第二章 舞踏会は命がけ(三)
きらびやかな光が幾度も弾ける。細めた目をあければ、それが広間に幾つも掛けられた蜀台のきらめきなのだとわかった。
近年、貴族の館でずいぶん人気があるという、ホーリア地方で作られた硝子が組み込まれているのだろう。
磨きぬかれた面に蝋燭の炎が反射して、ホール全体が昼間のように明るい。
「カレン、こちらへ」
ジュリエッタに導かれるまま、カレンは品のよい老夫婦の前に進み出た。
「ヴィバック公、私が後見している子ですの、ご挨拶をさせてくださいな。さあカレン」
促されるまま腰を落とし頭を下げる。
シルバーグレーの豊かな頭髪、丁寧に整えられた口ひげ。やや細身の体躯に、すらりと伸びた背筋。
王都に向かう馬車の中で詰め込んだ知識を繰り、対峙している相手の情報を引き出す。
彼らはヴィバック公爵家当主ジルバ=ヴィバック、それに妻のエレーナ=ヴィバックに間違いない。
キュリアス公爵家と並ぶ名門貴族であり、親王派として知られている。妻と穏やかに笑む姿は今でこそ好々爺然としているが、若い頃にはなかなかの放蕩者だったらしい、との注釈がリリーにより書き加えられていた。
「はじめまして、私はジル=ヴィバック、彼女は妻のエレーナ」
落ち着いた声音は、ざわめくホールの中でもしっかりカレンの耳に届いた。
「はじめてお目通りさせていただきます、ヴィバック公様。わたしくはカレン=エディンバ、シーバルグ伯領を預かるジョン=エディンバの娘でございます」
公式の場でははじめての挨拶。不思議なほどすんなりと、よどみなく言葉が滑り出た。はじまる前の落ち着きのなさが嘘のようだ。
「シーバルグ伯の? あなたが?」
掛けられた声に頭をあげる。ヴィバック公は、なぜか好奇心に満ちた瞳でカレンを見ていた。
あまり感情を表に出すことを良しとしない貴族社会においては珍しい反応だ。
「ジル、カレンさんが困っているわ」
エレーナにそっと腕をひかれたヴィバック公がはっとしたように表情をあらためる。
「ああ、いや、なるほど、いわれてみれば父君によく似ておられるな。しかし、こんなに美しいご令嬢が彼にいたとは……ああいや、失礼。立ち入ったことだったね」
「いえ……幼い頃は少々身体が弱かったもので、領地から出たことがなかったのです。王都では初めてのことばかりで戸惑っております」
もともと聞かれるだろうと予想していたことだ。目を伏せ、口元には微笑を浮かべつつ、用意していた答えを告げる。
「まあまあ、それは大変だったわね。わたくしにもなにか手助けできることがあるかもしれないわ、次はお茶でも一緒にいかがかしら?」
反応したのは、いままで夫の傍でそっと控えていたエレーナだった。
見た目はどうにかなっているのですからとりあえず儚げにみえるよう微笑んでおけば何とかなります、とリリーから別れ際に言われたときにはそんな馬鹿なとおもったが、どうやらそうでもなかったらしい。
「ありがとうございます、お心遣いに感謝いたします。ぜひご一緒させてください」
「あら、エレーナ様、ずるいわ、わたしくもご一緒させてくださいな」
「ええ、もちろんあなたもいらっしゃって、ジュリエッタ」
会話に加わったジュリエッタに、エレーナが親しげな笑みを向ける。
他愛のない話を幾つかした後、カレンたちは次に挨拶を待っている人々に譲るため、ヴィバック公の傍から離れた。
「ふふん、なかなか好感触だわ。彼女、ああ見えてかなりの実力者なのよ」
控えめに寄り添うたおやかな姿からは想像もつかないが、やんちゃ者の公が更正したきっかけは当時まだ婚約者だった奥方の喝だったのだと話しながら、ジュリエッタは人の波間を実に器用に進んでいく。靴の踵はおそらくカレンのものよりも高いだろうに、どうしてああも優雅に歩めるのかと不思議でならない。
「結婚して数十年、ヴィバック公はそれ以来、エレーナ様に頭があがらないの。さあ、カレン次の方よ、挨拶の準備はよくて?」
「はい、よろしくお願いいたします」
その後――カレンはジュリエッタに促されるまま幾人かに挨拶をしたが、その人選には舌を巻くしかなかった。
王太子妃になることを前提に、的確かつ有益と思われる人物ばかりを紹介している。仮初の婚約者ではあるものの、これから先、カレンがリューイに協力するにあたって人脈は大いに役立つはずだ。
顔と名前、話した内容を頭に叩き込みつつ、新たに得た情報を分類していく。知識だけだったものに実体が加わり、相関がずいぶんとわかりやすくなった。なるほど社交の場とは、まさに社交なのだな、と得心したが、これで慣れないコルセットと踵の高い靴さえなければ、と思う。
ふう、と小さく息を吐くと、カレンの様子に気が付いたらしいジュリエッタが、ドレスの裾をふわりと揺らしながら進む方向を変えた。広間の壁近く、立食用の料理が用意された場所までくると、ジュリエッタは近くにいた給仕を呼び、カレンはジュリエッタにならいグラスを受け取った。
「疲れたでしょ? ごめんなさい、デビュタントのお付き合いは久しぶりでちょっとはしゃいでしまったわ」
ふふっと茶目っ気たっぷりに微笑まれ、カレンの頬も自然に綻ぶ。
「いいえ、感謝しております――ジュリエッタ様、本当にありがとうざいます」
本来なら、無名のカレンがジュリエッタの後見を受けるなど異例のことだ。
通例として、デビュタントに関する噂はデビューよりも前、社交界にある程度流れている。上位貴族の夫人が後見するとなれば、身分はもとより容姿や性格のいずれか、たいていの場合はそのすべてに秀でていることが求められる。リューイから申し入れがあったとはいえ、これまでまったく噂にすらなっていないであろうカレンを後見してくれたジュリエッタには感謝の言葉しかない。
笑んだまま見つめる先で、ジュリエッタの頬がやや赤みを帯びた。
広間の中は空気が循環するように設計されているため、そこまで熱が篭っていなかったが、自分に挨拶をさせるため無理をさせてしまったのではないかとカレンの眉宇がやや曇る。
「ジュリエッタ様、お加減が……?」
「……あ、ああ、いいえ。いいえ、大丈夫、大丈夫よ。それに、お礼はまだ早いと思うわ。夜会も今回のシーズンもまだはじまったばかりですもの」
「はい、ご迷惑にならないよう精進いたします」
こくりとうなずき、口元に寄せたグラスを傾ける。果汁を発砲水で割ったらしき澄んだ赤色の飲み物は、さっぱりとしていてさらりと咽喉を流れていく。
壁の花となった二人に近づいてくるものはいない。下位のものから上位のものに声をかけることは無作法であると暗黙のうちに了解されている。ジュリエッタの身分を考えれば、声をかけられるものは限られていた。
「それにしても遅くていらっしゃるわね」
「殿下ですか?」
「ええ、殿下もだけれど、陛下たちも」
グラスを手の中で揺らしながらジュリエッタが首をかしげた。
王家主催の夜会になど参加したことがなかったカレンはこういうものなのだろうと思っていたが、いつもより国王夫妻の登場が遅れているらしい。
最初に踊る国王夫妻があらわれないため、招かれた者たちは歓談と軽食を取りながら舞踏会の始まりを待ち続けている。
「どうなさったのでしょか?」
「うん、そうねえ……あら」
思わし気に答えたジュリエッタが、不意に人の波を越えた向こう、大広間の入り口に顔を向けた。
「きたわ、あなたの待ち人よ」
楽しげに告げられ、いままですんなり嚥下していた液体が咽喉につまった。ごほっと小さく咳き込んだことには、気づかれずにすんだらしい。
軽く口元をぬぐって、どうにか笑みを取り繕った。
「さあ、いきましょうカレン」
「――はい」
グラスを給仕に返し、広間の中央付近にまで進む。刑場に引き出される罪人の気持ちが少しわかりかけていた。
丁度ジュリエッタが立ち止まった瞬間、大広間のざわめきがカレンの耳にも届いた。
かつりと靴音が響くたびに、年若い女性から妙齢の女性までが、ほうっとため息をこぼす。
――嗚呼、関わりたくない。
普段のカレンであれば、なにをおいてもその一言を実行に移すのだが、今夜ばかりはそうもいかなかった。
このまま素通りしてほしい。が、望みが薄いどころか、それはまずありえない。すでに決めたこととはいえ、この場にいる女性の大半を敵に回すことになるのだ。大変に気が重い。
さわさわと移動してくる話し声と衣擦れの音に、心臓の鼓動が早まってくる。
さっと人の壁が左右に別れ、夜会服に身を包んだ優美な姿があらわれた。
華やかな人々の間にいても、埋もれることのない、濃い金の髪。黒のテールコートにトラウザーズ、白い絹のシャツの首元にはやはり純白のクラバットが結ばれ、コートの下に覗くベストは緑地に精緻な銀の刺繍が施されている。
前裾の短い最先端の型で仕立てられたテールコートは、均整の取れた体躯でなければ着こなせるものではないのだが、リューイには恐ろしく似合っていた。
まわりにいる人々がみな一様に頭を下げる。王太子という身分を差し引いても、カーライル公であるリューイより位の高いものはそう多くない。
その高貴なる人が、まっすぐに進んでくる。この場にいる者は、リューイがジュリエッタの元に向かっていると思っているに違いない。が、カレンとジュリエッタ、それにリューイ本人は、そうではないと知っている。
落ち着いていたはずの鼓動が再び激しく鳴り出し、カレンはコルセットで覆われた胸元で両手をあわせ固く握り締めた。




