第一章 秘密は甘い(一)
事態が動いたのはリューイの訪問から月の満ち欠けを三度繰り返した頃、命芽吹く春を迎えた、うららかな日差しが降り注ぐ穏やかな日だった。
「やあカレン、久しぶりだね私のかわいい娘よ」
エントランスホールで大仰に両手を広げた偉丈夫に、カレンはローブの裾を軽く持ち上げ軽やかに駆け寄った。
「父上」
「堅苦しいな、お父様と呼んでくれてかまわ」
「父上。お久しゅう御座います」
表面上は見事な笑みを浮かべたカレンが、ばっさり言葉を遮る。いつもは引き締まっている男の眦がやや下がった。
年を重ねた分だけ深みを増した秀麗な面立ちに、襟足よりやや短い銀糸の髪。灰褐色の双眸はとても穏やかそうに見えるが、時に凍えるような冷酷さが浮かぶことをカレンは知っていた。
この半ば秘された屋敷に、無条件で迎え入れられる人物、それが彼、カレンの父であり、現シーバルグ伯でもあるジョン=エディンバだった。
「ご用件はなんでしょう」
「……娘がつめたい」
「もう一度うかがいます。ご用件は?」
凍り付くようなカレンの声音に、こほんと咳払いをしたジョンが、上着の内側から真っ白な封書を差し出した。
「君の予感があたったようだ。殿下からの招待状だよ」
「……招待状」
父親からもたらされたものを受け取り、すでに開封された封筒を見つめる。
「――わたしのところにも、先ほど封書が届きました」
「殿下かね」
うなずき、ローブの内側から取り出した浅黄色の封書をジョンに手渡す。
封筒から同じく浅黄色のカードを引き出したジョンが、ふっと口元を歪めた。
「なるほど、殿下もずいぶん悪趣味なことをなさる」
「どちらの意味と受けとるべきでしょうね、これは」
「はは、深窓の令嬢としては、二つの意味がわかっちゃまずいだろう、カレン」
ジョンが指先につまんでくるりとカレンに向けた浅黄色の紙には、流麗な文字で短い文が書かれていた。
『秘された蜜は甘く芳しい。僕の元においで、カレン』
ふたつの意味とはつまり、夜の誘いをかけているのか、こちらの秘密を揶揄しているのか、ということだ。どちらであっても頭の痛いことに変わりはないが、前者の方がエディンバ家にとっては幾分ましといえる。
だが、幾らわけありとはいえ仮にも伯爵令嬢、それも辺境伯の娘に、こうも堂々と戯れの誘いをかけてくるとは思えない。
リューイがなんらかの手札を隠し持っていうのだろうことは予想できるが、なんにせよ、誘いに乗らないわけにはいかないだろう。
「さて、では作戦を練る必要があるな」
「いえ、父上。残念ながらその時間はありません」
「……屋敷の前に見慣れない馬車が留まっていたが」
「ええ、殿下からの封書を持ってこられた使者の方です。まだ客間におられます」
「まさか」
「そのまさかです。明朝、使者の方と共にここを発たねばなりません。事態は少々切迫しております」
「馬鹿な、君ひとりで行かせられるわけがない」
「父上はまだここを離れるわけにはいきませんでしょう?」
隣国からの使者が、近々王都を訪問することになっていた。辺境伯であるエディンバ家当主が王都までの護衛を務める手はずになっている。
社交シーズンが始まるとはいえ、ジョンはまだこの地を離れることは出来ない。必然的に、カレンはひとりで王都に向かうしかない。
「ユリアがいてくれればな」
ジョンが苦しげに呟いた。ユリア=エディンバ――カレンの母だ。フィーの一歳の誕生日を待たず、はやり病で儚くなってしまった。
カレンの記憶にある母は、気丈で豪胆。いまの複雑な事態を生み出した張本人といえるが、カレンに母を恨む気持ちはなかった。
おそらく自分が母の立場であっても同じことをしただろうとすら思っている。
――その母がこの場にいたのなら、敵の懐に入り込め、と言うだろうな。
「父上」
ユリアから譲り受けたエバーグリーンの瞳で、カレンは父親を見上げた。背中の中ほどまである銀糸の髪がさらりと流れる。
幾分考え込んだ後、仕方がない、とつぶやいたジョンは、ぱちりと指を鳴らした。
「リリー、ここへ」
「はい、だんな様」
アーチ形にくりぬかれたエントランスの入り口から、年若いメイドが静かに進み出る。ジョンの半歩後ろで立ち止まると、綺麗な一礼を見せた。
一筋の乱れもなくまとめられた黒髪、切れ長の瞳は黒く、すらりとした姿は隙がない。
カレンよりひとつ年上の彼女は、長らくエディンバ家に仕えてくれている料理人とメイド頭の娘であり、いまは本家の優秀なメイドのひとりだ。
「お久しぶりです、お嬢様」
「リリー、元気そうでなによりだ……わ」
懐かしい姿に嬉しくなり、つい気が緩んでしまった。まさに取ってつけたようなカレンの語尾を聞き、リリーがふっと笑んだ。
「お嬢様、別宅に移られたからといって、まさか気を抜かれてはおられませんよね?」
「……リリー」
先ほどやり込めたジョンと同じように、今度はカレンが情けなく眦を下げる。
令息から令嬢へ転身を図るため、礼儀作法の教師からみっちり仕込まれなおされている間、リリーはカレンのお目付け役として常に傍に控えていた。
優秀な彼女のこと、いまやカレンよりも立派に伯爵令嬢を演じられるに違いなかった。
「カレン、彼女を連れて行きなさい。きっと君の助けになる」
「いえ、父上、それは……」
カレンが王都から遠ざかって既に数年経つ。ジョンの共としてシーバルグ伯のタウンハウスへ毎シーズン赴いているリリーがきてくれれば、確かに助かるだろう。
だが、リューイの意図がつかめていない状況ではなにがあるかわからない。リリーを信用していないわけではない、寧ろ、カレンを守る為にその身を盾にしかねないからこそ心配なのだ。
「お嬢様、ぜひお供させていただきたく存じます」
安全を保障できないことはリリーも承知しているはずだろうに、きっぱりと告げられカレンはため息をついた。
「……わかった。父上、グリンとナンシーに伝えてください、必ず無事に帰す、と」
本家にいる料理長とメイド頭への伝言を託す。
幼少時、女性は守られるべきだと散々叩き込まれてきた。おかげで淑女教育中、カレンは何度か教師を嘆かせることになったのだが、こればかりはなかなか直すことができなかった。最後には教師が根負けして、そこはもうそのままで行きましょう、と半ばやけくそ気味に拳を握っていた姿が思い出される。
「確かに伝えよう。さて、ではわたしから殿下に一言。我が家の花を手折るつもりなら、それなりの御覚悟を、と」
「……手折られるつもりは微塵もございませんから」
「フフ、楽しくなってきたなぁ。やはり人生に波風は必要だと思わないかね?」
どうやら楽隠居願望を気づかれているらしい。思いません、という言葉をカレンはぐっと飲み込む。
いつものことだが、ことの重大性に較べて態度が軽すぎる父には、もうなにを言っても無駄だと悟っていた。
これが隣国との十二の年に渡る戦争を潜り抜けてきた英傑のひとりとは、己の身に降りかかった火の粉がなければ到底信じられなかっただろう。
「では波風にもまれた挙句、父上のように生死の境をさまよわないよう精々気を配りますわ」
最上級の笑みを浮かべたカレンに、ジョンは気まずそうに目を泳がせた。わざとらしく懐中時計を取り出し、おお、もうこんな時間か、と呟く。
「ではこれで一度引き上げるとしよう。今後の対策についてはまた知らせる」
「わかりました。お茶もお出しできませんで申し訳ありません。それではごきげんよう、父上」
死ぬほど叩き込まれた令嬢としての優雅な一礼をしてみせると、ジョンは満足そうに頷き去っていった。その背中は、どことなく哀愁が漂っていた。
「ちょっといじめすぎたかしら」
遠ざかる馬車の音に苦笑する。たまにはよい薬です、とリリーがそっけなく答えた。
英傑と呼ばれるシーバルグ伯が生死の境をさまよったのはこれまでの生涯でただ一度きり。だが、それはカレンにとって最悪のタイミングで起こった。
いや、カレンだけでなく、エディンバ家にとっても、更にはカールスト王国にとっても、最悪だったろう。
国境近くで一個師団を率いていたシーバルグ伯が重症を負ったとの報が届けられたのは、カレンが生れ落ちた丁度そのときだった。
明確な後継者がないまま伯が没するようなことがあれば、伯爵位をめぐり相続争いがおきかねない。だがそれ以上に、世継ぎのいない状況は、戦場にいる部隊の士気に関わる。カレンの母であるユリアが決断するのに、そう時間はかからなかったと聞く。
こうしてカレンは生れ落ちたその瞬間、否応なく偽りの人生を負うこととなった。伯爵家長子、爵位継承者としての道を敷かれたのだ。