第二章 舞踏会は命がけ(ニ)
軽く編み込みゆるやかに纏められた銀の髪、薄く化粧の施された頬は薄っすら紅い。
鏡台に着いた手は繊細なレース編みの長手袋に肘まで覆われ、リューイから預かった指輪がレースの間から控えめに覗いている。
銅製の細密な花々に飾られた見事な意匠の鏡にうつる姿は、青い絹のローブに彩られ、神秘的な雰囲気すら漂わせていた。
映し出されたそれは完璧な淑女として仕上がっている。ただし内面を除けば、という注釈がつくが。
「……問題ない、大丈夫。わたしは伯爵令嬢、淑女、淑女、淑女、伯爵令嬢……」
無表情でひたすらぶつぶつと繰り返すカレンの様子はどうみても常軌を逸していた。
「カレン様、おやめください、怖いです」
支度を手伝っていたリリーが真顔で進言する。呪詛にも似た呟きがぴたりと止まり、軽いため息が衣擦れの音にまぎれこんだ。
「――ええ、わたしもそう思う」
ようやく鏡台から離れたカレンは苦笑し、長椅子に腰掛けた。リリーが用意してくれた紅茶に口をつけ、ふくよかな香りにほっと息をもらす。
タウンハウスからリリーが持ってきてくれた茶葉は柑橘系のさわやかな香り付けがされており、発祥の地であるシーバルグ伯領ポートタールにちなんで、ポートティーと呼ばれていた。
「お傍についていることができず申し訳ありません」
落ち着きを取り戻したカレンの傍で、リリーがやや肩を落とす。彼女にしては珍しく落ち込んでいるらしい。
もともとシーズンの始まりに備え、リリーはタウンハウスの準備を取り仕切ることになっていた。
カレンもそのつもりで当然エディンバ家のタウンハウスに落ち着くつもりだったのだが、リューイの一声により王宮内に部屋を賜ることになってしまい、結果、リリーは王宮とタウンハウスを何度も往復する羽目になっていた。
「こちらは大丈夫。タウンハウスの準備は問題ない?」
「はい、恙無く」
若いがリリーの手腕は確かだ。彼女に任せておけば問題はないだろう。それよりもカレンは寧ろ自分の心配をすべきだった。
狐狸の跋扈する中、うまく立ち回らなければならない。残念ながら、味方は少ないのだ。
そもそもリューイからして味方なのかそうでないのか。だが、これからはじまる夜会においては、数少ない共犯者である。
ノックの音がした。リリーが扉に向かい、静かに開けると廊下にはカレン付きとなっている王宮侍女の姿がみえた。
小さな声でリリーと幾つか言葉を交わす。
「キュリアス侯爵夫人がお着きになられました」
戻ってきたリリーから告げられ、カレンはひとつ頷くと、すっと背筋を伸ばし立ち上がった。
――さあ、勝負の時だ。
これから先、失敗は許されない。
今宵、カレンが向き合うことになる難題は、取り繕った外見を武器に、まずは伯爵令嬢として社交デビューを果たすことだった。
案内された王宮の客間には、腰まで届く金の髪と紺色の瞳を持つ絶世の美女が鎮座していた。
三十の年をいくつか越えているはずだが、ジュリエッタ=キュリアスは見事な美しさを保っていた。
深紅の絹地がたっぷり使われたドレスは胸元が大きく開き、胴回りは驚くほど細い。なによりも気品と自信にあふれた姿に圧倒される。
開かれた扇を動かすしぐさすら優雅だ。
――さすが社交界の華。
会うのは二度目になるが、付け焼刃の自分とは格が違う、とやはり驚嘆の眼差しを向けてしまう。同性とはいえ、ここまで差を見せられてしまえば嫉妬心すら湧かなかった。
「ご機嫌いかがかしら、カレン?」
「はい、恙無く。ジュリエッタ様、本日はお世話をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします」
たおやかに微笑むジュリエッタに、カレンは頭をたれ腰を落とす。頭の上からつま先まで、ジュリエッタの視線が流れていくのを感じる。
最初にリューイから紹介された時、彼女はデビュタントとなるカレンの介添え人の役を快く請け負ってくれた。
つまり本来であれば衣装の選定から心得の伝授まで、介添え人であるジュリエッタが取り仕切るべきところだった。が、リューイはそれをやんわりと断ってしまった。
おそらく伯爵令嬢として綻びがあってはまずいことになるという配慮からだったのだろうが、リューイと過ごす時間を少しでも削るため、ぜひともジュリエッタにお願いしたかったカレンの落胆は大きかった。
ぱちりと扇を閉じる音がし、それを合図に姿勢を正すと、ジュリエッタはどこか呆れたようにカレンの夜会服を見つめていた。
「それは殿下が?」
それ、はどうやら絹のローブをさしているらしい。どこかまずかったのだろうか、と冷や汗が出そうになった。
カレンの身に着けているものはすべてリューイが選んだものばかりだ。まさか王太子の選択に間違いがあるとは思っておらず、いまからではどうすることも出来ない。
「はい。なにか礼儀に触れているのでしょうか?」
「あ、ごめんなさいね。そうじゃないの、とっても似合っているわ、その青。あなたの銀の髪によく合っているもの」
ほっとした。ここまできたのだから、完璧に令嬢を演じきりたかった。いや、正真正銘令嬢ではあるのだからやや語弊があるが、カレンとしてはまだどこか令嬢を演じている、という気持ちが抜けていない。
「その指輪も当然殿下から、よね?」
――もう気づかれたのか。
あまり誇張しすぎても白々しいだろうと、できるだけ目立たないようにしていたつもりだが、ジュリエッタの目にはしっかり留まっていたらしい。華やかなだけではない。やはり、十年以上も社交界を渡り歩いてきた女性なのだと気を引き締める。
カレンがリューイの婚約者となることだけは彼女に伝わっているが、遺言状の件について知っているのは、王と王妃、それに王太子であるリューイだけなのだと聞いている。うかつな態度をとることはできない。
「はい、殿下から……」
お預かりしました、というわけにもいかず、かといって、いただきました、と言い切ってしまうことも躊躇われ、言葉を濁した。
しかしジュリエッタは、カレンの様子を恥じらいと受け取ってくれたようだ。
「ふふ、初々しいわねえ。なんだか私も夫との馴れ初めを思い出してしまうわ」
ほほえましいものをみるようにうなずかれ、思わず俯いてしまう。仕方がないこととはいえ、実際はすべて仮初であるだけに、多少なりとも良心が咎めた。
「それにしても主張の激しい、まったくあの子は昔から変わらないわね」
呆れを含んだジュリエッタの小さな呟きに、あの子? とカレンは内心首を傾げた。
が、猫のように目を細めたジュリエッタがさっと立ち上がり、たずねる機会を逃してしまった。
「さあ、ではいきましょうか」
艶やかな紅に彩られたやや厚みのある唇が妖艶な笑みを刻んだ。
ふわりと裾を翻す優美な後姿に従い歩き出す。大広間に近づくにるれ、さざめきのような人の気配が徐々に増してくる。
ジュリエッタの傍にいれば、否が応でも人の興味を引いてしまうだろうとわかってはいたが、ひそひそと交わされる声は想像以上に多かった。
できることならくるりと後ろを向いて帰ってしまいたい。が、そんな真似をしようものなら後の始末は恐ろしく面倒なことになるだろう。
リューイの逆鱗に触れることは火を見るよりも明らかだ。
慎ましやかな笑みを浮かべつつひたすら前に進むしかない。ふと気が付けば、大広間の入り口はもう目前に迫っていた。