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うるさい目覚まし時計を止めてベッドからずり落ちるように這い出す。午前二時までは起きていた記憶があるので、五時間以上は眠れた計算だ。時刻は朝の七時半で、髪をとかして階下におりると嘉川が玄関で誰かと話をしているような声が聞こえた。こんな朝早くに神無木家を訪れる客に心当たりなどない。
「おはようございます、嘉川さん。お客さんが来ていたんですか?」
「あら、ええ、はい。円さんのお知り合いだって言うものだから色々お話してしまったのだけれど、いけなかったかしら」
嘉川は焦ったように口元に手を当てたが、別に話されたって困るようなことは円には何もない。円に知り合いと呼べる人間など心当たりはなかったが「構いませんよ」と答えておいた。
朝食を取った後、円は家の前まで呼んでおいたタクシーの運転手にショッピングモールへ向かうように指示した。そこには硝子の館へ行く前に必ず行っていた缶詰専門店が入っており、子供の頃は多様な品揃えに目移りしてわくわくしたものだ。
信号待ちでタクシーが停車し、暇なので変わり映えのしない街の景色を眺めていた円は、妙なものを見付けて帽子のつばを顔が隠れるように引っ張った。
司堂と門野が連れだって、表通りのファミレスに入って行くところを目撃してしまったのだ。窓際の席に腰掛ける二人。何をしているのだろうか。盗み見など趣味がいいとは言えない行為だが、湧き出る好奇心には勝てなかった。
司堂が黒い鞄から書類のようなものを取り出してテーブルの上に置き、門野がそれを確認した後に少し迷っているような素振りを見せた。それからしばらく二人は何かの会話を交わし、門野が渋々といった感じで書類にペンを走らせた。
話はまとまったのか、門野は自分が持っていた鞄の中から細長い箱のようなものを取り出し司堂に手渡す。箱を開けた瞬間司堂の顔が曇った気がしたが、それも一瞬のことで、司堂はすぐに笑みを浮かべて門野の右手を両手で包み込むように握った。
いけないものを見てしまった気がして、円は気まずい思いをしながら二人から視線を外す。なぜあの二人が一緒にいるのだろうか。司堂は佐村のことも知っていたし、狭い区画で同じ探偵業を生業にしている人間のことだ。元から知り合いだったとしても不思議はない。人間とは意外に見えない線で繋がっているものである。
司堂の今日の用事というのは門野と会うことだったのだろう。それにしても女との逢瀬が、有事が予想される円の両親の安否確認よりも優先すべき事項だったとは思えないのだが……。
悶々とした気持ちが晴れないまま、タクシーは家から三十分足らずで現地に到着した。円はもしも食料を買い忘れた人がいた場合に分けてあげられるよう、種々多用な缶詰を買い込んだ。そのせいで家に帰り付いた円の荷物は、詰め込んでみるとボストンバック二つ分に膨れ上がった。なんとか持ち上げられるが、長い引きこもり生活で筋肉が衰えていたのか、わずかに肩が軋む。情けない話だ。
明日の今頃には硝子の館に到着しているだろう。円は家族四人が写った写真を数分間見詰めてから、一度胸にギュッと抱いた後バッグの中へ入れた。今、家族を近くに感じられる幸せな思い出が、円にはそれしかなかったから。
ベッドの中で円は色々なことを考えた。両親と無事に会えたとして、母に「巴」と呼ばれた時、自分は笑顔で応対ができるだろうか。泣いてしまったりしないだろうか。苦しくなったり、また逃げ出したくなったり、世界に背中を向けたりしないだろうか。
自信はない。考えただけで、すべてを投げ出してこの部屋の中で呼吸していただけの無為な日々に戻りたいとすら思ってしまう。円は頭からタオルケットを被り、無理やり目を閉じた。
今は両親と無事に再会することだけを考えよう。面倒なことはその後で考えればいい。昨日、そして今日、自分は閉じこもっていた殻の中から確かに前進したのだ。その一歩は、たとえまた円が立ち止まってしまう日が来たとしても、世界からなくなったりはしない。




