9.魔法学の宿題を子ども部屋で
高等学校から帰ると古代語の辞書を引きながら、魔法学の教本を読む。古代語で書かれているのは、それだけ魔法を使えるものが少なく、古い本がずっと使われてきたからだ。古代語は高等学校に入ってから勉強すればいいと、リーッタ先生に習ってこなかったことをわたくしは今更ながらに後悔していた。
幼年学校では古代語は習わない。リーッタ先生からは幼年学校で習う以上の教科を習っていたが、古代語はどの生徒も高等学校からのスタートなので問題ないとリーッタ先生も判断していたのだ。
辞書で単語の意味は分かるのだが、文法がよく分からない。
「エロラ先生、難しいです……」
出された宿題にわたくしが音を上げる頃には、わたくしの部屋のドアの辺りも騒がしくなっていた。
「廊下に座ると体を冷やしてしまいますよ」
「にいさま、わたし、アイラさまをまってるの。ほうっておいて」
「放っておけるはずがないではないですか。ひざ掛けを持ってきました。これを巻いて」
それぞれの部屋にはストーブも炊かれて暖かく保たれていたが、廊下はきんと冷えた空気が漂っている。廊下の床の上に座って、今日もマウリ様はわたくしが出てくるのを待っている。
高等学校の勉強があるというのはマウリ様も理解できている。それが大事なものだというのも理解してくれているのだが、廊下でいい子で座って待っているとなると、わたくしも勉強に集中できない。
「マウリ様、そろそろおやつの時間でしたね。一緒に食べましょうか?」
ドアから顔を出すと廊下にひざ掛けでぐるぐる巻きにされていたマウリ様が、目を輝かせて立ち上がる。その鼻から鼻水がつつーっと垂れるのを、わたくしは素早く拭き取った。
「寒かったのでしょう? おやつの時間には出てきますから、子ども部屋で待っていてください」
「さみしいの。アイラさまといっしょがいいの」
上目遣いでひざ掛けでぐるぐる巻きにされたまま、お尻を振り振り言うマウリ様の可愛さは反則である。こんな風に言われたらこれ以上強くは言えないではないか。
「おやつを食べ終わったら、わたくし、子ども部屋で勉強しましょうか」
子ども部屋のテーブルでも勉強できないわけではない。集中力はある方だし、マウリ様が廊下に座り込んで風邪を引いてしまうよりはよかった。
おやつを食べに行くとスティーナ様もお茶の休憩に入っていた。マウリ様とわたくしとスティーナ様とハンネス様でおやつを食べる。今日はオレンジのムースだった。
果樹栽培が盛んなヘルレヴィ領に来てから、たくさんの果物を食べている気がする。ムースの上に飾られている花形にしたオレンジも甘酸っぱくて美味しい。
「マウリ、アイラ様を困らせているのではないですか?」
「にいさまがいったの? いわないでぇ!」
「ハンネス様はマウリを心配しているのですよ。廊下に長々といると風邪を引きます」
「おかあさま、アイラさまのちかくにいたいの!」
懇願するマウリ様にわたくしが口を挟む。
「わたくしが子ども部屋で勉強すればいいことですから」
「マウリのために、本当に申し訳ないです」
「スティーナ様、わたくしの友人のお話をしたでしょう? 友人のマルコ様にマウリ様の家庭教師として来ていただくのはどうでしょう?」
獣の本性を持たないわたくしは全く習ったことがないのだが、幼年学校で一番に習うのは獣の本性を制御する方法だという。力の強い本性を持つ者ほど制御が難しいと言われているが、ミルヴァ様も制御しようと努力していたし、クリスティアンは早いうちから制御できるようにリーッタ先生に習っていた。マウリ様もドラゴンという力の強い本性を持っているのだから、本性の制御は不可欠な問題だった。
「アイラ様と同じ年の家庭教師ですか。毎日来てもらう必要はありませんし、週末だけでもいいかもしれませんね」
「しゅうまつ? おやすみは、まー、としょかんと、しょくぶつえんと、どうぶつえんと、ラントりょうにいくのよ?」
「高等学校が終わってからお願いしてもいいかもしれませんね。夕食を食べて行ってもらったらどうでしょう?」
お弁当も持って来られないマルコ様は夕食一食浮くとなれば喜ぶだろう。スティーナ様の言葉にわたくしも同意する。
「いいと思います。文字も教えてもらったらいいのではないでしょうか?」
ミルヴァ様は文字の読み書きがかなりできるようになっていると聞いた。マウリ様だけが遅れていてはいけないだろう。提案すると話は決まっていった。
「私もマウリ様に教えます。幼年学校で習ったことを教えるのは、復習にもなると思うのです」
「ハンネス様、心強いです。よろしくお願いします」
発言するハンネス様にスティーナ様が丁寧に頼み込む。頼まれてハンネス様は誇らし気な表情だった。
「まずは、寝ている間に本性に戻らないこと、本性に戻ってベッドの下に隠れないことから学んでほしいものです」
ヨハンナ様の嘆きのような一言は、しっかりとわたくしとスティーナ様に届く。わたくしがいない間、少しは子ども部屋で遊べるようになっていたが、マウリ様はまだベッドの下に隠れてしまうことが多いようだ。それも少しずつ改善して行かなければいけない。
おやつを食べ終わるとわたくしは子ども部屋のテーブルで勉強の続きを始めた。隣りにマウリ様が座って、紙とクレヨンを用意して、ぐりぐりとお絵描きをしている。その隣りにハンネス様が座って、マウリ様に文字の教本を広げて見せている。
「『あり』の『あ』」
「上手に書けていますよ。蟻の絵もお上手です」
「『いす』の『い』」
「ん? これは、アイラ様のお名前ですか?」
「うん。『ラッパ』の『ら』」
相変わらず一生懸命マウリ様が書いているのはわたくしの名前のようだった。
「できた!」
ふんすっと鼻息も荒くマウリ様がクレヨンで書いていた紙を折り畳む。かなりずれているがなんとか折り畳んだ紙を、マウリ様は隣りに座るわたくしに差し出した。
受け取ると、淡いオレンジ色の丸に目と口と髪のようなものが描かれた絵と、その下にぐにゃぐにゃの字で「あいら」と書かれていた。
「わたくしの似顔絵を描いてくださったのですか?」
「はい。アイラさま、かいたよ」
「嬉しいです。次はスティーナ様を描きましょうか? きっと喜びますよ?」
「ううん、アイラさまをかく」
スティーナ様もマウリ様から似顔絵を貰えば喜ぶに違いないのに、マウリ様の決意は固かった。何度もお手紙をもらって、勉強が終わる頃にはわたくしの辞書の下には分厚くお手紙の束ができていた。
「お手紙には、自分の名前を書いて出すのですよ」
「わたしのおなまえ?」
「そうです。『マント』の『ま』」
「ま……」
ハンネス様が上手にマウリ様の興味を自分の名前に持って行って、「マウリ」と書く練習をさせているが、この調子だと全ての文字を覚えるまでにはまだまだ時間がかかりそうだった。
それでもマウリ様はまだ4歳。文字を覚えるのが少しくらいゆっくりでもいいだろう。文字が読めるようになれば自分で絵本を読んだりできるので世界も広がるのだが、興味があまりないのならば仕方がない。
クレヨンでのお絵描きに疲れたマウリ様はわたくしの膝の上に乗って、わたくしの手元をじっと見ていた。教本を写して訳すのに必死なわたくしはマウリ様にあまり構えない。わたくしが一生懸命なのを気付いていて、マウリ様はわたくしの邪魔をせずに大人しく膝の上で待っていてくれた。
夕方になって勉強もひと段落すると、マウリ様はお散歩に行きたがった。
「ダイコンさんがおそとにでたいっていってる」
「お外に出たいのは大根さんだけですか?」
「ほんとうは、まーがでたいの」
子ども部屋で優雅に踊っていた大根マンドラゴラを捕まえて口実にしようとしたマウリ様だが、わたくしに聞き返されると素直に答えてくれる。マフラーを巻いて、手袋を着けて、ルームシューズから靴に履き替えて庭に出た。
日は落ちていて風が冷たく、庭は寒い。マウリ様についていくと薬草畑に連れて行かれた。
「あした、たね、うえられる?」
「明日は無理ですね。もっと暖かくならないと」
「いつ?」
「春になってからでしょうね」
マウリ様にとって未来の出来事は全て「明日」という認識になっている。週単位、月単位、年単位の計画などを理解するのは4歳にはまだ難しいのだ。
「マウリ様が5歳になる頃には、種が植えられますよ」
「アイラさまは?」
「その頃には13歳になっていますね」
マウリ様よりもわたくしの方が誕生日が早いことは理解しているようだ。
今週末にはマルコ様と妹さん、ニーナ様と弟さんが来るのだが、それもマウリ様に説明しても、「明日」の話としてしか理解できないだろう。
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