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序 最悪な再会(一)

 最悪だと思ったとき、往々にして事態は手遅れになっているものだ。

 伯爵令嬢カレン=エディンバも多聞に漏れず、最悪だと心の内で呟いたときには既にのっぴきならない状況に陥っていた。


 町から馬車で二刻はかかるはずれの森。緑の入り口を抜け、小道をしばらく進んだ先に佇む小さな古館。その中で最も豪華な客室で悠然と長椅子におさまった男は、それなりに格式があるはずの調度よりもはるかに高貴な気配を纏っていた。洗練された猛獣と密やかにささやかれることもあるその姿は、長身で細身だが弱弱しさは欠片もない。


 用意された紅茶をひとくち、優雅な仕草でカップを戻した後、男はにこりと笑んだ。甘い笑みはさぞ王都の貴婦人方を魅了しているのだろうな、とカレンはもれそうになった苦笑を押さえた。


 「貴女はカインの親族だよね?」


 問いの体を取ってはいるものの、そこには明らかな確信が滲んでいた。

 顔を合わせてしまったいま、誤魔化しは無駄だと覚悟を決めてはいる。おきてしまった出来事だ、事後策を講じるほうがはるかに有意義なこともわかている。

 だが、カレンの動揺はまだおさまっていなかった。すべてがあまりに突然すぎたのだ。森の中を散歩中、よりにもよって彼に会ってしまったのは不幸な偶然というほかない。


 ――あげくに声をかけられ、屋敷まで案内する嵌めになるとは……。


 屋敷に案内した後は姿を消すつもりでいたカレンだったが、有無を言わさず客間に連れてこられてしまった。自分の屋敷を訪れた客に、客間に来るよう勧められるとは滑稽すぎる。本来なら、エディンバとはまったくの無関係を装うべきだったのだが、その場合、では森の中で何をしていたという話になるのは目に見えていた。


 ――そもそもなぜ、この方がこんなところに……。


 「カレン?」


 男が首をかしげる。すこし癖のある濃い金色の髪がゆれる。見つめてくる碧い瞳から、カレンはそっと視線を外した。膝の上で両手を組んで、静かに頷く。


 「正式に名乗らず失礼いたしました、カーライル公様。わたしはシーバルグ伯ジョン=エディンバの娘、カレン=エディンバと申します。カインは、兄にございます」


 「ああ、妹君か。女性の君には失礼かもしれないが、ふたりはとてもよく似ているね」


 よく似ている、それは当然だろう。俯いたまま、カレンは自身の姿を皮肉にみつめた。


 細身に仕立てられたコットと足首までを覆うようにたっぷり広がる下衣に、繊細な蔦が銀糸で刺繍されたビロードのローブを羽織っている。地方貴族の娘としてはやや上等すぎる着衣は、父により揃えられたものだ。つい先ごろまで動きやすさ重視で選んだものばかりだったのだが、見分した父により却下されたあげく、父の意向を受けた仕立て屋がやってきた結果、カレンの衣装は見事に刷新された。おもにカレンにとって望まぬ方向に。

 が、その父の蛮行をいまこのときだけは褒め称えるべきだろう。父よありがとう、あなたは偉大だったと、しみじみ感謝する。まるで故人であるかのような扱いは、カレンのささやかな抵抗だ。

 とにかくいまは出自に疑いをもたれないよう、できるだけ貴婦人らしく振る舞うべき時だ。対峙する相手に気づかれぬよう両手に力を込める。


 「はい、父に似たのだと思います。兄と同じように」


 ある程度事実に近く、けれど本質には触れない、ぎりぎりの嘘。真実を告げる気がない以上は仕方がないのだが、この相手に通じるかはもはや賭けだ。

 薄氷を踏む心境で男の反応をうかがう。


 「なるほど、たしかにシーバルグ伯と似ているね。そういえば、カインも父親に似たといっていたな」


 碧眼がやさしげに細められる。なんの疑いも持っていないかのように。

 彼がいま思い出しているのは懐かしき学友、数年を共に寄宿舎で過ごした年少の伯爵家後継者なのだろうと、カレンの胸がちくりと痛む。


 ――だが、それもいまさらだ。


 「伯爵位の継承権を放棄したと聞いたけれど」

 「え」

 「病が重くなったとか」


 カインのことだ。それにしても、とカレンは目を瞠った。

 貴族庁に届け出てからそれほど日が経ってはいない。おそらく正規のルート以外に情報源を持っているのだろうが、耳に入るのが早すぎる。


 「はい、家督は弟が継ぐことに。フィー……、弟のフィルイはもうすぐ十歳になります。正式な発表はそのときになると思いますが」


 カレンの弟であるフィーはまだ九歳だ。カレンとは十歳離れている。せめてあと三年だけでも早く生まれてきてくれていれば、おそらく今の事態は回避できたのだろう。まったく惜しまれる、と嘆息するカレンだったが、傍目からは兄を心配する妹をしっかり装っていた。


 「本当だったんだね……残念だよ。カインのお見舞いをさせてもらいたいんだけど、いいかな」


 ついにきたか、とカレンは視線を逸らせた。いいも何も、どうあってもそれだけは阻止するつもりだ。彼とカインを合わせるつもりは針の先ほどもありはしない。


 「……いえ……それは……」

 「駄目? ひとめだけでもいいんだ」


 懇願されても、無理なものは無理、できないものはできない。カレンは決然と首を振る。


 「カインと僕は学友なんだよ。彼の方が年が下だけれど、カンディアでは親しくしていた」


 カンディアは王立の騎士養成所だ。貴族の子息は七の年に親元を離れ、養成所の寄宿舎にはいる。そして十四の年までをそこで過ごす。望めば更に四つの年を高等技術習得のためにあてることができた。だが、家督を継ぐ必要のある長子はおおむね十四で親元に戻ることが慣例となっていた。カインも五年前に、寄宿舎からシーバルグ伯領のカントリー・ハウスに戻っている。


 ――そうですね、カインとあなたは親しくしていた。嫌というほど知っています。だからこそ、会わせる事は不可能だ。


 「申し訳ありませんが、それは出来かねます。兄は――」


 カレンは意識的に言いよどむ振りをした。


 「病を患ってからずいぶん面変わりしたとは聞いてるよ。人と会うことを拒絶してるとも。でも僕と彼は昔馴染みなんだ、合わせてほしい」

 「どうか兄の心中をお察しください。昔なじみのお方だからこそ、いまの姿を見せたくはないのです」


 長い沈黙があった。ぴりぴりと肌を刺すように、不機嫌な気配が伝わってくる。表面上は柔和な笑みを浮かべながら、その裏で何を考えているのかわからない、それがカレンの知るこの男――カーライル公爵、リューイ・モーハンストだ。 そして、カールスト王国に二十五年にわたって君臨するランドール王の長子であり、第一位の王位継承権をもつ厄介な人物でもあった。


 「強硬手段をとることもできる……と言っても?」


 穏やかな口調、やさしげな笑み。けれど言っていることは剣呑この上ない。

 権力をたてに迫られれば、カレンに拒むことは出来ないだろう。きゅっと唇を引き結び、リューイを見据える。


 「兄が望まぬとわかっていながら、ですか?」


 質問を質問で返すのは不敬だとわかっている。リューイの笑みが薄れた。柳眉をややあげ、組んだ膝の上を指先でひとつ打つ。


 「ひとつ、聞いてもいいかな?」

 「なんなりと」

 「カインに妹がいたなんて初耳なんだけど」

 「わたしと兄は母が違うのです」

 「わけありってこと?」

 「はい、長らく離れ離れになっておりましたが、いまはこうして兄の看病をしております」


 あらかじめたずねられるだろうと予想していた質問に対し、よどみなく答える。詳しいところをざっくり省いているのも、そこは家庭の事情、聞いてくれるなという意味が含まれている。

 リューイが口をつぐむ。蒼穹とたとえられる青の瞳がまっすぐカレンを捕らえていた。


 「……わたしからもひとつ、質問を許していただけますか?」

 「いいよ、君にばかり答えさせるのは公平とは言えないしね」

 「供のかたはどちらに」


 意外な質問だったのだろう、おやっというように目元を緩めたリューイの雰囲気が和らぐ。


 「いないね。ぞろぞろ御付を連れていたんじゃ、いつ着けるかわからないじゃないか」


 当然というように言い放たれ、カレンはめまいを覚えた。ありえない、よりにもよってこの地を単騎でうろつくなんて。


 「王太子殿下ともあろうお方が、なんて無茶なことを……」


 思わず呟いた一言に、リューイが淡い笑みを浮かべた。


 「ふうん、社交の場に出ていないとはいえ、僕の立場は知ってるんだ?」


 冷たい汗が背中を流れた。

 確かに彼はカレンに対して己がカーライル公であるとしか名乗っていない。王太子であると知っているべきではなかったかもしれない、と今更ながらに気づく。だが、仮にも伯爵家令嬢、社交の場と無関係に生きているとしても、彼の事情を知っていておかしくはないはずだ。


 「……はい、存じております。リューイ王太子殿下」

 「堅苦しいね、リューイでいいよ」


 リューイの軽口を無視し、カレンはきっと眦を釣り上げた。


 「では殿下、無礼を承知で申し上げます。いくら安全になったとはいえ、この辺りではまだ小競り合いがあることもございます。僭越ながら、どうぞ軽はずみな行動はお控えください」


 隣国との休戦協定が成ったのは、五年前のことだ。協定はいまだ破られてはいないが、国境では小部隊による小さな諍いが何度か起こっている。シーバルグ伯領を治めるカレンの父は辺境伯でもある。ここは国を守るための要所、高貴な身でふらふら出歩いていい土地ではない。


 「――ぶれないなぁ」

 「は?」


 リューイが今度ははっきりと笑んだ。カレンの背筋がぞくりと震える。突然の悪寒に思わず二の腕をさすった。


 「わかった、いまは退いてあげる。でもあきらめたわけじゃないよ、忘れないで」


 リューイが音もなく立ち上がる。旅装用に仕立てられた丈の短いコットの下で細身の剣が澄んだ金属音をたてた。


 「お待ちください、我が家の従者を何人かお連れください」

 「必要ない、足手まといになるだけだから。それに、その従者が背中から切り付けてこないと、どう証明してくれるの?」

 「……我がエディンバ家は、それほど愚かではありません」


 いま最も王位に近いリューイが没するようなことがあれば、次代を巡り必ず国内で騒動が起こる。それどころか国外からの横やりが入る可能性すらあるというのに、いまこの時、彼を害する理由などない。が、隣国との諍いが激しさを増していた頃には、敵方と内通した身内からの裏切りすらあったと聞く。リューイの警戒もまた正しくはあるのだ。


 「冗談だよ。そんなに怖い顔をしないでほしいな。でも従者は必要ない」

 「殿下」


 しらずカレンの声に懇願の響きが混じった。剣の腕は知っている。賊に襲われたとしても数人程度なら何の問題もないだろうことも。

 だがなにごとにも絶対はない。そのこともまた、カレンはよく知っていた。


 ソファから立ち上がり、リューイの正面に回りこむ。頭ひとつ分近く違う身長差に、目線を合わせるため上向く。


 「実は、近くの町で護衛官が待ってる。ここには連れてこなかったけれどね」


 おどけたような口調とは相容れない、冴え冴えとした、けれど感情の見えない瞳がカレンを捉えていた。


 「……わかりました」


 きゅっと下唇を噛み、しぶしぶうなずくしかなかった。

 真実か否か、確かめる術はない。が、これ以上は意見をしてみても、おそらく聞き入れてもらえないだろう。


 「カレン」

 「なんでしょうか」


 答えた時には、右手首をつかまれていた。素手の熱が、薄い皮膚越しに伝わってくる。

 振り払うべきだ、と理解はしていた。いくら王太子とはいえ、未婚の女性になんの断りもなく触れていい理はない。

 だが、動けなかった。すべてを見透かすような聡明な青色に囚われ、ごくっと喉がなる。

 手首に触れていた体温が徐々に指先へと移っていく。永遠に続くかのようにおもわれた時間が過ぎ、その熱から解放されたときには、心臓が早鐘のように鳴っていた。


 「またね」


 わざわざ耳元に顔を近づけ、リューイが囁いた。反射的に手のひらで耳を覆い隠す。

 にこやかな笑みを浮かべるリューイを睨みつけたカレンの頬は、隠しようもないほど赤く染まっていた。

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