25.カレンダー導入とハンネス様の相談
子どもというものは高いところに登ることはできても、降りられなくなることがしばしばある。小さい子は特に危険も顧みずに高いところに登っていくが、降りるときに助けを求めて泣くことが多い。
オルガさんに呼ばれてわたくしとハンネス様とマウリ様とヨハンナ様は、子ども用の高い椅子によじ登ったフローラ様を見守っていた。オルガさんはいつでも手の届く位置で見守っている。
考える動作をして、フローラ様は椅子の上で身体を逆転させた。背もたれの方を向いて、椅子の座面に手を置いてお尻から脚を下ろして降りていく。上手に降りられてこちらを向いたフローラ様に、わたくしとハンネス様とマウリ様とヨハンナ様の拍手喝さいが起きた。
「フローラ様、とても上手に降りられました!」
「フローラ、なんていい子!」
「フローラ、すごいよ!」
「頑張りましたね、フローラ」
これまでできなかったことを習得した二歳児のフローラ様は褒められて得意げな顔で何度も椅子に上がっては降りてを繰り返していた。そのたびにオルガさんが惜しみなく称賛する。
「フローラ様、素晴らしいです」
「ふー、すばらち!」
「怪我をしないで高いところから降りられるようになりましたね!」
覚えた降り方をフローラ様はもう忘れないだろう。これだけ称賛されたのだ。
オルガさんとわたくしとハンネス様とマウリ様とヨハンナ様でフローラ様の昇り降りを見ていると、サロモン先生が子ども部屋に来ていた。
「子どもの小さな成長も認めて惜しみなく褒める……その姿勢が素晴らしい」
「サロモン先生も素晴らしいと思いますか? 本当にフローラの可愛いこと」
「素晴らしいのはあなたです」
「フローラったら、毎日色んなことができるようになるんです。サロモン先生の授業に加わるようになる日も近いのでしょうか」
会話がすれ違っていることにヨハンナ様は気付いていない。ヨハンナ様の視界にサロモン先生は入っているようで入っていなくて、フローラ様のことが心の多くを占めていた。
ヨハンナ様を褒めているのに伝わっていないサロモン先生は心なしかしょんぼりとしていた。
勉強の前にマウリ様がフローラ様を連れて壁に貼られた数字の書かれた紙の前に立つ。昨日の日付に大きくバツを書いて、フローラ様にマウリ様が教える。
「のこり、みっつ」
「みっちゅ」
「みっつで、みーとクリスさまとラントりょうのちちうえとははうえにあえるからね」
「あい!」
分かりやすく目に見える表を作ったおかげで、マウリ様も見通しが立ったし、フローラ様もなんとなくラント領からミルヴァ様とクリスティアンとわたくしの両親の来る日が分かっているようだった。
来る日にはクレヨンの赤で花丸が書いてある。
「分かりやすい表ですね。カレンダーでしょうか」
「カレンダー? わたくしが去年、マウリ様に作ったものを真似たのだと思いますが」
「アイラ様が考えたのですね。アイラ様はカレンダーをご存じない?」
知らないわけではないが、カレンダーというものをわたくしは使ったことがなかった。高等学校の授業は一週間のカリキュラムが決まっていたし、終業式などの行事のあるときには掲示板にお知らせが貼られる。それを見ていつ行事があるのかを確認すれば良かった。
わたくしの中では一週間単位でしか物事は計画されていなかったのだ。
「一年を通してスケジュールを立てるときに便利ですよ。アイラ様も使っていい年頃なのでは?」
「わたくしにも必要ですか?」
「アイラ様だけでなく、子ども部屋にも、ハンネス様の部屋にも必要だと思います」
カレンダーがあればわざわざ表を手作りしなくても予定が分かるのだと言われれば、わたくしもカレンダーの導入に積極的にならざるを得なかった。
カールロ様とスティーナ様に相談しようと執務室に向かうと、ハンネス様とマウリ様も付いて来ていた。ハンネス様は厳しい表情をしている。
「執務中に失礼します。サロモン先生のアドバイスで、カレンダーを使うことを教えられたのですが、購入してもよろしいでしょうか?」
「カレンダーをアイラ様は使ってなかったのか?」
「高等学校に行くというのにスケジュール帳も準備していませんでしたね。気が付かなくてすみません」
わたくしが遅れていただけで、わたくしの年頃になるとみんなカレンダーやスケジュール帳で予定を管理するのだとわたくしはそのとき初めて知った。覚えていられるから平気だと思っていた自分が少し恥ずかしい。
すぐに手配してくれてヘルレヴィ家にカレンダーとスケジュール帳が届くことになったのだが、問題はその話が終わった後だった。
決意した表情でハンネス様がカールロ様に言う。
「サロモン先生のことでご相談があります」
「サロモン様のことで? 授業に何か問題でもあったか?」
真剣なハンネス様に同じく真剣に聞くカールロ様。ハンネス様はこくりと唾を飲み込む。言いにくいことを必死で口にしようと葛藤しているのが横で見ていて分かる。ハンネス様が口を開こうとしたとき。
「サロモンせんせい、ヨハンナさまがすきみたい。でもね、ぜんぜんつうじてないんだよ」
あっさりとマウリ様が話の内容を口にしてしまった。
「マウリ……」
「にいさま、くるしそうなかおしないでいいよ。まーがいってあげたからね」
誇らしげなマウリ様の髪を撫でてハンネス様がマウリ様に続ける。撫でられたマウリ様は目を細めて喜んでいる。
「シルヴェン家は代々宰相閣下の家系と聞きます。母がまた妾として迎えられないか……サロモン先生の権力で脅かされないかが心配なのです」
妾にさせられては嫌だし、結婚できたとしても子どもが二人もいる元妾のヨハンナ様をシェルヴェン家のサロモン先生のご両親が許すかどうか分からない。たくさんの不安と葛藤の中にハンネス様はいた。
ヨハンナ様が気付いていない分だけ、ハンネス様の方が悩んでいたのだ。
「そうか……全然気付かなかった。そうだな……ヨハンナ様を妾にするなど、俺が絶対に許さないが、サロモン様は将来はシルヴェン家を継いで宰相閣下になると言われている。ヨハンナ様とのことを反対するものは出てくるだろう」
「それくらいなら、母には関わらないでほしいのです! 母は、今幸せだと言っています。母を不幸にする相手には近付いて欲しくない」
息子として当然のハンネス様の言葉に、わたくしも胸を揺さぶられる。ヨハンナ様は男性を頼りにして生きていたくないとはっきり言っていた。シルヴェン家のサロモン先生に正式に申し込まれれば、将来の宰相閣下の妾か正妻か、どちらにせよ針の筵になる可能性が高かった。
「その話、わたくしに引き取らせてください」
「スティーナ様?」
「わたくし、シルヴェン家に手紙を書かせていただきます」
「大事にしないでください」
「いえ、書くのはご両親ではなく、お姉様です」
サロモン先生の姉君について、スティーナ様は何か知っていることがあるようだった。
それがどういう内容かは明かさなかったけれど、スティーナ様がハンネス様とヨハンナ様を命の恩人として大事に思っていることはわたくしもよく知っていた。ハンネス様とヨハンナ様にとって悪い方向に行くようなことをするはずがない。
「ハンネス様、スティーナ様にお願いいたしましょう」
「はい。スティーナ様、どうかよろしくお願いします」
相談してやっと安心したのか、ハンネス様の身体からこわばりが取れていた。わたくしと手を繋いで、ハンネス様とも手を繋いで、真ん中を歩きながらマウリ様がハンネス様を見上げる。
「にいさま、おかあさまをしんじて」
「はい、スティーナ様がきっといい方向に導いてくれると信じています」
こうして子ども部屋に帰ったわたくしたちは、ヨハンナ様からまた怪文書を見せられるのだった。
「サロモン先生は、わたくしにもっと勉強しろと言っているのでしょうか? どうしても読み解けないのですが」
その読み解けない怪文書が、サロモン先生からヨハンナ様への愛を綴った詩だということを、わたくしはまだヨハンナ様に言えずにいた。
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