第8話 近衛の名を呼ぶ襲撃者
「……あなたは、私をぶつんだ……六……」
六が平手で叩いた左頬。そこを押さえながら、継莉が、静かにそう呟く。
……怒っているように、六には見えた。
だって、当然だ。不条理に叩かれて怒らない人間は、きっとそんなにいはしない。
けれど、その声音は先ほどまでの怒りを孕んだ声とは違い、静かな感情に満ちていた。
故に、それが六を混乱させた。
継莉が、今何を思っているのか。……それが、わからない。
自分が、どうすればいいのか——わからない。
人の心を伺って、窺って生きてきたはずの自分には、けれど今、どうしたらいいのか、わからない————。
対峙する二人の間に落ちるのは、初夏も終わるというのに冷たい雨だけだ……。
「へェ……面白そうなことしてんじゃねェかァ……」
けれど、その静寂を破ったのは、二人のどちらでもなかった。
それは、唐突に落ちてきた、一人の男の声だった。
「よゥ……久しぶりだな——」
ヒュッ——!
それは、高架の上から現れた。
そして、それを感じさせぬ、軽やかな着地。
「近衛の嬢ちゃん——っっ!」
現れた声の主は、見るからに悪の雰囲気を纏っていた。……人を見かけで判断するのは良くないと思ったけれど、とにかく第一印象はそれだった。
金髪に、ピアスをいくつもつけ、ヒョロリと長いシルエットは、針金を想起させる。
その見るからにガラの悪そうな雰囲気に、思わず六は気圧される。
……しかし、継莉はそうではなかったようだ。
「——今、なんて……?」
今さっき、おそらく六の方へ向けられようとしていた、殺気。
それが、一気に、背後に降り立った男に向けられていた。
「なんだァ……? 聞きたいなら、もう一回言ってやろうかァ? 『近衛』の娘……ってなァ!」
そして、その言葉に、継莉の殺気が、爆発した。
「私を————その名前で呼ぶなっ!」
ゴウッ!
火柱となって、燃え上がる、鮮血。
……それは、明確な、敵意だった。
これまで、見てきた中でも、もっとも強い感情。
それが、私の視線の先——継莉の背後にいる男に、向けられていた。
その温度に、ジュッと雨が焼ける。
……なにか、あるのだろうか。彼女の名字である、「近衛」の名に。
しかし、それを知る余裕などないまま、六を置き去りにして事態は進む。
「いいねェ! それだよ! 俺はずっと本気の貴様とやってみたかった!」
まるで、継莉が怒ったこと、それ自体が嬉しいとでも言うように。
男は嬌声をあげる。
対する継莉は、未だ感情を抑えきれないようだ。彼女の周りで、火花のように鮮血が弾け、夜に舞う。
「殺す気でいくぜ……まぁ、もっとも——」
男が、腰を落とし、臨戦態勢をとった。
「手前ェは、すでに死んでいるんだったっけなァ!」
(——えっ?)
その言葉へ六が驚くよりも、さらに早く。
二人の血法師が動いた。
「久遠血法——」
「……莉流血法——」
同時に見えた。……けれど、実際は、一瞬、継莉が出遅れていた。
「四十の緑閃・燭する電!」
「——題なる炎花」
そして、それは、致命的な間だった。
ジッッ! と耳障りな音を立てて、男の放った血法が、中空を駆ける。
それは、夜の闇を切り裂いて、目映く光り、六の目を焼いた。
そして、それを迎撃するような形で、継莉の放った血法が爆ぜる。
ドンッ! と空気が震え、落ちる雨すら弾け飛んだ。
その衝撃に、思わず六は両腕で顔面を覆う。
一方で、六よりもさらに至近でその衝撃を受けた継莉は、高架の柱まで飛ばされていた。
「ク……ッ——」
「どうしたァ!?」
気づけば、男は飛ばされた継莉の近くまで間合いを詰めていた。
もちろん、継莉はまだ柱に打ち付けられたまま座り込んでいる。
……明らかに、戦い慣れている。
——ここは、一体どこなのだろう。……本当に、自分の知っている京都という街なのだろうか。
今日一日の、あまりもの非現実感。……六は、頭がクラクラしてたまらなかった。
「手応えねェぞォ!」
「——三の赤滴」
継莉に詰め寄る男。
しかし、彼女もまた、無抵抗にやられている訳ではなかった。
高架下の暗い地面に膝をつき、下を向いていた継莉の口が動くのを、確かに六は見た。
「紅霞」
継莉の血法が、辺りを包む。
それは、眩暈にも似た薄霞。
……六も知る血法。
「……行くぜ。四十二緑閃・糾すの雷球」
対する男はそれを気にしようとすらせずに、血法を放つ。
雷撃が渦を巻き球となり、一直線に継莉へと迫る。
そして、それを追うように男はさらに距離を詰める。
「…………わよ」
「あァン?」
「——舐めんじゃないわよ!」
キッと顔を上げた継莉の瞳は、いつしか、怒りだけに駆られているようには見えないものになっていた。
——継莉の右手が、前へ、前へと伸ばされて。
「——爆ぜて」
「ァ?」
ッボァッ!
男と、それが放った雷球が継莉に到達する、それよりも前。
二人の間で、継莉の血が、爆ぜた。
離れた六ですら、思わず手で顔を覆うほどの爆炎。
それは、継莉が溜めた怒りが発露したような、大きな爆発。
……ひとたまりもない。
六は、直感で、そう感じた。
——しかし。
「効かねェなぁ!」
声とともに、バッと男が炎の中から姿を現した。
……けれども継莉の方も、それに驚くことはなかった。
「——いいえ、もう終わりよ」
「……何?」
その声と、同時。
前傾姿勢の男の体が、ガクリと、揺れ落ちる。
「ァ……?」
そして、そのまま地面へと、倒れ伏した。
「……手前ェ」
そして、それを確認した継莉が、ゆっくりと、立ち上がる。
突如始まった戦いに、終止符を打つために。
——もちろん、容赦など、しないのだろう。
「……さようなら」
男に向かって、彼女の手が、伸ばされる。
しかし。
結論から言うと、その手が伸ばされきることはなかった。
なぜなら。
——その、一瞬手前。
「……だがまだ足りねェ!」
きっともう手足など動かせないであろう男の、声とともに。
「何を……——ウッッ!」
疑問で返そうとした継莉の言葉を、遮るように。
それは、彼女の背後からやってきた。
「……糾すの雷球。正面は、囮だ」
不意打ちに、継莉の体がむち打ち、膝をつく。
……そして、それと連動して、男が解放され、ゆっくりと立ち上がる。
「惜しかったが、これで終わりみたいだ。じゃァな、近衛の嬢ちゃん」
男が、ゆっくりと、ゆっくりと、倒れる継莉の元へと近づく。
世界が、スローモーションになる。
——ズキッ……。
……その時、六は感じた。
胸が、一瞬疼くのを。
——どうしてだろう。
私は、今思ったのだ。
————この人を、止めなくてはならないと。
————だから。
だから……。
高原六は、声を上げた。