序 最悪な再会(二)
挨拶を済ませた後、リューイは驚くほどあっさりと去っていった。
カレンは二階の窓から、森の中に消えていく黒馬の足跡を追った。木々にまぎれて見えなくなってしまった後ろ姿に、胸がうずく。
――最後に会った時より背が高くなっておられた。それに少し雰囲気が変わられた気がする。なんというか……色々増したというか、見えなくなったというか。
控えめに扉が叩かれる音に、カレンは感傷を振り払い、ようやく窓から離れた。
「はいれ」
一声かけると、磨き抜かれた扉が音をたてることなく開かれた。隙のない姿で家令のジョアンが滑るように近づいてくる。
そろそろ五十の年に近いが、いまだその姿勢が崩れたところをカレンはみたことがない。ジョアンはもともとは本家に仕えていたが、その跡目を息子に譲ったいまはカレンを主とし、この別宅の家令として経理から雑事まで、少ない人数でやりくりするという面倒な役目を負ってくれていた。カレンにとっては実にありがたく、得がたい人物だ。
「カインさま」
久々に聞く呼びかけにカレンが目を瞠ると、ジョアンがはっと身を固くした。
「ジョアン……珍しいね、お前が間違えるのは」
「……失礼致しました、カレンさま」
常日頃、冷静さを崩すことのない家令がみせた珍しい失態にカレンは苦く笑った。
王位継承権第一位の王子がふらふらと辺境の地に一人現れるなど、あってはならないことだ。それだけの異常事態であれば、皆が浮き足立っても仕方がない。
ふかぶかと頭を下げるジョアンの肩を、カレンはぽんと軽くたたいた。
「気にするな。それよりも殿下だ。簡単に引き下がりすぎだと思わないか? あれは間違いなくまたなにか仕掛けてくる」
「疑われてしまいましたか……厄介なことになりましたな」
「ああ、でもどうにか乗り切るしかない。これはエディンバ家の罪であり、わたしの罪だ」
「お嬢様に罪など」
「――罪だよ、わたしも含め、エディンバのね」
家名をその名に冠する以上、カレンもまたその責を負わねばならない。
ジョアンの伏せた目に、ちらりと痛ましさが浮かぶ。カレンが生まれた時、ジョアンもその場に居合わせている。彼もまた秘密を知る数少ないひとりだ。
「だんな様には」
「知らせないわけにはいかないだろうな。文を書くから至急届けてくれ」
「畏まりました。お茶をお持ちいたしましょうか?」
「うん、できるだけ濃い目で頼む」
一礼したジョアンが下がると、カレンは執務机でペンをとった。用件だけを簡潔にしるし、折りたたんだ紙の合わせ目に溶けた蝋を数滴垂らす。使い込まれた机の上に置かれている銀の指輪を軽く撫でると、金属の冷たさが指先に染みた。
――まさかまだこれを使うことになるとは、ね。
苦い思いで指輪を取り上げる。封をするため蝋に押し付けた台座の底には、鷲と獅子が向かい合ったエディンバ家の紋章が刻まれていた。本来であれば家長と後継者である長子のみが使用できる印章だ。用意されていた白布で台座をぬぐうと、早々に引き出しの中にしまい込んだ。これも早いうちにフィーに手渡すべきだが、貴族庁からまだ正式に廃嫡を許されてはいない。仕方がないとはいえ、貴族なんぞ不便なだけだな、とカレンは頬杖をつき赤い封蝋を見つめた。
「なぜ来られたのです、殿下。五年も経ったというのに、なぜ」
しんと冷えた執務室の中で、カレンの声だけが空しく響く。リューイの真意を知りたくとも、皆目見当がつかない。
――情だけで動くお方ではない。なにか理由があるはずだ。それもいまこの時でなければならない理由が。
こうなると社交界から完全に遠のいていたことが悔やまれた。
だが、ただひとつ。決して覆ることのない確かなものがあるとすれば、リューイがふたたびカインと会うことは二度とない、ということだ。
シーバルグ伯長子カイン=エディンバはすでにこの世に存在しない。いや、もともとこの世のどこにも存在していなかったのだ。
どれだけ脅されようと存在しない人間に会わせることはできない。
伯爵家最大の醜聞になりうる秘密、カレンが生涯隠し通すと誓ったそれは、現当主の妻が、生れ落ちた第一子の性別を偽ったという本来ならあり得ない事実。
執務用の椅子に深く腰掛け、エバーグリーンの瞳を伏せて憂いを帯びたため息をつくカレンこそが、シーバルグ伯爵家の元跡取りなのだ。ことが露見すればどこまで影響が及ぶことか。考えるだけでぞっとした。
「……早いところ本気の楽隠居をさせてもらいたい……」
まだ二十の年にすら届いていないカレンは、覇気なくぽつりと呟いた。