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第二章 舞踏会は命がけ(四)

 「キュリアス公爵夫人、今夜もご機嫌うるわしいようですね」

 「ええ、殿下におかれましても、とてもご機嫌がよろしいようでなによりですわ」


 柔らかな物腰でリューイがジュリエッタに声をかけ、ジュリエッタもまた礼儀正しく応える。

 和やかに挨拶を交わす二人は、まるで絵物語の一場面をそのまま切り取ったのではないかと思えるほど完璧な組み合わせだった。


 王太子の伴侶となるべく幼少時よりしかるべき教育を受けた高貴なる女性は、この場に幾人もいるはずだ。本来ならあり得ない立場にいるのだとカレンの胸にちくりと針で刺されたような痛みが走る。

 リューイから目をそらし、俯いた先では、レースに覆われた自らの指に青い宝石が煌いていた。

 借り物の指輪に、偽りの婚約者。


 ――まったく馬鹿なことを考えている。もとよりわたしは仮初の存在だろう。


 ふっと息をつき、伏せていた目をあげる。どくっと鼓動がはねた。気付かぬうちに、青い瞳がじっとカレンを見据えていた。

 まるですべて見透かしているとでも言いたげなリューイに、揺れた心を押し隠し微笑む。疾うに封じた想いを蒸し返すつもりはない。


 逃げ出したくなる気持ちをこらえ、カレンはジュリエッタから挨拶を促されるその時をじっと待った。


 「やあカレン」


 取り繕っていた笑みが一瞬、完全に消えうせる程度にはぎょっとした。


 ――いやまて、ジュリエッタ様からわたしの話はまだでていないだろ。


 いきなり声を掛けられ、あまつさえ名前まで呼ばれ、カレンの口元が引きつる。

 しかもリューイは自らの紹介を省いた。知り合いであることが前提として話しかけられたのだ。

 リューイに注目が集まっていたおかげで、幸いカレンの動揺は誰にも気づかれはしなかったが、心臓がみしみし軋んだ。寿命が縮まる思いとはまさにこのことだろう。


 「……殿下におかれましてはご機嫌麗しいご様子、なによりでございます」


 腰を落として軽い会釈を返す。最上位の礼ではなく、やや親しみを込めた挨拶を。

 よほど拒絶する意思がない限り相手にあわせることが礼儀とされている以上、カレンの選択肢はないも同然だった。


 周囲を取り囲む人々が、こちらに聞き耳を立てている。迂闊なことは一言たりとこぼせないというのに、本来味方であるはずのリューイがカレンを翻弄している。

 前には貴公子然とした笑みのリューイ、横には、微笑んではいるものの目がまったく笑っていないジュリエッタ。リューイの行動が豪奢な美女の意に反していることは間違いない。そしておそらく、慣例に即していないのであろうことも。


 「やっぱり青がよく似合うね」


 近づいてきたリューイに右手を取られ、持ち上げられた。そのまま金の髪をやわらかく揺らめかせながら長身をかがめ、なにを思ったのかカレンのレースに覆われた手の甲に口付ける。とりあえず頭の中がまっしろになった。リューイの意図が読めない。


 「私と踊っていただけますね」


 手の甲に息がかかる近さで、王太子があまやかな笑みを浮かべている。

 予想とはだいぶ異なっているが、ダンスの誘いは当初の予定通りだ。いや、誘いというか寧ろ決定していると言わんばかりのいいっぷりではあったが、それでも唯一計画通りの行動といえた。当然カレンも計画通りに答えざるを得ない。が、なんだこれは、と空白の中にじわりと腹立たしさが湧いてくる。


 「はい……光栄です、殿下。よろこんで」


 ダンスに誘われた時には控えめに、かつ品良く、後は少々の恥じらいを見せつつ答えるとよろしいのでは、とリリーから助言を受けたときには、少々ってなんだ塩加減かと脱力しそうになったが、初々しい令嬢としては正しい反応なのだろうことはわかった。わかったのでとりあえずはにかみつつ目を伏せてみたのだが、既に何度も踊った相手であり、ついでに足まで踏んでいる。いまさら恥じらいが湧き出るはずもない。


 「よかった、それじゃあいこうか。キュリアス公爵夫人、彼女をしばらくお借りします」


 言い終えるなり、リューイはカレンの右手をひいて歩き出した。ジュリエッタに声をかける暇もなかった。呆気にとられていたと思しき周囲の面々がはっとしながら道をあける。背後からはジュリエッタの「本当に誰に似たのかしら」という言葉と、呆れたようなため息。ついで、どこのご令嬢だ、まさか殿下の、と交わされる言葉の端々が聞こえ始めた。


 ――やられた。火種どころか火薬も一緒に投げ入れてくれるとは……。


 しとやかな淑女の皮をかぶりつつ、カレンはその下で盛大に舌打ちをした。


 今夜の社交デビューにあわせ、リューイはカレンを己の隣に立つものとしてさっそく祭り上げるつもりらしい。そのための特別扱い、というわけだ。

 なんの打ち合わせもなかったとはいえ、ただのデビュタントでいさせてもらえると思ったのんきな自分の迂闊さが恨めしい。


 手をとられ進む先には床から数段高い壇上にすえられた玉座。人々のざわめきが二人のあゆみに合わせて広がっていく中、先ほどまで控えめだった好奇の視線がここにきてかなりあからさまになっていた。彼らの頭の中では、カレンの立ち位置がめまぐるしく議論されているに違いない。


 さらさらと流れる裾をさばきながら、カレンはそれとなく視線をめぐらせる。


 どれだけこちらに悪意を向けてくる者がいるのか、そしてその悪意を取り繕うだけの度量を持っているものは誰か、あるいは好意的な者、静観しようという者――諸々の感情が渦のように広間を覆っていく。これまで独身を通してきた王太子の動向には当然のことながら誰もが注目している。


 「落ち着いているね」


 低く抑えられているが柔らかな声に、そうでもないですよ、とカレンはささやきで答えた。

 実際、リューイがくるまで落ち着いていた鼓動は、いつもより確実に早くなっている。おまけに生贄の山羊として祭壇に据えられた身で落ち着いていられるわけがなかった。けれど、カレンは誰かの望む自分でいることにすでに慣れきっている。カインとして生きている間は次期伯爵家跡取りとして、カレンになってからはわけありの伯爵家令嬢として過ごしてきた。嫌な慣れだと自分でも思うが、こればかりは仕方がない。


 「それより、遅れた理由をお聞きしても?」

 「うん、なかなか面白い事態になっていてね。そうだな、理由はすぐにわかると思う」


 前を向いているカレンからリューイの表情は窺えなかったが、その楽しそうな声音でだいたいの予想はついた。

 リューイが面白いという事態には、はっきりと嫌な予感しか覚えない。


 ――まだひと波乱ありそうだ。


 ふたりが玉座の近くに来たことが合図だったかのように、高らかに喇叭が吹き鳴らされた。


 「陛下のおみえだ」


 さすがに神妙な面持ちになったリューイを一瞥し、カレンは頭を下げた。広間にいる全員が一様に頭を垂れている。


 カレンが国王夫妻を直に拝顔するのは、ほぼ初めてのことだ。物心つかないほど昔にシーバルグ伯後継者として目通りしていたが、当然記憶には残っていなかった。頭を垂れた姿勢のまま磨きぬかれた床を見つめる。静寂の中、二つの異なる足音が徐々に近づいてくる。

 最初に見えたのは、絹で仕立てられた乳白色の靴先、そして、隣で揺れるたっぷりと襞がとられたタフタの裾。そのまま通り過ぎるのだろうと思っていたそれらが、カレンの前でぴたりと止まった。

 息子である王太子に声でもかけるのだろうと気楽に考えていたカレンは、次の瞬間、ふたたび己の浅はかさを悔やむことになった。


 「カレン=エディンバ、顔をあげなさい」


 穏やかな声には、人を従わせるに充分な威厳が満ちていた。

 聞き間違いではない。確かに呼ばれた自身の名に、見つめていた先にあった床の蔦模様がぐるぐると回り始めた。


 「カレン?」

 「……はい、陛下」


 意を決し顔をあげたカレンの前には、リューイよりは色の薄い金色の髪、空のような澄んだ青い双眸、そろそろ五十に届くはずだが無駄な贅肉のついていない均整の取れた身体に堂々とした貫禄をまとったランドール王その人がいた。

 リューイの先行きをみているのではないかと思ってしまうほど、揺らぐことなく王国に君臨し続ける王とその息子は似通っている。

 王の隣に佇む王妃もまた豊かな金の髪だが、リューイよりもやや濃い色をしてた。やさしげな光を宿したはしばみ色の瞳は、興味深そうにカレンを見つめている。

 実年齢に見合う落ち着きとそれよりも若々しい外見。国王よりもひとつ年上である王妃もまた、地位にふさわしい威光を備えていた。


 「なるほど……ジョンが領地の奥深く守っていた娘か」


 ふっと口元に浮かぶ笑みは、面白がるリューイが見せるものと同じだ。

 つまり国王はカレンにとってかなり厄介な相手になりうる、ということだ。さすがはあの父の主君、と感心するが積極的に関わりたいとは思えない。

 カレンの望みはあくまで平穏無事な波風の立たない隠居生活であり、狐狸の暗躍する王宮の主と縁深くなる人生など論外だ。


 「ジョンはまだ領地にとどまっているのだろう? シーバルグ伯の働きには感謝している。こちらでなにか困ったことがあればリューイに言うといい」


 頼れとおっしゃるそのご子息が最たる頭痛の種なのです、とはさすがに言えなかった。


 「もったいないお言葉、心より感謝いたします」


 深々と頭を下げ、謝辞を述べる。

 国王から直接声がかかるなどデビュタントとしては異例もいいところだろう。だが、国王夫妻はリューイから事の次第を聞いているはずであり、そうであれば、これも火薬のうちのひとつに違いない。

 今更ではあるが、とんでもない姦計に引きずり込まれていると思わずにはいられない。まだ正式に決定すらしていないが、確実に破棄される運命の婚約だ。こうまで大仰にしてしまっていいものか、いや、破棄するとわかっているからこそ疑われないようにという配慮なのか。いまのカレンには判断がつきかねた。

 だが、これでもう後には引けなくなった。もとより引くつもりもなかったが、これより先はカレンもまた当事者のひとりになる。えずきそうな緊張感に知らず指先が震えた。


 ――もうとっくに腹はくくったつもりだったが……しっかりしろ、カレン=エディンバ。


 自らを叱咤するカレンの手を、リューイがごく自然に握りこんだ。

 はっとそちらを向けば、なぜかランドール王とその息子は実にいい笑みで対峙している。


 「陛下、皆待ちかねております。どうぞ開始の合図を」

 「やれやれ、わが息子は銀の乙女を独占したいらしい」


 ――銀の乙女? ……銀の……。


 胸元に垂れた自身の銀髪を見下ろし、もしや自分のことか、と遅ればせながら気が付く。


 「いえ、あの」

 「ええ、その通りです」


 ――ええ? その通り? そうなのか? それでいいのか? そもそもわたしが乙女……? 乙女ってなんだったかな……。


 「さて、では皆のもの、今宵を存分に楽しんでくれ」


 リューイに翻弄されたまま考え込むカレンをよそに、国王は玉座にのぼることなく、朗々と舞踏会のはじまりを告げた。


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