15.マウリ様とミルヴァ様の手紙
元々文字に関心があったミルヴァ様は文字の習得が早かった。数日でほとんどの文字を読めるようになったが、書く方は手首が安定しないので上手く書くことができない。マウリ様の方は文字を見せてもあまり反応がない。
興味がないのかとリーッタ先生が授業を終わらせると、マウリ様はわたくしの膝の上に座って来た。持っているのはリーッタ先生が用意してくれた幼児のための文字を覚える教本である。
ページを捲って、「あ」のところに書いてある蟻を指さす。
「むち?」
「蟻ですよ。蟻の『あ』……わたくしの名前、アイラの『あ』でもありますね」
「あーたまの『あ』!」
わたくしの名前を出すとマウリ様は目を輝かせる。
「『い』は?」
「これですね。椅子の『い』です」
「あーたまの、『い』!」
この調子でマウリ様は一番初めに蟻の『あ』、椅子の『い』、ラッパの『ら』を覚えてしまった。
「マウリ様の『ま』ですよ。マントの『ま』」
「こえ、ちがう! あーたまの『あ』」
マウリ様のお名前を教えようとしても、マウリ様は『あ』と『い』と『ら』のページしか興味がない。それだけではない、一生懸命にわたくしの名前を言う練習を始めたのだ。
「あ、い、あ……ちがう……あ、い、ら……あ、い、ら、た、ま」
「マウリ様上手ですよ」
「アイラたま! まー、いえた!」
自分のことを「私」と言うのも、自分の名前も興味がないマウリ様は、その日のうちにわたくしの名前を言えるようになってしまった。聞いていたミルヴァ様も対抗して一生懸命練習する。
「あ、い、あ……あーいーあー……あーいーらー……」
「あ、言えましたよ、ミルヴァ様」
「アイラたま! わたくち、いえる!」
二人に名前をきちんと呼んでもらえるようになって、わたくしはますます二人が可愛くなった。こうなると黙っていないのがクリスティアンである。クリスティアンもまだ5歳。対抗したいお年頃なのだ。
「ぼくは、ねえさまのこと、こんどから、あねうえってよびます」
「クリスティアン、大人みたいですね」
「ぼくは、もう5さいですからね!」
クリスティアンとマウリ様とミルヴァ様がそれぞれに成長していて、見守るわたくしは嬉しい限りだった。
マウリ様とミルヴァ様のお誕生日から一週間後、わたくしはスティーナ様にお手紙を書いた。
マウリ様とミルヴァ様は順調に成長していること、先日4歳のお誕生日を迎えられたこと、スティーナ様のお身体がよくなるようにわたくしたちも考えていること、一日も早くお身体が回復されるようにというお見舞い。マウリ様とミルヴァ様がドラゴンだということは書かなかった。この手紙も絶対オスモ殿に検閲されるのだ。大事な情報は隠しておかなければいけない。
その代わりにわたくしはマウリ様とミルヴァ様の書いたミミズののたくったような字とぐるぐるの絵を入れておいた。
ミルヴァ様はなんとなく「ミルヴァ」と読めるような字を書いているが、マウリ様は自分の名前に興味がないのでなぜか「アイラ」とぐにゃぐにゃの字だが書けるようになっていたので、それを入れた。書いてあることはミルヴァ様のお名前と、なぜかわたくしの名前だが、スティーナ様ならば息子と娘の成長の記録と喜んでくれそうな気がしていた。
返事は期待していなかったが、手紙を届けて二日後に密やかにスティーナ様付きのメイドから手紙が届けられた。オスモ殿は返事をするつもりがないようだが、スティーナ様はすぐに返事を書いてくれた。
『アイラ・ラント様
始めにお礼を言わせてください。本当にありがとうございます。マウリとミルヴァの書いてくれた手紙を読んで、わたくしは涙が出ました。産まれたばかりで引き離されたあの子たちがこんなにも成長しているなんて、アイラ様には感謝しかありません。
厨房で作られた食事に微量の毒を入れて不自然でないように夫はわたくしを弱らせて殺す気だったようですが、屋敷内にもわたくしの協力者が現れました。驚かないでくださいませ。夫の妾とその息子です。
妾は無理やりに手籠めにされて息子を産まされて、夫のことを恨んでいるようで、その息子も自分が後継者になるなどとんでもないと思っているようです。わたくしを油断させるためかと最初は警戒しておりましたが、二人のおかげで毒の入れられた料理を知らされて、それを避けるようになってから体調は少しずつ回復しております。
もう少し回復すれば、可愛い息子と娘を引き取れる日が来ると思います。
それまで、愛するマウリとミルヴァのことを、どうかよろしくお願いいたします。
スティーナ・ヘルレヴィ』
以前に貰った手紙よりも文字も確りとしていて、読みやすくなっている。マウリ様を膝の上に乗せて、両隣りにクリスティアンとミルヴァ様に挟まれて、わたくしはその手紙を読み上げた。
「きょうりょくしゃが! それでへんじができたのですね!」
「そのようですね。クリスティアン」
ヘルレヴィ家のお屋敷にはスティーナ様の協力者がいる。それがオスモ殿の妾とその息子だということは驚きだが、毒の入った料理を教えてスティーナ様を助けているのならば、信頼できるのだろう。
後継者になりたくない妾腹の息子と、オスモ殿を嫌っている妾の手助けがあるのならば、スティーナ様の回復も予想より早いかもしれない。原種の薬効の強い種を育てるまでもなく、品種改良された試しに送られた種を育てて実った薬草でスティーナ様は回復できるのではないだろうか。
俄かに期待に胸が膨らむが、それは同時にマウリ様とミルヴァ様との別れも意味していた。スティーナ様が回復されれば、マウリ様とミルヴァ様は呼び戻される。そのときにはわたくしは婚約を破棄されて、マウリ様とお別れしなければいけないだろう。
自分の名前よりもわたくしの名前の単語を覚えてくれたマウリ様。蜂蜜色のふわふわの髪と蜂蜜色の大きなお目目で、わたくしの膝の上に当然のように座っているマウリ様が可愛くないわけがなかった。
「ねえさま……じゃない、あねうえ、ミルヴァさまもヘルレヴィりょうにかえってしまうのですか?」
ミルヴァ様のことを気に入っていて結婚するとまで言っているクリスティアンにとっては、ミルヴァ様がいなくなるかどうかが心配なようだ。
「スティーナ様が回復されたら、そうなるでしょうね」
「ミルヴァさまはぼくのこんやくしゃです。ラントりょうにいられませんか?」
わたくしにクリスティアンがこんなに真剣にお願いすることは珍しい。それだけミルヴァ様のことを本気で考えているのだろう。
「クリスティアン、考えてみてください、ミルヴァ様もマウリ様も、あなたより小さいのです」
「それはわかっています。ぼくはふたりのおにいさんです」
「こんなに小さいのに、愛してくれるお母様と二人は引き離されているのですよ」
これはクリスティアンに言い聞かせているようで、わたくし自身にも言い聞かせている言葉だった。二人には愛してくれるスティーナ様というお母様がいる。スティーナ様の体調が回復すれば、スティーナ様がヘルレヴィ領の領主としてオスモ殿から二人を守って愛して育ててくれるのだから、マウリ様もミルヴァ様もヘルレヴィ領に帰ることが幸せなのだ。
そう自分に言い聞かせるが、胸が痛くて涙が滲んでくる。
獣の本性がないということの意味を知らないからだと分かっているが、マウリ様はわたくしに純粋な愛情を向けてくれた。わたくしはマウリ様に好かれているのだと実感してこの一年以上を過ごすことができた。
マウリ様がいなくなれば、わたくしが今後婚約することもないだろう。あるとしても、身分を目当てにした相手か、金目当ての相手で、愛のない結婚をするのかもしれない。
「ミルヴァ様とマウリ様はドラゴンですから、それを知ればスティーナ様も二人に家を継がせることを躊躇わないでしょう」
オスモ殿に狙われる危険があるので今はまだ真実を告げられていないが、真実を知ればマウリ様は間違いなくヘルレヴィ家の後継者になれるし、ミルヴァ様も引く手あまたとなるだろう。
「ぼくはミルヴァさまがすきです!」
「クリスティアンは公爵家の跡継ぎです。ミルヴァ様がもう少し大きくなって正式に申し込めば叶うと思いますよ」
クリスティアンは狼の本性を持っていて、公爵家の正当な後継者だ。スティーナ様もミルヴァ様を嫁がせる相手として、クリスティアンは一番に考えてくれるだろう。
残されるのはわたくしだけ。
それが分かっていても、わたくしはマウリ様の幸せのためにスティーナ様を救い出すことだけ考えていた。
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