12.ハンネス様とヨハンナ様の話し合い
帰りの馬車の中でもハンネス様の表情は暗かった。口数も少なく、わたくしとあまり目も合わせなかった。沈黙の中でお屋敷に帰り付くと、珍しくマウリ様がわたくしではなくハンネス様に飛び付いて行った。
「にいさまー! サロモンせんせいとおさんぽしたのー! にいさまのおへやと、アイラさまのおへやのばしょと、おてあらいと、バスルームと……いろいろおしえてあげたんだよ!」
「マウリ様は偉いですね」
「にいさま、なんで、まーのこと、さまってよぶの?」
純粋なマウリ様の問いかけにハンネス様が慌てる。
「私はオスモ様の妾の子どもで……マウリ様の兄ですが、母親の違う身分の低い兄なのです」
「みぶんってなぁに?」
「その……」
「ははおやがちがうって、なぁに? にいさまのおかあさまはヨハンナさまだけど、わたし、ヨハンナさま、だいすきよ?」
「いえ、あの……」
戸惑って返事のできないハンネス様にマウリ様がお願いする。
「おとうさまが、きょうからはよびすてにするっていったとき、わたし、すごくうれしかった。よびすてって、だいじなひとしかしないでしょう? にいさまもわたしをよびすてにして? マウリってよんで!」
ヨハンナ様のことで悩んでいるハンネス様に、マウリ様のお願いは今は荷が重いものかもしれない。言葉を添えようとしたら、ヨハンナ様とサロモン先生が笑顔で二人の傍に来てくれる。
「カールロ様はハンネス様を本当の子どもと思っていると仰いました」
「ハンネス、マウリ様に遠慮することはないんじゃないかしら。呼び捨てが気になるなら、もっと親し気に『マウリくん』って呼んで差し上げたら?」
「マウリくん!? わたし、にいさまにマウリくんってよばれるの、うれしい!」
蜂蜜色のお目目を輝かせているマウリ様にハンネス様が折れる形になった。
「それでは、マウリくんと呼ばせていただきますね」
「みーのことは?」
「ミルヴァちゃんでしょうか。今日の通信でそれでいいか聞いてみましょう」
「やった! マウリくんとミルヴァちゃん! にいさまがわたしたちをだいすきなしょうこだね!」
ハンネス様の周りを飛び跳ねて喜ぶマウリ様に、ハンネス様の表情も明るくなったような気がした。マウリ様は場の空気を明るくする才能がある。わたくしの姿に気付いて飛び付いてハグをしてくる。
「アイラさまー! おかえりなさい! にいさまが、わたしを『マウリくん』ってよんでくれて、みーを『ミルヴァちゃん』ってよんでくれるんだよ!」
「それは良かったですね」
抱き返しながら「ただいま帰りました」と伝えていると、ハンネス様は心を決めたようだった。ヨハンナ様に向き合っている。
「母上は、私がいるから結婚できないのではないでしょうか?」
勇気を出して震える拳を握ったハンネス様に、ヨハンナ様が困ったように微笑む。
「そんなことを考えていたのですか。ハンネス、あなたには心配をかけたようですね」
「母上、本当のことを話してください」
必死に取り縋るハンネス様にヨハンナ様がほろ苦く微笑みながら答える。
「わたくしは妾の身分で、結婚したことがありません。結婚自体に夢も抱いておりません。わたくしは男性に左右されるような人生は送りたくないのです。マウリ様の乳母として働くことで自分で稼いで、自立できていることがわたくしは嬉しいのです。今はとても幸せです」
「それでも、私がいなかったら、母上はオスモ様に囚われることもなかった!」
涙の滲む緑の目で必死にヨハンナ様に取り縋るハンネス様を、ヨハンナ様はしっかりと抱き締めた。
「正直、オスモ様との子どもを望んではいませんでした。でも、ハンネスはとてもいい子に育ってくれた。わたくしにとっては誇りです。大事な愛する息子です。あなたがいるからこそ、わたくしは幸せなのです」
抱き締められてハンネス様は涙目でヨハンナ様にしがみ付いていた。二人の姿を見てサロモン先生が目を細めている。
「お二人ともお互いを大事にし合っていて、とても美しい」
「にいさまとにいさまのおかあさまがなかよしで、わたしもうれしいな」
「マウリ様の傍にいると幸せになれるのかもしれませんね」
サロモン先生の言葉にマウリ様がわたくしのスカートを握ったまま目を丸くする。
「わたし、みんなをしあわせにしてる?」
「マウリ様の優しい気持ちが周囲に広がっているのでしょう」
「わたし、やさしい……サロモンせんせいにほめられちゃった!」
嬉しそうなマウリ様はわたくしに飛び付いて来ていた。わたくしも抱き留めるが、かなり大きくなっているのでバランスを崩しそうになってしまう。
これは本格的に肉体強化の魔法を覚えなければマウリ様をそのうち受け止めきれなくなる。
おやつの時間にはサロモン先生もお呼びした。
おやつを一緒に食べてお茶を飲むとマウリ様が慣れるのが早いだろうというカールロ様の考えだった。
「ハンネスはヨハンナ様と話したんだって?」
「私は、生まれてこない方がよかったのかと思っていたのです」
まだ10歳のハンネス様の口から出た言葉にわたくしは心臓が冷たくなるような気がした。獣の本性を持っていないという状態で生まれて来たわたくしだが、常に両親はわたくしを愛してくれて、一度も生まれてこない方がよかったなどとは考えたことがない。そこに至るまでのハンネス様の苦悩を思うと胸が痛む。
「私がいなければ、母上はオスモ様から逃げることもできた……私が産まれてしまったから、母上は逃げ場もなく、ヘルレヴィ家に連れて来られてからも、私がいるから乳母の仕事を引き受けたのだと思っていました」
「そんなことはないのですよ」
「はい、母上に話してもらって、それが分かりました。母上は私が考えていたよりも強い方だった」
母子が分かり合うことができてわたくしは本当に安堵する。
ハンネス様の口から「生まれてこない方が良かった」などという単語が出るのは、聞いていてもつらいことだった。
「まー、トカゲだったの」
マウリ様が話し出す。
「トカゲだから、みーとまー、いらないってされた。さむいおへやで、うばはまーとみー、パチンした! わたし、こわくておふとんからでなかった」
語り出したマウリ様は2歳までのことを鮮明に覚えているようだった。わたくしが迎えに行くまでにマウリ様は寒い部屋で乳母に酷い扱いを受けていた。
「アイラさまがむかえにきてくれて、わたし、ラントりょうでこわくなくなった。おかあさまとあえて、にいさまとヨハンナさまとあえて、おとうさまにもあえて、わたし、いま、とてもしあわせ。ヨハンナさま、わたしのうばでいてくれてありがとう!」
5歳なりに言葉を連ねたお礼にヨハンナ様の表情が緩む。スティーナ様も涙ぐんで、カールロ様に肩を抱かれている。
「わたくしの方こそ、ありがとうございます、マウリ様」
「わたし、おとうさまもおかあさまも、にいさまもヨハンナさまも、すき! アイラさまだいすき!」
元気よく言ってからマウリ様がサロモン先生をちらりと見る。
「サロモンせんせい、もっとにこってすればいいのに」
「え? にこっですか?」
「きらいじゃないけど、おかおがちょっとこわいの」
言われてしまってサロモン先生はショックを受けているようだった。正直にマウリ様が物を言えるようになったということはそれだけ慣れたということだ。それをソロモン先生に伝えたかったが、ショックが大きい様子を見るとなかなか口に出せない。
「もっと、にこっと……」
必死に口角を上げようとしているソロモン先生だが、眉間に皺が寄ってしまっていて、まだまだ子どもの相手をするのは難しいようだった。
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