここまでする理由とは一体。
「証拠隠滅」
円の頭の中を読んだかのように佐村が言った。会話が聞こえたようで安来は少しだけ渋面を作ったが、何も言わずに作業に戻った。和泉も安来と一緒に床掃除をしようと思ったのか、ズボンのポケットから取り出したのは高級そうなハンカチだった。
「和泉さん……まさかそれで床拭きするつもりですか?」
「そうだが、何か問題でも?」
安来の驚いた声に動じた様子も見せず、和泉は平然としている。
「ここは結構ですから、和泉さんは休んでいてください。肩の調子も万全ではないんでしょう? 水を持って来てくださっただけで充分です」
安来に背中を押され、和泉はガーデンテラスから閉め出された。和泉は手持無沙汰になったのか、やり取りを見守っていた円達に苦笑を向けると「邪魔者は退散するとしよう」と一言零して十の間の方へと歩いて行った。
安来は心根の優しい女性だ。たとえ一人で掃除することになったとしても、皆が集まって安全に過ごせる部屋が潰れたままにしておくのを放っておけなかったに違いない。
それの意味するところは、安来はまだこの殺人事件が外部の人間の仕業によるものだと思っている、ということだろう。
円だって本当はそう思いたいが、安来のように綺麗な心のままではいられない自分がいる。
懸命に床掃除を続ける安来の姿を見てるのがつらくて、円は再び六の間へと向かう。以前だったら一人の部屋ほど落ち着く場所はなかったのに、今では息苦しい閉塞感と、外界とうまく繋がれない自分自身への嫌悪、言い知れない孤独が同時に押し寄せてくるだけだった。
六の間のドアノブに手を掛けた時だ、四の間前の廊下で司堂と門野が話をしているのが視界の端に映った。「じゃあ……」今夜……に」としか聞き取れなかったが、逢瀬の時間でも相談しているのだろう。二人はなぜか各々の部屋には戻らずに廊下の奥へと消えて行った。
円は気になって、部屋には入らずに六の間前の廊下でしばらく佇んでいた。するとぐるりと廊下を回って来たらしい門野と鉢合わせたが、彼女は円に一瞥をくれただけで挨拶もせずにガーデンテラスに入って行った。一体何をしているのだろうか。気になって覗きに行ってみる。
テラスの鉄扉からガーデンに入った門野は、真ん中に立つ銅像をしばらく見ていたが、じきに出て来て自室へと戻って行った。
不審な行動の意味が気になったが、聞いても彼女はまともに質問に答えてはくれないだろう。
今度こそ本当に部屋へ戻ろうとしたら、今度は廊下の向こう側から司堂が歩いて来て、廊下の壁や置いてある家具に手を這わせ何かを探しているようだった。
壁に触れた後は、アルコールティッシュのようなもので手を念入りに拭いている。最初に感じた通り、よほどの潔癖症らしい。
「何か、探しものですか?」
「いやぁ、別に。珍しい作りの建物だなって思ってただけだよ」
素っ気なく答えて、司堂も二の間の方へと歩き去って行った。どうも司堂と門野は何かを隠しているようだが、他人には知られたくないようだ。あの二人は注意して見ていた方がいいだろう。
円は部屋に戻り、再びベッドの上に寝転んだ。目を瞑ると目蓋の裏で、百瀬の笑った顔と最後に見た死に顔が交互にフラッシュバックする。
なぜ両親と百瀬は殺されなければならなかったのだろうか。
犯人が全員に毒を盛った理由は?
自分達が選ばれた意味はなんだ?
円達になんらかの共通する接点があるとは思えない。
誰かが何かを隠している?
誰が、何を?
一人では到底答えに辿り着けない様々なことを考え込んでいたら、いつの間にかうとうとしてしまったようだ。自分でも気づかない内に相当疲れていたらしい。
時刻は午後八時三十五分になっていた。
一時間以上も眠ってしまったのか。こんな状況でよく睡眠がとれたものだと、円は自分自身に呆れた。
ずっと一人で部屋にいると気が滅入りそうだったので、円は慎重に辺りを窺いながら廊下に出た。人の気配がしたので、両開きの扉が開けっ放しになっているガーデンテラスを覗いてみると和泉がいた。部屋から運び込んだのだろう、強化硝子の隣に置かれた揺り椅子に腰かけて本を読んでいる。
「和泉さん、何をやっているんですか?」
円が声を掛けると、和泉は本を閉じて顔を上げる。その顔には柔和な表情が浮かんでいた。
「隣の部屋からカラスの声が聞こえて来て気が散るので、ここを借りて本を読んでいたんだよ。まだ皆が寝静まる前の時間なら、人の目に付く場所に居た方が安全だろうしね」
ここなら廊下を通る人間の目に嫌でも触れることは確かだが、そう発言したということは彼もまた一連の犯行を外部の人間のしわざだと考えているのかもしれない。
和泉と安来が片付けてくれたことと、空調がしっかりと作られているガーデンとを繋ぐ鉄扉が開け放たれていることで臭いこそしないが、あんな惨事があった部屋でのんびりくつろげるものなのかと円は思った。
「責任を感じているんだよ」
和泉は、閉じた本に視線をやりながら小さく声を零した。
「百瀬君だ。彼の死因はどう考えても口にした物である気がしてね。それが水だとしたら、彼が三杯も重ねて飲んでしまったのは私が荷物持ちを押し付け、彼を疲労させてしまったからだ。どうにも、やり切れない。読書にでも没頭していないと、気が変になってしまいそうで」
「和泉さん……」
苦悶に満ちた表情を浮かべる和泉に掛ける言葉が見付からず、円はただ彼の傍らに立ち尽くしていることしか出来なかった。
水には誰も毒は入れられなかったとか、和泉さんのせいじゃないとか、なんの根拠もない、励ましにもならない言葉が頭の中をぐるぐると回る。
「あ、二人で何してるのー?」
気まずい空気を破ったのは、倉内の元気な声だった。
「和泉さん、ここにいたんだ! 未歩、いっぱい探しちゃいましたよー!」
さっきまで円が立っていた場所に倉内が割り込んで来る。大きな尻に押され円は数歩よろめいた。
重苦しい空気から救い出してくれたことには感謝するが、どうにも「あんた邪魔」という倉内からの無言の圧力がすごいので、円は軽く会釈してからガーデンテラスを後にした。
一人の部屋に戻るのも気が重いし、かといって館中を徘徊するのも不必要に疑われそうだし、と廊下で迷っていたら、倉内に腕を掴まれた和泉がガーデンテラスから出て来た。
「私達で、犯人を捕まえちゃいまーす!」
「え? どういうことですか?」
「いや、倉内さんが、殺人現場には証拠が残るものだと言い出してね、それを調べようということになったのだよ」
「一の間から始めるよ! 円ちゃんも行く?」
円はとてもあの部屋に入る気にはなれなかったので断った。そういったことはプロの探偵に任せるに限る。
円は元気に去って行く倉内と、彼女に引きずられるようにして廊下の奥へ消えて行った和泉を見送った。
「あの二人はどこへ?」
部屋の中にまで会話が届いていたのだろう。七の間から顔を出した佐村が聞いて来た。
「一の間に証拠探しに行くみたいです。犯人を捕まえるんだって張り切ってましたよ」
せっかく答えてやったというのに、途中から興味をなくしたようで佐村は欠伸を噛み殺しながら「あ、そう」と生返事をして再び部屋の扉を閉めた。
佐村の呑気さが羨ましい。こんな時に欠伸をしていられる図太い神経は一体どうやったら育つのだろう。
いつまでもここにいても仕方がないので、円は仕方なしに六の間へと戻る。音楽でもあれば気分も変わったのだろうが、円のスマホには残念ながら楽曲が入っていない。
親からスマホを与えられていたものの、交友関係もなく、機能をフル活用する状況にもなかった円は、通話とメールの使い方しか知らないのだった。
十九歳の女がスマホもろくに使えないなんて恥ずかしくて誰にも言えない訳で、活用法を誰かに聞くこともできないまま、だらだらと必要最低限の機能だけで生きてきた。
ふと安来の顔が脳裏に浮かぶ。彼女なら、円のことを笑わずに、馬鹿にもせずに、色々なことを教えてくれるだろうか。
安来の優しさは本物だ。あれは演技でどうにかなるものではない。動物殺しの噂は、何か誤解があったに違いない。
弟の巴が安来に告白した時、彼女はとても丁寧に、言葉を選んで、真剣に巴と向き合ってくれた。返事は巴の望むものではなかったにしろ、決して巴を傷付けないようにと安来が心を砕いてくれていたことは傍から見ていて痛いほど分かった。
巴は唯一の拠り所だった安来に拒絶されたと思い込み、この世界に自分の居場所はないと考えたのだろう。同日の夜に自殺未遂騒動を起こした。
その一件で安来は家庭教師をくびになっているが、円は彼女が少しも悪くないことを知っている。巴が悪かったわけでもない。誰も悪くないのに、皆が傷付いてしまった不幸な事件だった。
「巴……。私と巴は、似ているね」
誰もいない部屋で、円は小さく呟いた。
傷付きやすいところも、周りに傷を残してしまうところも、何もかもがそっくりだ。それなのになぜ、死ぬ瞬間だけがずれてしまったのだろう。
「私は、まだ生きているよ」
どこからも返事はない。返事なんていらなかった。答えは自分の中にあるのだから。
私は生きている。死ねなかったから、生きている。ただそれだけだ。
この館から無事に帰れるかどうかも分からないのに、円の心の中に恐怖はなかった。
誰かが殺してくれなければ、いつか自分で殺す予定の人生だった。今さら、取り乱す必要もない。
目を閉じると、目蓋の裏側がぐるぐると渦巻いているような、眩暈にも似た感覚に見舞われる。
いつもこうだった。
一人で居る時。
孤独な時。
全てが嫌になった時。
円が世界と自分を遮断する手段として視界を閉ざすと「逃げるな」と誰かが言っているみたいに、この感覚が襲ってくるのだ。
今、円は疲れている。色々なことが一度に押し寄せて来て、猛烈に疲れている。
少しくらい休んだっていいだろう。私は、私なりに頑張っている。
絶対に目を開けるものかと、円は目蓋に力を込めた。しばらくそうしている内に眩暈は収まって来た。代わりに安堵と共に押し寄せて来たのは睡魔だ。こんな状況で眠れるはずがないと思っていたが、最大限まで緊張が高まった後は、不思議と普段ならあり得ない状態でも睡魔はやってくるらしかった。
少し、ほんの少しだけ舟を漕いだだけのつもりだった。ところが重い目蓋を開き、手に握ったままだったスマホを確認すると午後十一時五十分を示していた。もう少しで日付が変わる時間だ。うとうとどころか本気で寝入っていたらしい。
無理もない話だ。この数日、ろくに休息を取っていなかったのだから。
自分の世界に引き籠っていた時は、時間が進んでいないような気がしたが、外の世界は自分の世界の何倍もの速さで時が進んでいるのかもしれない。
腹は空かない。両親のあんな姿を見せられては、食欲がわかなくとも当然だろう。
円は不思議だった。なぜ自分は、発狂せずにいられるのか。家族が誰かに殺されて、腐敗するまで放置された姿を目の当たりにしたというのに、円の心はまだ壊れずにちゃんとここにある。
巴の時もそうだ。命を分かち合った弟が目の前で轢き殺されたにも関わらず、円はその場に腰を抜かしただけだった。いっそ母のように狂えたらどんなに楽だろうかと何度も考えたが、どうやら円は現実から逃げることを許されていないらしい。
難儀な人生だ、と円が憂鬱になり掛けたその時、ぱたぱたと廊下を走る足音が聞こえた。行ったり来たりしているようで、円は気になって部屋の扉を薄っすらと開けて廊下を確認してみる。
「未歩さん!?」
名前を呼びながら廊下を走り回っていたのは安来だ。
「どうかしたんですか?」
円が声を掛けると、安来は不安に曇った表情のまま立ち止まった。
「未歩さんがいないの。借りていたミュージックプレイヤーを返しに行ったら、いくらノックしても中から返事がなくて」
安来の顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。
円は部屋を出て、安来と連れ立って倉内が使っている九の間へと向かった。耳を澄ませてみるが中から物音はしない。ドアをノックしてみるが人の気配はなかった。
ドアノブに手を掛けてみるものの、扉には鍵が掛かっていたため開けるはことはできなかった。
こんな時、なぜか一番最初に頭に浮かんだ顔は佐村だ。どうして佐村なのかと心の中で自問したが、ここから彼の部屋が一番近かったので、という理由に落ち着いた。




