15.ヘルレヴィ領の新年
その年の最後の日も、夜に眠る前にわたくしはマウリ様におまじないをした。柔らかな蜂蜜色の前髪を上げて、小さな額にキスをする。
「怖いことは何もないですよ。怖くなったらわたくしのところに来てください。お休みなさい、マウリ様」
「おやすみなさい、アイラさま」
額に手をやってほっぺたを赤くして微笑んで布団に入るマウリ様は、最近ではほとんど朝は人間の姿で起きてくるようになっていた。夜中にドラゴンの姿になってもきちんと元に戻れるだけの制御力を付けている。
ドラゴンの姿にならずに済むのが一番なのだが、それはまだ4歳なので難しいだろう。
新年は式典もあるので忙しくなると、わたくしも早めに布団に入った。
年明けの最初の日は綺麗なドレスを着て朝食の席に着く。マウリ様もハーフ丈のスーツのスラックスとジャケットを着せられて、毛糸のベストとシャツを着ていた。わたくしは黒地に勿忘草の小花柄の入ったドレスだった。ハンネス様もスーツを着ている。スティーナ様は細身の体に鮮やかな青のドレスを着ていた。
「ヘルレヴィ・スィニネンと言って、この地域でしか染められない希少な青色なのですよ。今年はアイラ様のドレスも作りましょうね」
辺境域で育てられる絹をヘルレヴィ領で染めたヘルレヴィ・スィニネン。明るく鮮やかな青い色は目を引く。
「わたしも、アイラさまとおそろいにしたい! おかあさま!」
「マウリは幼年学校の入学式のときにスーツを作りましょう」
「ようねんがっこう、いつ?」
「来年ですね」
今年5歳になるマウリ様はまだ成長が著しいので服を頻繁に作らなければいけなかった。高価なヘルレヴィ・スィニネンのスーツはまだ早いのだろう。若干不満そうだが、幼年学校の名前を聞いて別の感情がマウリ様の中に生まれたようだ。
「わたし、ようねんがっこう、いかないといけない?」
「マウリは幼年学校に行きたくないのですか?」
「アイラさま、クリスさま、リーッタてんてーにおしえてもらってるよ。わたし、マルコてんてーじゃだめ?」
マルコ様は家庭教師という形をとってもらっているが、明確な資格があるわけでもなく、何よりマルコ様も学生だった。マウリ様が幼年学校に行く年になっても高等学校に通っているので、付きっきりで教えることはできない。
そのことを4歳のマウリ様に分かるように説明しようとすると難しさに言葉を探してしまう。
「マルコ様は専属の家庭教師にはなれません」
「マルコてんてー、てんてーじゃないの?」
「先生ですけど……」
説明に困るわたくしに、スティーナ様が言葉を添えてくれる。
「マルコ様はアイラ様と同じ年なのですよ。まだ勉強中でマウリに教えられないことがあります。マウリは幼年学校でみんなと一緒に勉強した方がいいと思うのです」
「私も一緒にいますよ」
「にいさまといっしょ……ようねんがっこう……」
ハンネス様と一緒ということにはマウリ様も少し心が動いたようだった。
朝食を食べてしまうと大広間に行く。大広間にはお菓子やお茶が用意してあって、貴族たちが集まっていた。
「魔法の才能がある婚約者様」
「獣の本性は持っていないらしいけど」
「魔法使いと、ドラゴンの結婚になるのでしょうか」
これまで陰口を叩かれて、嫌な言葉しか浴びせかけられていなかったのが、今は貴族たちに興味津々の視線に晒されるのが慣れない。マウリ様はわたくしのスカートを掴んで足元に隠れていた。
「この冬は厳しいものになりました。元夫のオスモの愚かな政治で家や土地を失った者たちをできる限りヘルレヴィ領の経営する寮に入れたのですが、それでも手の届かない者たちがいて、凍死も多く出ていると聞いています。これからより一層、領地を支えて行かねばなりません」
ヘルレヴィ領の苦難の年は続く。懸念はしていたが、やはり厳しい冬に凍死者が出ていた。スティーナ様はそういうことを食事の席では口にしないが、執務は大変だったことだろう。
「あ! ダイコンさん!」
マウリ様の横を抜けて大根マンドラゴラが走り出てスティーナ様の前で優雅に踊る。その姿を見てスティーナ様は少し表情を緩めた。
「今年からマンドラゴラの栄養剤の材料の薬草を育てる土地を確保して、寮も作ります。長期計画にはなりますが、ヘルレヴィ領でマンドラゴラの栽培を確立させたいと思っております。マウリの婚約者のアイラ様がその手助けをしてくださいます。どうか、皆様もご協力をよろしくお願いいたします」
わたくしの名前が出たので視線が一斉にわたくしに向く。照れながら頭を下げると、貴族から拍手が沸き起こった。踊っている大根マンドラゴラは、走り出たマウリ様がしっかりと抱き締める。
「マンドラゴラはあらゆる病に効くのだとか」
「あの可愛さを見てください。飼いたいですね」
「幻のマンドラゴラを育てられるなんて」
周囲の貴族たちの視線が柔らかいものになっている気がする。オスモ殿の圧政に納得できず、ハンネス様を後継者にしようと簒奪を企てたことに関しても、ヘルレヴィ領の貴族たちは冷ややかだったのかもしれない。
スティーナ様の回復を待っていたのならば、スティーナ様の元に心を一つにして領地の復興に当たれるはずだ。
「甘いことばかり言って。女領主はこれだから夢見がちで」
批判の声も聞こえないわけではなかったけれど、それも他の貴族たちの暖かな声にかき消されていた。
新年のパーティーが終わると、わたくしたちは慌ただしく荷造りを始める。ラント領にも部屋はあるがわたくしはラント領を離れてから成長してしまった。残っている服は着られないものがほとんどだろう。
ヘルレヴィ領に来てから仕立ててもらった服や、買ってもらった服を荷物に詰めて、雪用のブーツを履いて出るからラント領で履き替える靴なども準備していると、荷物はかなりの量になった。大きなトランクに詰めると持ち上げるのが大変なくらい重い。
「アイラさま、おにもつ、できた?」
「わたくしはほとんどできましたよ」
「まーのおにもつ、もてないの」
重すぎて荷物が持てないというマウリ様の荷物はわたくしのトランクと同じ大きさのものが用意されていた。中身を確認すると、夜はまだお漏らしをすることがあるのでオムツが入っていたり、服が多めに入っていたりして、ぎっしりと詰まっている。
「ヨハンナ様、マウリ様はクリスティアンの服を着られると思うので、少なめでもいいのではないでしょうか?」
ヨハンナ様に確認すると、「とんでもない」と言われてしまう。
「マウリ様はヘルレヴィ領の領主の後継者なのですから、お譲りの服や借りた服を着ていてはおかしくはありませんか?」
「スティーナ様も気にしないと思いますよ。マウリ様も気にしないでしょう。部屋の中で着るのにそんなに気取ることはないのです」
ラント領で育てられた感覚で言うと、ヨハンナ様に苦笑されてしまった。
「アイラ様は伸び伸びと自由に育てられたのでしょうね」
オスモ殿の妾なのにヘルレヴィ家のお屋敷に連れて来られたヨハンナ様とハンネス様は隙を見せることが許されない環境だったのだろう。使用人の前ですら正式な服を着ていないと侮られるような生活を、わたくしもマウリ様もしたことがない。
スティーナ様に許可を取ってマウリ様の荷物は半分くらいにしたが、今度はマウリ様からお願いされてしまった。
「れっしゃのほんをもっていきたいの」
「マルコ様から借りた本ですか? 手荷物に入れたらどうでしょう?」
「てにもつってなぁに?」
「自分の手で持っておける荷物です。いつでも取り出すことができます」
わたくしの回答に満足してマウリ様は「てにもつにいれる!」と大事に列車の本を抱き締めていた。
「ダイコンさんは?」
問いかけられてわたくしは笑ってしまう。
「大根さんは、お荷物に入るのは嫌だと思いますよ」
「そっか。わたしがだっこしてあげるね」
荷物に詰められそうな気配に逃げ出す準備をしていた大根マンドラゴラは、マウリ様にもさもさの葉っぱを撫でられて、こくこくと頷いて納得していた。
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