第一章 秘密は甘い(四)
「なにをおっしゃっているのか……兄はここにおりませんのに、伝えられるわけがありません」
さも不思議だという様子で小首をかしげてみせる。とんだ茶番だが、これで引いてくれるようであれば、さほど深い確証は得ていないに違いない。
「強情だなあ。カインなら僕の目の前にいるじゃないか。ねえ?」
カレンを抱きこんだまま、リューイがくすり、と笑い声を立てた。
――疑ってるんじゃない、わたしがカインだと確信している。
目の前が暗くなった。だが、ここで崩れるわけにはいかない。いまやカレンの言動ひとつに、一族の進退がかかっていた。
「兄がどこにいるというのです。兄は領地の別宅で療養していると殿下もご存知のはずでしょう」
「なら教えてくれるかな。古くからエディンバ家と懇意にしている医師がひとり定期的に通っているけれど薬の処方はしていないよね、どうしてだろう」
「なぜ処方していないとわかるのです」
「さあ何故かな」
楽しげに告げるリューイは、狩りを楽しんでいる猛獣だ。秘密を共有する一人、カレンを取り上げたゴンディアン老医師の元に誰かもぐりこませたに違いない。そうでなければ薬品の減り具合など把握できるはずがなかった。
「あの館に買い入れられる品々にしても、病を患う者がいる様子はない。――病人などいない、そうだよね?」
逃げ道をふさぐように追い討ちをかけてくる。入念に調べられた情報は、まだまだあるのだろう。
「ふふ」
俯いたままカレンは小さく笑った。
「なにかおかしい?」
「申し訳ありません、あまりにも荒唐無稽で……貴族の嫡男が実は女性でした、なんて、まるで物語のようですね」
冷静になれ、動揺するな。父であるシーバルグ伯からカレンが繰り返し聞かされた言葉だ。
完全に感情を押し込めたカレンは、リューイをじっと見上げた。
――殿下にとって、いまのわたしは間違いなく獲物だろう。だが、彼は野生の獣と同じに必要な狩りしかしない。なら、その理由はなんだ。わたしの……エディンバ家の秘密を暴き、なにを望む?
「さすがにこの程度じゃ落ちてくれないか」
笑みを崩さないまま、独り言のようにリューイが呟いた。不穏な気配に、嫌な予感。咄嗟に身を引こうとしたが遅かった。
腰に回された手がカレンを持ち上げる。足が床を離れ、長椅子に置かれたクッションの上に背中から沈み込んだ。
「……どいてください」
長椅子の背に片手をついて圧し掛かってくるリューイを、きつく睨みすえる。
「それは無理かな、ごめんね」
あなた、ひとつも悪いなんて思っていないでしょう、と、でかかった罵倒の言葉を間際でこらえた。
いっそのこと悲鳴のひとつやふたつあげて、身を汚されたと結婚を迫ってやろうか、という乱暴な考えがちらりと浮かんだのだが、辺境伯として地盤を固めているエディンバ家からの要請であれば、王家といえどたやすく退けることはできない。万が一、受け入れられるようなことがあれば、事態はさらに複雑化する。
いまはリューイの出方を待つしかない、と腹をくくったのだが、早くもその決意は崩れた。やわらかなモスリンの裾から入り込んだリューイの手が、右のふくらはぎに触れたのだ。そのまま膝裏を抱えられ、持ち上げられる。女性としての羞恥心に欠けると礼儀作法の教師を散々に嘆かせたカレンだったが、さすがに頬が朱に染まった。怒りに任せ拳を振り上げる。が、リューイのみぞおちにめり込む寸前、長椅子の背に乗っていたはずの手で易々と受け止められてしまった。
「あなたはなにがしたいんですか……っ」
「君の名誉を傷つけていることはわかってる。でも確かめたかったんだ」
「なに……」
あ、と気づいたときには、右のうち腿に触れられていた。見た目よりも皮膚の固いリューイの指先が、古傷の上を辿っている。
「僕を守ろうとしてできた傷だ」
「……っ」
「やっぱり君だね、カイン」
カレンは己の失態に唇を噛み締めた。リューイがこの傷を覚えているのは当然だ。だが、場所が場所だけにまさか暴かれるとは思っていなかった。
カレンは未婚の女性、しかも辺境伯の娘としてここにきている。相当の確信がなければとることの出来ない手段だ。このまましらを切り通しても、更に追い込むだけの証拠をリューイはつかんでいるのだろう。
つまり、呼び出された時点ですでにカレンに逃げ場を失っていたということになる。かたくなに否定することもできるが、それでは堂々巡りだ。迷いを吹っ切り、最良と思われる道を進むしかない。
秘密の露見は確実、そうであるなら、エディンバ家の不利にならないよう事を進める方法を考えるべきだ。
「離していただけませんか……降参しますから」
「もう少し粘ってくれても大丈夫だよ?」
大丈夫なわけがあるか。再び罵倒を飲み込み、無言で見上げる。苦笑した後、リューイは両手をあげた。
「ごめん、女性に対する態度としては最低だっていう自覚はある。君が頑なで実はちょっと腹が立った」
「そうですか。では一発殴られてくれませんか殿下? 顔では少々困ったことになるでしょうから腹でかまいません」
いい終わるよりも早く繰り出した拳は、再び防がれてしまった。ちっと舌打ちしたカレンは、いまや完全に淑女の仮面を脱ぎ捨てている。
ばれている相手に対して取り繕ってみたところで、無駄な努力というものだ。
「君の一撃はちょっとこたえそうだ。遠慮しておくよ」
「わたしごときの一撃が? 殿下ともあろうお方がなんの冗談です」
リューイの体を両手で押しのけ起き上がる。乱れた裾を直し、顔にかかった髪を払い平静を装うが、実のところ漸く遠のいた重みと体温にほっとしていた。長椅子から立ち上がり、今度は引き止められることなく向かい側の椅子に移ることが出来た。
「……君だからだよ」
椅子に座る直前、リューイの呟く声に顔をあげたカレンは、先ほどまでの獰猛な気配はすっかり消え失せ、完璧な紳士として座す青年を見た。
――わたしだから? 隠語? それとも謎掛けだろうか?
さっぱり意味がわからず首をかしげると、なぜかリューイが諦めたようなため息をつく。
ため息をつきたいのは自分の方だと、カレンは眉間に皺を寄せた。
「そろそろ本題に入ろうか」
「……ええ」
リューイの真意を探れないまま交渉を進めるしか、いまのカレンに選択肢はない。
ひとりで手に負える事態に留めたいが、それもリューイ次第だ。
飲み込みすぎた罵倒のおかげで痛む胃を手で軽く抑え、遠のく隠居生活を感じながらカレンは居住まいを正した。