表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
0の庭  作者: 七星ドミノ
11/53

1-9

 時間より数分早く三原の探偵事務所に到着すると、ビルの脇に設けられた駐車場に一台の高級車が停まった。降りて来たのは派手な柄シャツを着たがたいのいい中年男性だ。首の周りを飾っている金のアクセサリがしゃらんと鳴った。


 丁度仕事から帰って来たのだろう。特徴からして三原明春で間違いない。サングラスを外した三原の顔を見て円は首を傾げた。


「あれ……前によく家に遊びに来ていた人ですよね?」


「君は、神無木円ちゃんだな?」


「はい、そうです」


「ああ……君のお袋さんとは高校時代の同級生でね。近くに寄った時は顔を見せに行ってたんだ。円ちゃんとも何度か遊んだことがあるんだが、そこまでは覚えてないか。まだ小さかったもんな」


 少しだけ黄ばんだ歯を見せて彼は笑った。懐かしい気がするのは、昔に会ったことがあるからなのか。一見するとチンピラのような見た目をしているので、少し怖い人なのかと思っていたら、話してみれば気さくで明け透けとした男だった。


 事務所に通され席に着くと、無表情を張り付けた秘書が冷たい麦茶を運んで来てくれた。茶色い液体の中に浮いた氷が擦れてカランと涼しげな音がした。


「久しぶりだな、佐村。元気にやってるか?」


「おかげさまで、仕事も順調っすよ」


 どうやら二人は知り合いだったらしい。三原という男は随分と顔が広いようだ。二人はかなり親しい仲だったらしく、三原は昔の思い出話に花を咲かせ始めた。


 八年前に佐村が三原の事務所に「匿ってくれ」と転がり込んできたことや、そこから三原が世話をして佐村に探偵のいろはを叩き込んだこと。しかし五年前に独立したいと言い、恩も忘れて三原のもとを去って行ったことなど、思い出話というより後半は三原の恨み節のようになっていた。


「この恩知らずめ」


 三原は笑いながら嫌味を言う。


「それは言わない約束でしょう。それよりも今日は仕事の話をしに来てんですよ、三原さん」


「ああ、そうだったな。すまなかった」


 三原の思い出話で完全に蚊帳の外だった円に視線が向けられる。円は今日八度目の説明を三原に話して聞かせた。仕事内容と現状を話し終えると、三原は神妙な面持ちで顎に片手を当てた。


「すぐにでも現地に向かった方がよさそうな状況だな。しかしそこまで不便な場所となると、それなりに準備も必要か」


「私も硝子の館へ行く時は、いつもペットボトルの飲料や缶詰各種、非常食にもなる菓子類を親に言われてリュックに詰め込んで行きました。掛かった費用はこちらで負担するので準備だけは各自でお願いします。現地にも数人が数週間食いつなぐだけの蓄えはありますが、好みの問題もあると思うので、各々用意してもらった方が間違いがないと思います」


「了解だ。集合は七月二十五日、午前十一時にK県のH駅だな」


 再確認しながら三原は黒革の手帳にスケジュールを書き込んでから、ジャケットの内ポケットに入れた。


 三原と話をしていると、他の面々には感じなかった安心感を覚える。おそらく三原が非常に仕事慣れしていそうで、プロ意識の高い人間だからだろう。あの毒ばかり吐いていた佐村も「まあ、三原さんが一人いれば大抵の事件は片付くだろ」と認めているのだから。


 氷で薄まった麦茶を口に運ぶ。物言いたげな視線を佐村に向けていた三原が、前かがみになり真剣な表情を作る。


「もう一度うちでやらないか、佐村」


「三原さん、それは言わない約束でしょ」


 一瞬の迷いも淀みもない、はっきりとした返事だった。断られたというのに三原の顔には、最初からそう言うわれることがわかっていたかのような、呆れ半分嬉しさ半分といった笑みが浮かんでいた。


「そっちの仕事が立ち行かなくなったら、いつでも俺のとこに来い」


「そん時は、遠慮なく居候させてもらいます」


 事務所に三原の豪快な笑い声が響く。同じ事務所内で書類処理の仕事に勤しんでいた人間達は少しだけ迷惑そうに顔をしかめた。



 佐村と共に三原の事務所を出て、気になったことを聞いてみる。


「どうして独立を?」


「考え方や、やり方が合わなかった。後は人間性の問題だな。三原さんは見て分かったと思うが金には困ってない。それでも依頼を受ける時の第一条件は報酬額だ。三原探偵事務所は請けた仕事は確実に成功させることに定評はあるが、その一端を担ってたのは俺だ。成績がいいからって浮気調査の仕事を毎回押し付けられるのが苦痛でな。男女問題なんて正直俺は興味がない。そういう仕事を任されるたびに俺の中に鬱憤が溜まっていった。自分の事務所を持ちてえなって思うようになるのに時間もそれ以外の理由もいらなかったよ。ところがな」


 一旦言葉を区切った佐村は、何を思い出したのか噴き出した。佐村が自然に笑った顔を初めて見た気がした。いつもは大人びているのに、笑うと少しだけ幼く見える佐村の横顔に、円は一瞬だけ視線を奪われた。


「三原さんは表向きは祝福してくれたが、その後、謎の人間達による風評被害や迷惑行為で俺の事務所はしばらく苦境に立たされた。三原さんが雇った人間だとすぐにわかったけどな。表面は豪快で裏表のなさそうな男だが、内面は意外と恨みがましくしつこいぞ、あの人は。まあ、恩があることに変わりはねえし、探偵としての技量は認めざるを得ないから、俺は今でも三原さんには敬意を持って接してるけどな」


 表通りを走る空車のタクシーを捕まえながら佐村は会話を終えた。タクシーに乗り込もうとした時だ。後ろから声を掛けられて円は振り返る。


「円! ……ちゃん。よかったらこれを持って行きな」


 慌てて追いかけて来た三原が円に包装された平たく四角い箱を手渡してきた。


「甘いもんらしいんだが、どうにも俺はそういうのが苦手でね。円ちゃんは好きだろう、甘いもん」


「はい、大好きです。ありがとうございます」


 三原はにかっと笑い、円の頭をぽんぽんと撫でると事務所に引っ込んで行った。


 なぜ円が甘いもの好きだと知っていたのだろうか。それに、頭を撫でられた時、父に撫でられた時のような懐かしさを感じた。三原という男は、円にとってどんな人間なのだろう。


「あ、そうだ佐村さん、八年前に三原さんの事務所に転がり込んだって言ってましたけど、どうしてですか?」


「死ぬほど暇な時に教えてやる」


 佐村は円の体をとんっと押して来て、円はよろめいて後部座席にすとんっと腰が落ちた。


「佐村さんは一緒に乗らないんですか?」


「寄って行くところがある」


 佐村とはそこで別れ、円はタクシーで自宅まで帰った。


 家に着く頃にはすっかり日は西に傾いていて、空はオレンジに染められていた。


 ずっと家に引きこもっているだけだった円だ。今日一日で数年分の体力と精神力をすり減らした気がする。非常に疲れたはずなのに、どこか清々しいのはなぜだろう。きっと巴もこの清々しさを求めて、飛び立つ努力をしていたのかもしれない。


 同じ日に命を分かち合った弟のために、なぜ何もしてやれなかったのかと、いなくなってから後悔の念が押し寄せてくる。せめて今生きている父と母には、同じ後悔を抱かないように接したい。


「どうか、お父さんとお母さんが無事でありますように」


 二人は無事だと信じているが、沈み行く太陽に言い知れない心細さを感じる。長い夜を後二回数えなければ、両親のもとへは辿り着けないのだ。円にとっては戦いだった。


 それでも救いだったのは、手紙に書かれた八人全員に協力を仰げたことだ。H駅を降りた後は現地近くまでは専用のマイクロバスで向かう。


 手紙に書いてあった神無木家が雇っている臨時の運転手の番号に電話を入れる。幼い頃から聞き慣れている、しわがれた声が電話口から聞こえた。彼に日時を伝えると「かしこまりました、円お嬢様」という慇懃な返答があった。


 受話器を元の位置に戻した円は、手紙にもう一度目を通し、感じた違和感について考える。ここまで周到な準備を指示した手紙の主は、まるで硝子の館で何かが起きることを予知しているかのように思えた。よくないことが起きなければいいのだが。



 夜が長かった。今まで超えたどの夜よりも、その日の夜は永遠に明けないのではないかと思えるほどに長かった。


 早く両親の安否を確認したい。気ばかり逸るが明日は必要な物資の買い出しに出掛けて、必要な物を色々と準備しなければならないのだ。しっかり休んでおかなければ体が持たないだろう。今日だって寝不足の体を引きずって街中を回ったのだから、円の体は休息を欲している。


 眠る前に心配事をできるだけ片付けておこうと思い、円はロッカーの中から旅行鞄を引っ張り出した。何着か動きやすい夏服を詰め込み、幼い頃を思い出しながら、懐中電灯や非常食になり得る菓子類も入れた。だがチョコレート系だけは入れなかった。硝子の館にはエアコンが設置されていない上に冷蔵庫もないため、この時期にチョコレートを持ち込むと溶けてしまうからだ。そういえば重要な事項なのに、全員に伝えたかな、と円は首を傾げた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ