或る詩書きの戯れ言
蝉時雨という硝子を砕くような喧しさも、雲の上が乾涸びてしまうほど地面が水浸しになった今では、あまり聞くことがなくなった。少しの寂しさが膚を覆う。けれどもそれはきっと一時のことで、今少し、葉が長くなる月まで日を暮らせば、その寂しさも大音量で掻き消されるだろう。
俺の遅々慢々とした筆運びは相変わることなく、又、文章には俺の文才の一端も表れることはない。近頃は創作意欲さえ沸かず、本業の仕事も立て込み、短文詩すらも書くことが出来ない。何の変化も訪れない毎日。色恋も刃傷も音沙汰なく、醒めた夢も覚えていない。転生など起こりはしないが、毎日生に躓いている。
汗をかいたアイスコーヒーの上を、氷と埃がかぷかぷ浮いている。酒の精にではなく、珍しくアルカロイドに頼りたかったのだ。どうにもならないこの気持ちを、ブランデーに溶かして忘れたくなかったのだ。俺は虚無は好きだが虚無主義者では決してない。博打は好きだがそれで食っていくつもりがないのと一緒だ。他人はこれを矛盾と言うが、矛も盾も俺には如何せん重過ぎる。それにそんなものを携えていれば警察にしょっ引かれる。持つならペンと金だけで十分だ。
うだうだ言いながら鉛筆を執る。手元には原稿用紙ではなくスケッチブック。目の前には空き缶と火が点きっぱの煙草。
今の俺は詩書きではない。だがしかし、絵描きであるつもりも一切ない。そちらの方面では、俺には一才だってない。これはただの換気だ。気持ちとか、思考とか、肉体とかの換気。実際に窓も開けている。部屋中に渋滞した陰鬱が少しずつ出て行く。埃と吸い殻塗れの部屋に新鮮な空気が入り込む。それと同じで、心の中に溜った膿を爪で丁寧に圧し出すような、そんな感覚。文字を綴るという行為と似ているようで違う活動。自分の感情を載せるように描くが、そこには文字に対するのと同じような情熱はない。描けば思考が纏まるという訳でもない。ただ、右手を慰めるだけの活動である。
まずは手前にある煙草から描いた。銘柄は平和の象徴を象ったもの。口で軽く咥えていただけだから、火を点けた所以外は比較的綺麗なままだ。昔、お上品な吸い方ね、と女に笑われたことを思い出した。煙草を吸う時ぐらいは上品に振る舞っても良いだろうが。
燻る煙を描き切った所で、次はその奥にある空き缶に視線を移す。随分前に飲んだビールらしかった。輪郭を描いて、手を止める。俺の腕では単純なロゴマークすら真面に描けやしない。しかし何も描かないという訳にもいくまい。何かないかとアイスコーヒーと埃を飲み込んで、安楽椅子の上で膝を抱えて、回った。
くるゥり、くるゥり。ぎィこ、ぎィこ。
掛け時計を見つけた。シンプルな作りの。文字盤には傍線がぐるりしているだけだった。時刻は既に天辺を回っていた。秒針はない。引っこ抜いたのだ。
また回った。スケッチブックの中の空き缶に針と傍線を描き込んだ。短針が動かない時計。きっとこの書斎では何分経っても時間は止まっているのだ。
ふと窓の外に何かが張りついているのを見た。小さな蛾が留まっていた。いや、いつの間にか降り出した雨に殺されていた。思わず笑みが浮かぶ。命を尊ぶ少女の気持ちが微かに分かった。命というのは儚い。死というのは甘い。多分気の所為だった。全ては俺の気分の所為だった。或いは魔が差し、間が挿し込まれた。そうでなければ、俺はこんなことはとてもしないだろうさ。
蛾の死体をスケッチブックに貼り付ける。そしてその下にそれを素描する。二匹の蛾がそこにいる。死んだ蛾と不細工な蛾。ぞくりと背筋を背徳の美が這った。
これは虚無的だ。退廃的だ。他の―――そう。俺以外の誰が見てもこれを美しいとは思わないだろう。当然だ。これは俺だけの美しさだ。俺だけの虚無だ。誰にも理解させない。させて堪るか。
俺は蛾を撫でた。
そしてスケッチブックを閉じた。
創作意欲の喚起が終わったのだから、もう今日は大丈夫だろう。
また行き詰まった時、生き詰まった時、俺はまたこれを開く。そしてまた絵を描き、虚無を味わうのだろう。俺にとって虚無は煙草で、ウィスキーで、コーヒーだ。依存するのではなく、嗜好する。虚無に沈むのではなく、思考する。それでいいのさ。俺の虚無は蛾にあった。そしてそれは、俺の奥底にちゃあんと横たわって居る。
俺はスケッチブックを書棚の裏に隠した。
さて、下らない皮肉を晒す時だ。