表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
0の庭  作者: 七星ドミノ
1/53

prologue:止まった時計

 昼だというのに厚いカーテンを閉め切った部屋は薄暗い。どれほどの時間、あの桜色のカーテンに触れていないだろう。思い出すのも面倒だった。


 部屋の隅に置かれたベッドの上で膝を抱え、日がな一日ただ時間が過ぎて行くのを待った。時間が早く、この命を削ってくれたら。


 そんな風に思いながら、よれたシーツの上でわずかに身じろぎする。生きているから仕方なく繰り返しているだけの呼吸は、部屋に響く秒針の音にかき消されては、凝りもせずにまた自分の口から生まれては空気に溶けた。


 十九歳の女の部屋にしては簡素で飾り気がない空間で、棚の上に飾られた置時計だけが懸命に働いている。デジタルは無機質で嫌だと言ったら、父が誕生日祝いに買ってくれたアナログの置時計だ。持ち主よりも、あの時計の方がよほど命の使い方がうまいと思う。


 顔をあげて時間を確認する。


 先ほどから何度も時計を確認しているが、一分が、いや一秒が、異様に長く感じた。時計が壊れているのか、それとも壊れているのは自分の方なのか、重く鈍った頭で考えてもよくわからなかった。


 一日が早く終わってくれることを祈りながら、自室に閉じこもり何もせずに命を浪費していく。そんな生活を長く続けていると、自分には生きている価値があるのだろうかと、何度も同じ問いが頭の中を巡るようになった。


 部屋の前を誰かが通る足音がした。父か、母か、それとも家政婦の嘉川かがわだろうか。誰かもわからない足音が聞こえるたびに、両手で耳を塞いで震えた。


 部屋の扉をノックして「ともえ」と名を呼ぶ母――薫子かおるこの声が怖い。その名前で呼ばれることが〈まどか〉にとっては何よりも苦痛だった。


 ――巴は死んだ、一年前に。交通事故に巻き込まれて。


 母と円の目の前で、体がひしゃげるほどのスピードで車に激突され、固いコンクリートの上に打ち付けられた巴は、すでに呼吸はしていなかったと思う。


 そうであってほしいと思う。


 あの状態でまだ苦痛を感じる意識が残っていたのだとしたら、それはあまりに残酷だ。


 地面に倒れ、赤い染みを広げながらおかしな方向に関節の曲がった巴の体を、車はさらに執拗に引きずって電柱にぶつかった。運転手の女性も即死だったという。


 コンクリートの上には妙に鮮やかな赤く太い筋が残り、今でも目を瞑ると、あの時の光景がまざまざと目蓋の裏側に浮かび上がるのだ。まるで呪われた刻印のように。


 交差点で事故を引き起こした運転手の精神はここ最近不安定で、当日も錯乱に近い状態で車に乗り込んだらしい。警察の捜査でも事件性はないということで、事故として処理された。


 円が自分の半身を捥がれた日。あの日を境に母は狂ってしまった。


 双子の弟である巴と円の見た目は確かに瓜二つだったが、事故から一ヶ月が立ち、精神病院から退院して帰って来た母は、円を見て「巴」と笑い掛けた。


 母の世界では姉である円の方が消え、巴の方が生き残ったのだ。


 それから円は前にも増して部屋に籠るようになった。


 父と母の顔も、もう一年近く見ていない。同じ家に住んでいて異常だと思うが、食事は家政婦の嘉川が運んでくれるし、入浴やトイレは、両親が寝静まった夜中に済ませれば問題なかった。


 巴は努力家だった。円とは違い、戦う勇気を最後まで捨てなかった。過去の傷が原因で円と同じく家に引き籠り気味だった弟の巴は、それでもまた外へ出るために努力していた。比べて円は、すべてのものから逃げようと必死で、巴のように頑張ろうという意識さえとっくの昔に手放していたのだ。


 両親がどちらを愛していたかなど、聞くまでもなく了然だろう。


 なぜ自分の方が生き残ってしまったのか、そのことを円は数えきれないほど嘆いた。自分が生き残ってしまったことを呪った。申し訳なくて両親にあわせる顔がない。


 たびたび部屋の扉をノックしては「巴。巴?」と優しく繰り返す母の声は、円にとってどんな罵詈よりも心を抉られるものだった。部屋に弟の名前を呼ぶ母の声が響くたびに、円は両手で耳を塞ぎ、歯を食いしばって耐えた。


「もう大丈夫だよ」


 巴が円の立場であれば、間違いなくそう言って両親を真っ先に安心させていただろう。それが円にはできない。できない自分が、どうしようもなく情けなくて、許せなくて、大嫌いだった。


 時計を確認する。先ほどからまだ五分も経っていない。円の口から陰鬱な溜息が漏れる。


 半身を失ったあの日から、円の時計は動いていないのだ。停滞した世界の中で、無意味な呼吸を繰り返しているだけに過ぎない。この呼吸を止めることができたなら、どんなに楽だろう。


 何度も考えた。自分で幕を引く結末を。だが、できないのだ。苦しいのが嫌なんじゃない。苦しみなら、今味わっている以上のものなんて円の中には存在しなかった。


 怖いわけでもない。止まった時間の中で行く先もわからず揺蕩っている恐怖に比べれば、自らの手ですべてを終わらせることなどなんとも思わない。


 ただ、自分の手によって母から〈巴〉を奪ってしまうことが、どうしてもできないだけだ。


 巴の振りをして笑い掛けてあげることもできないくせに、自分はまだ、自分に許された最後の価値を手放せずにいる。


 時計を見る。


 まだ、先ほどから一分と三十秒しか経っていなかった。


「止まっているのと、ほとんど何も変わらないじゃない……」


 小さく零した言葉は、部屋にわだかまる薄闇に吸い込まれて消えた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ