第一章 八人の探偵
久しぶりにリビングで朝食をとった。まだ午前八時とはいえ七月も下旬となれば、朝から容赦の無い陽光が硝子張りの窓から燦々と差し込んでくる。
以前だったら鬱陶しいだけだった真夏の太陽光だが、嫌味なくらい真っ直ぐに伸びてくる光に、沈み込んでいた気持ちが少しだけましになったようだ。
一年間、伸びっぱなしだった髪を家政婦の嘉川に切り揃えてもらったことも清々しい理由のひとつだった。
白いテーブルの上に置かれた嘉川の特製ハムエッグも、いつもより格段においしく感じる。硝子窓の向こう側に視線を向ければ、庭の植木が風にそよぎ、緑の葉を思い思いに泳がせていた。葉の擦れる音が耳に心地いい。
今日は何日だったかな、と気まぐれに新聞を手に取った。七月二十三日だ。
ずっと部屋に籠りきりだと、一秒の長さには気が行くくせに、今日が何日だったのかは曖昧になる。そういうものだ。
今世間ではどんな出来事が起きているのだろう。同じ世界で呼吸をしていても、知り、触れる努力をしなければ人間はどんどん取り残されて無知になって行く。
そんな大層なことを考えながら記事を流し読みしたが、取り立てて印象的な内容のものはなく、新聞漫画の内容しか頭に残らなかった。
食事の後は腹ごなしに家の中を歩き回ってみることにした。自分の家なのに、まるでよその家に上がり込んだような不思議な感じがした。当たり前だ。一年近く、トイレと入浴以外の目的で部屋を出ることはなかったのだから。自分でも呆れるくらい、念の入った引き籠りだったと思う。
二階の角部屋は父、神無木操の書斎だ。小さい頃はよく巴と一緒に忍び込んでは父に怒られていた。
懐かしくなりドアノブに手を掛ける。今なら、父に会う心配はなかった。
足を踏み入れると、毛足の長い絨毯の感触が伝わってくる。室内は古い本のにおいがして、昔から変わらない空間に少しだけ安心した。
壁に掛けられた額縁の中には、父の趣味だった拳銃のレプリカがいくつも飾られている。何度見ても偽物とは思えない。これだけ精巧なら中にひとつくらい本物が混じっていても誰も気付かなそうだ。
嘉川が円の部屋のドアへ声を掛けにやって来たのは今から二週間前だった。
嘉川は父の操から預かった伝言を伝えに来たらしく、それは、薫子の療養のために一ヶ月ほど〈硝子の館〉へ行ってくるという内容だった。円が伝言を受け取った時には、すでに両親は出掛けた後だった。
硝子の館は円の祖父が残した、神無木家の人間にとっては別荘のような場所だ。建物全体が楕円型をしており、子供の頃は訪れるたびに巴と一緒に鬼ごっこや隠れ鬼、宝探しなどをして遊んだ思い出の場所でもある。
一ヶ月の滞在は少し長いような気もしたが、母の状態を考慮して、自然に囲まれた静かな場所で療養を目的として過ごすには妥当な日数だと父は考えたのだろう。
嘉川は最後に「硝子の館に設置してある固定電話からこまめに連絡を寄越すから」という伝言と「もし何かあった時には、友人に色々と頼んであるから心配するな」という内容も付け加えた。
神経質と言えるまでに父がそこまで慎重になっているのには理由がある。
硝子の館は曰く付きだ。円が子供の頃に祖父の神無木緒之助が館に向かうと言ったきり失踪しているし、円が生まれる以前には祖母が不幸な事件を切っ掛けに自殺した場所でもある。
祖父の行方は未だに知れず、遺体も見つかっていない。
硝子の館は携帯の電波も届かない渓谷にあるため、万一の時に備えて父は友人に色々と頼んでいったのだろう。
嘉川に聞いた伝言通り、父からはこまめに連絡が入った。最初は電話口で話をするにも緊張したが、父が以前と変わらない陽気な調子で話をしてくれたことが救いだ。円も自然と話をすることができた。
「じゃあ、また。体に気を付けてね」
父からの電話が楽しみになっていた。どれだけ人を避けて殻に閉じ籠っていても、やはりどこかで人恋しいと思う気持ちまでは殺し切れなかったようだ。
七月二十三日午後四時二十分。その日も父から二日ぶりの電話が入った。
「円さん、旦那様からお電話ですよ!」
嘉川の大きな声が家中に響き渡る。階段を急いでおりた円は嘉川から受話器を受け取った。
嘉川はいつでも人好きのする笑みを浮かべており、円に対して本当の母親のように接してくれる心優しい初老の女性だ。円のここ数日の変化が彼女も嬉しいらしく、父から電話が入ると必ずウインク付きで受話器を手渡してくる。
円との会話の間、父は甲高い声で笑い通しだった。こんなに普通に話せるのなら、もっと前に父と母を安心させてあげるんだったと、円は今さらながらに後悔した。
巴の代わりは円にはできない。だが、円は円として両親を支えることができるはずだ。
「母さんの調子はどう?」
薫子を気遣った時だった。
「うん? ちょっと待ってろ、誰か来たみたいだ。後で俺から掛け直す」
父はそう言って一方的に通話を切った。すぐに掛け直してくるだろうと、円は電話機の前で待っていたが、予想に反して夜になっても父から連絡がくることはなかった。一応、自分のスマートフォンの着信履歴も確認してみるが、やはりこちらにも父からの連絡は入っていなかった。
心配になった円は硝子の館に電話を掛けてみるが、何度掛け直しても繋がらない。
何かあったのだろうか。硝子の館に許可なしに神無木家以外の人間が立ち入ることは、あまり考えられない。あそこは山奥の渓谷であるし、詳しい人間でなければ道に迷う可能性もある。
気になるのは父が電話を切る間際に口にした言葉だ。
一体、父が電話を切る前にやってきた客人というのは誰だったのか。
不安を引きずったまま自室に戻り、机の上に伏せてあった写真立てを手に取る。家族四人で撮った写真だ。
巴が死んだ後、見るのがつらくてずっと伏せたままになっていた。
瓜二つの顔で笑っている小学生の頃の円と巴。そんな二人の肩に手を置いて、無精髭に隠れた丸みのある顔に笑みを浮かべているのは、恰幅のいい体型をした父の操だ。
甘いものと油ものが大好きで、糖尿病の臨界型と診断されてからは、母に隠れて夜中につまみ食いするようになった。隣では、細身で、年を取っても美しさを失わない母の薫子が、慈しむような静かな微笑を湛えている。きっと父のつまみ食いを知っていたのに、何も言わずに支えることに徹した母だ。
こうしている今も両親の身が危険にさらされているとしたら……。
円は不安に押し潰されそうになりながら、玄関脇に置かれた電話機の傍らにずっと座り込んでいた。
「お父さん、お願いだから電話してよ」
無情にも固定電話が鳴ることはなく、握りしめたスマートフォンも沈黙を保ったままだ。