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0の庭  作者: 七星ドミノ
15/53

2-2

 午後の一時半に皆を乗せたバスは目的地の近くに到着した。


 砂利を踏みしめて、車一台がやっと停車できる狭い駐車スペースにマイクロバスが停車する。

 この位置からは硝子の館はまだ視認することはできない。渓谷を跨いで作られた吊り橋を渡り、三十分ほど森の中を歩かないと硝子の館には辿り着けないのだ。


 バスを降りた直後に三原が何やら和泉を捕まえて小声で話をしていた。円の位置からは会話の内容は聞き取れなかったが、和泉は「それ以上は結構」とでも言うように、途中で右の手のひらを見せ、まだ何か喋りたそうな三原を制す。話を中断された三原は不服そうな顔でこちらに戻って来た。


 島津が全員の荷物を降ろしてくれたが、彼はこの先に立ち入る許可を得ていないため、次は帰路の迎えを頼む時まで再び待機していてもらうことになる。


「それでは、私はこれで。次の送迎は二日後の七月二八日で本当によろしいのですね?」


「はい。島津さん、ありがとうございました」


 遠くなって行くエンジン音を聞きながら、円達は地面に置かれた各々の荷物を手にした。


 辺り一面自然に囲まれた渓谷だとはいっても、真夏も本番となれば日差しは殺人的だ。硝子の館にエアコン設備はないが、それでも剥き出しの太陽に肌を焼かれているよりはましだろう。


「う、ん……どうにも肩の調子が優れなくてね。悪いが百瀬君、私の荷物を運んではくれないだろうか」


 和泉に頼まれあからさまに嫌そうな顔をした百瀬だったが、安来の目があることに気付くとすぐに作り笑いを浮かべて和泉のボストンバッグに手を伸ばした。


「俺のも頼むわ、坊ちゃん」


 和泉と百瀬のやり取りを見ていた三原が便乗し、男性陣の中で最年少の百瀬に荷物を押し付けた。


 百瀬は「坊ちゃんはやめてください」と呼び方に対しての反論はしたものの、よほど安来の前でいい顔をしたいのか、断りはしなかった。


 ノーと言えない男は逆に情けなく見えるものだと思うが、百瀬はどこまでも優しい男を演じたいらしかった。


「あ、ついでに俺のも運んでおいてくれるかな。俺も肩の調子があんまりよくなくて」


「私のもお願いね。若いんだし、これくらい持てるでしょ」


 司堂と門野まで百瀬に荷物を押し付け、司堂は歯噛みする百瀬を尻目にのんきにスマホで渓谷の写真を撮り始めた。時たま肩を揉む動作をしているので、調子が良くないというのは嘘ではないのだろう。


「無茶ですよ、一人じゃこんなに持ち切れない!」


 残念ながら百瀬の悲鳴を聞いていたのは円だけだった。安来は倉内と一緒に絶景を見ながら盛り上がっていて、百瀬など気にも掛けていない。小学生の時、よくこうやって皆の荷物を押し付けられて泣きそうになっている子いたなあ、と考えていたら助けを求めて彷徨っていた百瀬の視線とかち合った。


「神無木さんも見てないで手伝ってくれよ!」


 なぜか百瀬が女である円に助けを求めてきたので、円は一番小さな司堂のバックを持ち上げようとした。ところが思ったよりも重く、長期の引きこもり生活で運動不足のために衰えていた筋肉が悲鳴をあげた。


「む、無理です。重すぎます……」


「それ一番軽いやつだろ! 非力すぎなんだよいくらなんでも! 役に立たねえな、もう!」


 百瀬は不満を爆発させて、押し付けられた荷物をヤケクソ気味にすべて一人で引きずって行くなり持ち上げるなりして運ぶことに決めたようだ。円は家に帰ったら筋力トレーニングをしようと心に決めた。


「貸してみろ、坊ちゃん。門野嬢の荷物は俺が持とうじゃないか」


 百瀬の悲痛な雄叫びが聞こえたのか、煙草の吸殻を靴の裏で踏みにじった後、三原は門野の荷物だけを受け取ろうとした。明らかに門野の好感度を稼ごうとしている。


 それを見咎めたのは司堂だ。むきになって無言で三原から門野の荷物を奪い取ろうとする。

 三原はすぐには手を離さずに、司堂が力を込めて思い切り引いた瞬間を見計らって手を離した。そのせいで司堂が後ろに勢いよく尻もちをつく。


「格好付けるとそういう目に遭うんだよ、若造が」


 三原は豪快に笑ったが、彼は気付いていないようだった。三原を睨み上げる司堂の目に殺意にも似た光が宿っていたことに。それほどまでに苛烈な色を宿していたのだ。


 円は背筋にぞっとしたものが走るのを感じた。


「司堂さん、大丈夫?」


 門野は司堂に話し掛ける時だけ声のトーンが一段階高くなる。その様子を見るにつけ、三原がいくらモーションを掛けようとも、司堂から門野を奪うことは不可能に思えた。


 三原に難攻不落の砦を落とす趣味がないのであれば、早々に諦めた方が良さそうだが。



 左右に大きく揺れる、木とロープで出来た古い吊り橋を、倉内は異常なほど怖がった。彼女の場合演技かもしれないが、吊り橋のロープにではなく、和泉の腕の方に抱き付いてきゃあきゃあと騒いでいる。


 和泉の肩を思いやってあげてほしいところだが、倉内はそこまで気の回る女ではなかった。


「落ちそうで怖いよ~」


 倉内があまりに騒ぐので、円はなだめるつもりで口を開いた。


「大丈夫ですよ。この吊り橋は丈夫に出来てますから。かなり太っていた父も普通に渡れていましたし」


 励ますつもりで口にしたのに、人が殺せそうなほどの殺気が込められた視線が倉内から円に向けられた。円は何かまずいことを言ってしまったのかと内心冷や汗をかく。


「未歩は太ってないの! ちょっとぽっちゃりしてるだけ! ほんとデリカシーのない子って最低!」


 怒り心頭で演技することを忘れたのか、先ほどまでの怖がりようはどこへやら、どしどしと吊り橋を渡っていくたくましい倉内の背中を見て佐村がぽつりと呟いた。


「落ちねえかな、あの女」


 ひどいことを平気な顔で言う男だなとは思ったが、彼女に理不尽な怒りを向けられた円も半分は同意したい気分だった。



 吊り橋の遥か下では渓流が涼しげな音を鳴らして水を運んでいる。水の深いところは翡翠色をしており、大きな岩に流れを乱されてぐにゃりと渦を巻いていた。


 カラスが鳴いている。上を見上げれば黒い翼がひしめき、ぎゃあぎゃあと耳障りな声を撒き散らしながら飛び交っていた。


 円が重要事項を言い忘れていたことを思い出し口を開きかけたところで、丁度滑空して来たカラスが、倉内の頭に付いていたラメ入りのヘアピンをむしり取って行った。耳をつんざくような悲鳴が起きる。


「皆さん、光り物は隠してください! ここのカラスは光り物とみると盗みたがる習性があるんです」


 円の言葉に皆は大慌てで、ぞれぞれネックレスやブレスレット、腕時計などを外してポケットやバックの中などにしまった。


「おい百瀬、俺の鞄に入れといてくれ。大事なものだから落とすなよ」


「うわっ」


 三原が後方の百瀬に向けて金色の腕時計やネックレスなどを軽く放る。落とすような距離ではなかったが、百瀬は焦った顔でそれらをキャッチした。


「大事なものなら投げないでくださいよ……!」


 面白くなさそうな表情をしながらも、少し迷って言われた通り三原のバッグに手を掛ける。サイドポケットのチャックを開けると、そこに、悪趣味と言っては悪いが三原の金色で揃えられた装飾品や腕時計を入れた。


 和泉が手首から外しているのは、思い出でもあるのか大切にされて来たのだろうアンティーク腕時計だった。円はそういうことには疎いが、デザインからしておそらくかなりの年代ものだろう。三原の装飾品も相当価値がありそうだが、和泉のものは年代的な金には買えられない値打ちがありそうだった。


 今回の仕事に選ばれた人間は、金回りのいい者と金に苦労していそうな人間が半々といった感じで揃ったように思う。何か父の友人が意図するところがあったのだろうか。


「和泉さん、眼鏡も外しておいた方がいいです。多分カラスが狙ってきます」


「うん? ああ、そうだね。これも手放すと不安だから自分で持っていることにするよ」


 眼鏡を外した和泉は、右手に腕時計、左手に眼鏡を優しく包むようにしてカラスの目に映らないよう隠し持った。


 装飾品といえばリボン飾りの付いたバレッタくらいしか身に着けていない円は特に慌てる必要はなかった。


 他の女性陣が慌てふためいて装飾品を外し、鞄の中に詰め込むのを横目に見ているのは門野だ。門野は美人だが飾り気がないので光り物などは所持していなかった。


 隣の司堂に関しても腕時計や装飾品を身に着けていなかったため悠々としたものだ。


 故意に立てられたシャツの首元に、チョーカーのような藍色の紐がちらりと見えた気がしたが、光り物ではないので心配いらないだろう。


「もぉ、円ちゃん! こういう重要なことはあらかじめ言っておいてくれないと困るんだから! 未歩の大事なヘアピンを取られちゃったじゃない!」


 倉内は落ちてきてしまう長めの前髪を何度も額に撫でつけながら困ったような顔で円を責めた。


「すみません……。私もここへ来るのはすごく久しぶりなので、すっかり忘れていたんです」


「カラスって凶暴で危険な生き物でしょう。依頼主だったら雇った人間に危険が及ばないように心掛けるのが義務じゃないの?」


 追い打ちを掛けてきたのは門野だ。最初に会った時からの印象だが、相当きつい性格をしている。性悪と言ってしまった方が齟齬がないかもしれない。


 それでも仕事の話を持って行った時にはもう少し愛想のいい女性だったが、やはりあれは円の印象をよくするための演技だったのか。硝子の館に非常に興味があるように見受けられたので、ここまで来てしまえばもう円の機嫌を窺う必要もないと考えたのだろう。たとえ円に嫌われる言動を取ったとしても、三日間は追い返される必要がないのだから。


「あの、お言葉ですがカラスは本来、凶暴な生き物ではないですよ。頭のいい生き物なのでよくテレビなんかで人間との攻防が繰り広げられますが、基本的に彼らは自分や子供の身を守るために仕方なく攻撃して来るか、そうでなければ単に遊んでいるだけなので」


 門野は釣り上がった目で安来を睨んだ。


「はぁ? こんな場所でカラスの肩を持ってどうするの? ふん……あなた、表向きは動物好きで人の良さそうな顔してるけど、影では何をやってたのかしらね?」


 門野は安来の何かを知っているようで、軽く脅しのような言葉を口にした。安来は表情を曇らせて俯いて黙ってしまった。


 そんな安来の肩に優しく手を置きながら倉内が「気にしたら駄目だよ、安来ちゃん」と励ましの言葉を掛けている。


 門野は本当に感じの悪い女性だ。何がそんなに気に食わないのかわからないが、人の粗を探していつでも攻撃する準備を整えているかのようにさえ見える。


「まあまあ、麻恵さん。無駄に敵を作ってもいいことないよ」


 司堂がなだめると、門野は軽く鼻を鳴らしたものの気を静めたようだ。下の名前で呼んでいるし、共に行動することが多い二人はやはり親しい仲なのだろう。


「気の強い美人ってのは実にいいね」


 円の背後で三原の声が聞こえた。まさか人の彼女に本気で手を出すことはないと思うが、今回集められた面子は色々と問題が勃発しそうで、円は早くも気が重かった。


「円ちゃんは今のままで充分魅力的な女性だと思うけどな」


 短い嘆息を勘違いされたのかもしれない。三原は円へのフォローのつもりなのか、また頭に手を置いてきた。


 三原のこのスキンシップの意味は一体なんなのだろう。円に気があるというのでもなさそうだが、三原の態度が円にだけ特別扱いのように思えてならないのだ。


 色々とわからないことは多いが、やけに大きく温かい三原の手に安心感を覚えている自分がいることだけは確かだった。


「俺以外、頭のおかしい奴ばかり集まったな」


 佐村の毒舌に物申す気力は今の円にはなかったが、心の中で類は友を呼ぶという言葉が思い浮かんだ。


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