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青空ブランコ・春

作者: こうやまみ

 ――(りつ)

 少年の姿を見た瞬間、まるで極彩色の絵画を見たように世界がまばゆく光り、彼の名前が、胸の内側からあふれてきた。

 陽の傾きかけた公園のなか、学生服を着た華奢な背中が、ブランコに揺られている。

 公園の脇道から、園内の隅に設置されているブランコに腰かけている少年を見つめていると、彼との距離感が、彼を最初に見たときと同じもののように思えた。呼び覚まされる記憶と同時に、周囲の景色までもが変わっていく。

 去年の春、中学生活の最終学年がついに始まった、やわらかい陽射しの降り注ぐ教室。新しいクラスへの期待や不安が興奮となって、陽光とは裏腹の、エネルギーに満ち満ちた空間のただなか。彼は、やってきた。

 そこに、一陣の爽やかな風が吹いたようだった。

 彼が入ってきた途端、教室が水を打ったかのようにしんと静まりかえったのを、今でもよく憶えている。背筋を伸ばし、軽やかに歩くさまは、熱のこもった教室のなかに、外界の穏やかな春の空気を携え、招き入れているかのようだった。

 まとう空気をそのまま映したかのような、穏やかに凪いだ瞳で、彼は、自分がどこか遠くの町から越してきたことを説明し、あいさつをした。

 そのとき、彼が何と言っていたのかは、明確に思いだすことはできない。他の生徒と同様、春のふわふわと落ち着かない雰囲気に、少なからず心が浮かれていたからかもしれない。中学も三年になったこの時期に転入してきた少年への関心よりも、最後の一年にかける自分への期待のほうが、遥かに勝っていた。

 しかし、たった一つだけ、憶えていることがある。

「――律です」

 はっきりとした口調で、少年は、自らの名を名乗った。

 耳に届いた瞬間、彼にふさわしい名前だと思った。彼にこそふさわしく、そうあることが至極当然であるような、言葉に形容しがたい感覚。体のすみずみにまで水がしみわたり、潤っていくような感覚。

 彼が名字を言ったかどうかさえ、記憶にはない。ただ、『律』という響きだけが、なぜだか激しく心を打ったのだ。刹那、世界の真実の片鱗を見たようだった。

 桜吹雪の降り注ぐ、四月のある日。そうして、一年は始まった。

 初対面のときに感じたように、律はどこか変わった少年だった。

 律は、集団のなかにあっても、意識をその外へ飛ばし、漂わせているように、ぼうっとしていることが多かった。だからといって、人づきあいが苦手なわけではないらしく、クラスの友人と笑いあっているところも見かけられた。

 だが、一人でいる時間のほうが、圧倒的に多いようだった。律はそれを別段気にしているふうでもなく、むしろ彼にとっては、ごく自然のことであるらしかった。

 律と初めて出会って、もうすぐ一年が経とうとしている今でも、印象は変わらない。一言でいえば、不思議だ。

 そして今も、不思議に思う。

 律は、ブランコを揺らすでもなく、ただそこに座って、じっとどこか一点を見つめているだけだった。いつからそうしていたかは定かではないが、もうだいぶ前から、そうしているような気がした。律は、公園の景色の一部として、すっかり溶けこんでいるように見えた。そういえば、律がどこに住んでいるのかさえ知らなかった。だから、この公園に律がいることが珍しいことなのか、そうでないのかもわからない。

 だが、おかしくはない光景だな、と思った。一年を通して、彼がこの土地になじんだ証であることのように思えた。

 見つめているうちにだんだん興味がわいてきて、意を決し、そろそろと律に近づいていく。近づいても、律はいっこうに気づきもせず、空を見つめ続けている。少し緊張してしまい、のどが震える。

「律、だよね」

 声をかけると、律はやっと首を回し、真正面から視線をぶつけてきた。

 ――どきりとした。

 あまりにも、研ぎ澄まされた瞳。

 ぼんやりとした印象しかなかった律には不釣りあいなほど鋭い光は、無防備だった心をまっすぐ突き抜けてきた。光は、容赦なく心の奥底にまで射しこんでくる。

(貫かれる)

 とっさに、忘れていたまばたきをすることで、どうにか難を逃れた。もしもそのままでいたら、危うく傷つけられてしまうところだったろう。

 しかし、律の返した声は、瞳とはまるで裏腹の、何とも間延びしたものだった。

「そうだよ」

 律は特に気分を害した様子もなく、こくりと頷いて、再び視線を空へと戻した。

 呼び捨てにできるくらい、親しかったわけではなかった。ただ、彼の名前に『くん』など、何かよけいな言葉をつけてしまうほうが、よほど失礼なことのように感じたのだ。

 それきりとぎれてしまった、会話ともいえないやりとりは、一帯に空虚な空気を作りだしてしまったようだった。律は何も言わないが、もしかしたら邪魔をしてしまったのかもしれない。どうしたものかとどぎまぎしていると、律が空を見上げたまま、口を開いた。

「沢城」

 唐突に名字を呼ばれ、教室で先生に呼ばれたときのように、反射的に、

「はい」

と、返事をすると、律は少しだけ頬を緩ませた。

「何やってるの? こんなところで」

 こちらが尋ねてみたかったことを、逆に尋ねられていた。

「友だちの家に、今日渡されたプリントを届けに行くところだった」

 今まですっかり忘れていたことを、本来の目的を、半分は自分に言いきかせながら答えた。帰り道が全くの逆方向であるこちらの道を来たのは、学校を休んだ親友のために、届けものをするためだった。

「そう」

 興味があるのかないのかよくわからない口調で、律は一つ相づちをうった。

「うん、そう」

 春とはいえ、夕方の風はまだまだ肌寒い。前髪を揺らす風が、額や頬から体温をかすめ取っていく。これ以上、お互いに言うことがなくなったことを悟って、踵を返す。

「それじゃ、わたし、行くから」

 声をかけると、律はこくりと頷いた。

 何だかどっと疲れたように感じながら、公園の出入り口に向かって歩きだす。すると、律の声が背中を追いかけてきた。

「またな、沢城」

 思いがけない呼びかけに、足が止まる。振り返ってみると、律は何ごともなかったようにブランコに腰かけ、空を見ていた。

「またね、律」


 再び公園まで戻ってきたとき、そこに律の姿はなかった。



                          *



 翌日の放課後。教室のなかに律の姿を探すと、彼は鞄を抱え、そそくさと廊下へ出ていくところだった。その歩調は、はっきり目的があるように感じられた。だから、足が自然に律を追いかけていた。

 律はわき目も振らず、まっすぐ公園に向かって歩いていた。到着すると、だれもいないブランコに直進し、ゆっくりと腰を下ろす。少しだけあごを上向かせ、空を見つめる。そして、律の時が止まってしまったかのように、そのまま動かなくなった。

 思わず、首を傾げる。昨日も、学校が終わってからずっと、ああしていただけなのだろうか。いや、昨日だけではない。もしかしたら、もっと前から、公園のブランコで一人、ぼんやりと時が過ぎていくのを見つめていたのかもしれない。

 ふと、昨日見た、律の鋭い瞳を思いだした。

 平凡な公園の景色に、彼は一体どんなものを見出しているのだろう。

 園内に入り、ゆっくりとブランコに近づいていく。ブランコの前まで行って、律と正面から向かいあうと、昨日と同じく、空の一点から視線を逸らさずに、静かに律が問いかけてきた。

「今日は友だち、学校に来てたよね」

「今日は、公園に律がいるかどうか、見に来てみた」

 あとをつけてきたことを後ろめたくて、半分真実、半分嘘を言ってみる。すると、いつもぼんやりしているとしか思えないような律の表情が、ふいに崩れた。

「おれを?」

 目が合う。言って、一つ、まばたきをする。

「どうして?」

 驚いていた律の顔に、かすかに訝しむような色が加わった。

「別に。ただ、じっと空を見ているから、何か見えるのかと思って」

 律はしばらく首を傾げていたが、やがて、ふむ、と頷いて、哀愁をにじませた目でぽつりと言う。

「待ってるんだ」

「だれを?」

 条件反射のようにきき返すと、何が面白かったのか、律はくすりと笑った。

「どうして人なの?」

 さらにきき返され、何も言えなくなってしまう。

 確かに、律は『人を』待っているとは言っていなかった。それでは、どうして人だと決めつけ、『だれを』と尋ねてしまったのか。

 ――気になったからだ。

 律にまっすぐ見つめられていると、心のいっさいを見透かされているようで、居心地が悪くなる。昨日も、同じことを感じていた。律に対して、自分があまりに無防備であるようで、かあっと顔が熱くなってくる。

「今日はもう来ないから、ここにいても何もない」

 律は肩を下げ、どこか残念そうに、軽くほほ笑んだ。その笑顔に含まれているものを感じとって、わかった、と短く答えると、律はこくりと頷いた。

 赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、俯きながらブランコをあとにする。

「またな、沢城」

 ブランコからいくらも離れないところで、律の声が追いかけてくる。振り返ると、律はまっすぐこちらを見ていた。

「またね、律」



                          *



 それから、急速に、律との距離が近くなっていった。

 近くなったといっても、教室で言葉を交わしたりはしていない。ときおり廊下ですれ違ったときに、目と目を合わせるようになったくらいのものだ。それでも、同じクラスでありながら見向きもしていなかったことを思えば、お互いの立ち位置は格段に変わっていた。

 今まで以上に律を意識するようになってから、当然のことながら、律を見かける機会が多くなった。

 廊下にいる。図書室にいる。下駄箱にいる。教室の窓辺にいる。

 相変わらず、律は一人でいることが多い。しかし、笑った顔を見る機会も存外多かった。もうだいぶ前の春の日と少しも変わらない、律の軽やかな足どりや笑顔を見つけると、何だかとても清々しい気分になった。

 律の背中を見つけては、最近、ふと考える。もしかしたら、無意識のうちに、律にシンパシーのようなものを感じていたのかもしれない、と。律の孤独を背負ったような後ろ姿は、中学に上がると同時に転校してきた自分自身と重なるのだ。

 この地域は、ほとんどの生徒が小学校からの持ちあがりのため、ある程度の集団ができあがってしまっている。今でこそ溶けこんでいるものの、そのなかへ、たった一人で飛びこんだときの疎外感は、並大抵のものではなかった。


 ここのところ、放課後の公園のブランコには、必ず律がいた。だから、背中を追いかけて、公園に足を運んでは、一緒に空を見上げた。

 帰り道とは全く逆の方向でも、ちっとも苦にならなかった。いつからか、律の姿を見に行くのではなく、彼のとなりで、彼の見ている景色を見ようとしている自分がいた。律は、別段追い返そうともしなかった。

 律は、決まって左側のブランコに座る。だから、となりの、右側のブランコに座った。

 しばらくは、となりあったブランコに腰かけても、お互い特に会話もすることなく過ごす時間が続いた。そういったやりとりが目的なのではなく、何となく、お互いの間に流れる空気を楽しんでいるといったほうがしっくりくる気がした。何をするでもなく、お互いがとなりにいることを感じながら、陽が住宅街の屋根の向こうに沈む直前まで、ぼうっと空を見つめていた。

「またな、沢城」

 別れぎわ、律は必ずこの言葉でしめくくった。だから、

「またね、律」

と言って、返す。初めて公園で言葉を交わしたそのときから、それが習慣になっていた。

 ある日、ブランコに腰かけてから、飽きもせず、相変わらず変化のない律に尋ねてみた。

「待っているもの、明日は来るの?」

「わからない」

 律はじっと上空を見据えていた。彼の瞳は、はるか成層圏を突きぬけ、昼間は見ることのできない星すら見出しているように思えた。

「当分、来そうにないみたいなんだ」

 律は、長い睫毛にふちどられた瞳をすっと細める。

「卒業する前に、どうしてもって思ってるんだけど」

 心臓の音が、ひときわ大きく全身を駆けめぐった。同時に、両肩にずしりと重く冷たいものがのしかかったようだった。

 ――卒業。

 夢と現の境のような空気のなかから、急に現実に引きもどされたようだった。

 あと何日もしないうちに、自分たちは、中学を卒業する。ともなれば、放課後、律とこうしてブランコに並んで座り、ぼうっと空を見上げる日々も、当然なくなる。

 卒業したあとも、律はブランコに通い続けるのかもしれない。待っている『何か』が来る日まで、ずっと。自分も、律と一緒に『何か』を待っていればいい。

 けれど、それでは何かが違うように思えた。

 卒業は、区切りの一つにすぎない。流れる時間はとぎれることなく続いていくし、友だちとだって、会えなくなるわけではない。だが、律と一緒の教室で素知らぬふりをして授業を受け、心を弾ませながら公園へ向かい、律の背中を見つけてほっとし、となりのブランコに腰かけるという習慣は、なくなってしまう。

 卒業という節目に対して無感情だった心に、とっかかりのようなものが生まれていることに、今さらながら気づいてしまった。

 時間はどうしようもないほど正確に時を刻み、迫ってくる。今まできこうとさえもしなかった足音は、いったんきこえてしまえば、まるで隠すことをやめたかのようにどんどん大きくなり、背後を脅かす。逃れようと駆け足になれば、刻限がなおのこと早くやってきてしまうだけだった。

(もうすぐ、終わる)

 家に帰ってからも、このことだけが頭のなかを占めて、他のことは何も考えられなくなっていた。

 この時間が、終わってしまう。

 たまらなくなって、涙がこぼれた。



                          *



 卒業式、当日。

 昨晩、突然降りだした雨に、湿っぽい憂鬱な式になってしまいそうだと気をもみながら就寝したが、朝になってみると、窓の外にはうそのように晴れ渡った空が広がっていた。

 旅立ちの日にふさわしい、蒼穹の朝だった。

 夜じゅう地上を浄化した雨のおかげで、学校までの道のりも、どこかきらきらと輝いて見える。それは胸をわくわくさせると同時に、これから待ちかまえている、逃れようのない『別れ』への予感を和らげてくれていた。

 式は予行練習通り滞りなく行われ、あっという間に最後のホームルームも終わり、拍子抜けしてしまうほどいつも通りの、単調な一日だった。

 ただ、中学生活最後の日になって、信じられないくらい珍しいことが、一つ、起こった。

「沢城」

 唐突に、律が教室で声をかけてきたのだ。それがどれだけ珍しい光景なのかを如実に示すように周囲がさざめくなか、

「来たよ」

 たった一言、律はそれだけ言った。律の言葉に意味を解せない周囲は、首を傾げる。

 そう、この会話は、二人の間でだけ成立していた。

 しかし、これ以上に、どんな言葉がいるだろう。お互いの間には、その言葉だけで十分だった。

 目を、瞠る。

 おそらく律は、長らく待っていたものがやっと来たということに対して驚いたと思っているのだろう。

 しかし、それは半分当たっていて、半分は外れていた。律のこんな表情に対しての驚き。いや、もしかしたら、律に対する驚きのほうが勝っていたかもしれない。

「沢城、ちょっといいか」

 律に返事をするより先に、先生に呼ばれる。律と視線を外してしまうことをためらっていると、律は公園で待っている、と目で告げてから、教室のなかに蔓延している未練さえもするりとすり抜けるように、そっと教室をあとにした。

 教室で見た最後の律の後ろ姿は、どこまでもいつも通りだった。


 ほどなくして用事も済み、慌ただしく校舎を飛びだした。

 律が待ち望んでいたものとは、一体何なのだろう。わからない。わからないから、気になるのだ。どうしても、知りたくなってしまうのだ。そんな気持ちは、もはや後戻りなどできないところまできてしまっていた。

 たまらずに、駆けだす。はやる心に比例して、どんどん加速度がついていく。

 はやく。はやく。はやく。

 はやく。はやく。もっと、はやく――。

 息を切らして公園のブランコまでたどり着くと、律は、今までに見たことのない、くらむほどにまぶしい笑顔で迎えてくれた。

「やっときた」

 思わず、目を細めた。律をこんなにも笑顔にしてしまう、何か。それは一体、何なのだろう。

 律は靴を脱ぎ捨て、制服のズボンを膝までまくりあげて、左側のブランコに腰かけていた。

 彼をとりまいている景色が、いつもとはまるで違っていた。ありえない。ありえないけれど、確かに今、目の前に広がっている光景。

 律の周囲一帯に広がっていたのは――空、だった。

「はやく」

 律が手招きをする。そのとき、微風が一面の空を渡り、足元の空にさざ波が起こった。目を凝らしてよく見てみると、ブランコの周囲には、あふれんばかりの水がたたえていた。四本の支柱をぐるりと囲むほど大きな水たまり。なみなみと満たされた大きな水たまりが、まるで鏡のようになって、青く冴え渡った空を映していたのだ。

「空に浮いているみたい」

 両手を胸の前で合わせ、ほうっと感嘆のため息をもらしていると、律はたまりかねたようにすっくと立ちあがった。律の足元の底から淀みが湧きあがってくる。青く澄んでいた世界が黄土色に浸食されていくのを残念に思いながら見つめていると、ふいに律に手を掴まれた。驚いて律を見ると、律は少しはにかんで、水たまりのなかへといざなうように手を引いた。

 靴のまま水たまりに入っていくと、晴れの日のために新調した真っ白な靴下に、たちまち水がしみこんでいく。律と向かいあって、手を握りあったまましばらく佇んでいると、淀んでいた水が静まり、足元に 再び青い空が戻ってきた。

「ようこそ、青空ブランコへ」

「青空ブランコ?」

 律はこっくりと深く頷いた。

「前に、ずっとこの近所に住んでいるっていう友だちにきいたんだ。ここのブランコには、雨が降ると、とっても大きな水たまりができる。そのときにブランコに乗ると、まるで空を飛んでいるみたいなんだって」

 やっと得心がいって、律と同じく、深く頷いていた。

 天気予報を大幅に覆して、昨晩降った大雨。

 間違いない。

 律は、『雨』を待っていたのだ。

 それから、二人でそうっと足を忍ばせながら、ブランコに腰かける。二人でかき乱した水面は先ほどよりもさらに濁りを増したが、しばらくするとそれも落ち着いて、足元には再び青い空が戻ってきていた。


 どれくらい、二人でそうしていたのだろうか。

 気づけば、空の青に少し赤みがさしてきているようだった。風もどこかひんやりとしている。律を見れば、彼は相変わらず空を見ていた。ただ、今日は見上げるのではなく、見下ろしているという点では、いつもと違うのだけれど。

 せっかくだから、今日は、少し違うことをしてみようか。

 決して長くはなかったが、それでも、となりで過ごしてきた時間とは見合わないような質問をしてみることにした。

「律は、どこの高校に行くの?」

「ずっと遠く。おれ、また引っ越すんだ」

 思わず、律を見つめる。律は穏やかな表情のまま、変わらずにとなりのブランコに座っていた。

 だから、来る日も来る日も、ここでこうして雨に焦がれながら、じっと待っていたのか。青空ブランコを――地上に広がる一面の青空を見られるチャンスは、卒業を迎えるまでの、わずかな期間しか残されていなかったから。

「いつ?」

「……明日」

 ――やっぱり。

 律の横顔を見つめながら、心のどこかで納得している自分がいた。

 掴めない、とどめておくことなどできない、自由で奔放な、風のような人。

 だから、そうか、と返すことで精一杯だった。

 しばらく、静穏な時が流れた。

(本当に、終わっちゃうんだ)

 公園のなかに植わっている、咲くにはまだ早い桜の蕾をぼんやり眺めながら、かみしめる。律にとっては、おそらく最高の、自分にとっては、あまりに突然の別れを伴った、終わりを。

 晴れやかな律の気分をしぼませてはいけないと、胸の内から今にもあふれてきそうな感情を沈める。足元に広がる、空を映す清々しい水面のように、心穏やかでいなければ。

 しかし、その底には、淀んだ澱が沈んでいることもよく知っていた。少し乱されれば、たちまち湧きあがってくる。だから、深く、ゆっくりと、ただ静かに呼吸を繰り返す。

 願わくは、律が引っ越す日を告白したとき、ほんのわずかながらも表情を歪めたように見えたことが、決して見間違いではなかったようにと、切に思う。

「さて、おれは、もう行くよ」

 返事をしなければ。最後なのだから、笑顔で送りだしてあげなければ。思えば思うほど、うまく言葉も出てこず、俯いたまま、顔を上げることすらできなかった。にらみつけているスカートに、こぼれ落ちた涙がにじんだ。

「初めてきいたときから、きれいな名前だって思ってた」

「え?」

 律の言葉に、自分が今どんなにひどい顔をしているかさえ忘れ、ぱっと顔を上げる。送った視線を、律はいやな顔をするどころか、このうえなくやわらかいほほ笑みで受けとめてくれた。

「またな、瑞羽(みずは)

 唐突に名前を呼ばれて、心臓が飛びださんばかりに跳ねあがった。次の瞬間、律はしたり顔でこちらを見つめ、口の端をくいと上げて笑ってみせると、そのままふらりと歩きだす。

「またな、律」

 負けじと大声で名前を呼び、大きく手を振って律を見送る。律は振り返らず背中で受けとめ、後ろ手に手を振ってみせた。



                       *  *  *



 世界が、薄紅色に染めあげられる。空気もどこか淡くおぼろげだが、精気に満ち満ちている。生きとし生けるものたちの内なる力を、もっとも感じる季節だ。

 公園の青空ブランコは、まるで主を失くしてしまったかのようにがらんとしていて、空虚に見える。ここのところは見るたびに埋まっていた左側のブランコが、微かに風にあおられ、揺れている。

 まるで呼ばれるように、瑞羽は公園のなかへ入り、青空ブランコの前までやってきていた。

 左側のブランコに、そっと腰かけてみる。もう一つあるとなりのブランコとはそう距離があいているわけでもないのに、そこから見える景色は、全く違ったものに見えた。

 ――これが、律の見ていた世界なのだ。

 途端、胸のまんなかがぎゅうっと締めつけられて、息もままならなくなってしまう。胸の痛みを必死にこらえて、空を見上げる。

 律は、ここにはもういない。きっと、二度と戻ってくることもないのだろう。だから、根拠のない期待はしていない。

「わたしが、会いにいく」

 だれ一人として証人はいないなかで、静かに宣誓してみる。思っていたことを口に出してみたら、ただ思っていただけのときよりも、ずっと心が軽くなった。

 春の空は、とてもやわらかい色をしている。雲との明確な境目がなく、混じりあって、まるで壮大な青と白のマーブル模様のようだ。

「あ、思い出した」

 ふと閃くものがあって、思わず口をついて声が出てしまった。

 律の、名字だ。

 空を見ていたら、急に浮かびあがってきたのだ。

 同時に、律と初めて対面したときのことを思いだしていた。あのとき、彼に漂う雰囲気や物腰から、なぜか妙に納得したものだった。

 改めて、空を見上げる。またしばらくは、晴れやかな日々が続くだろうと、天気予報で言っていた。どこからか香る花の匂いを胸いっぱいに吸いこみ、深呼吸する。

 再会を願って。

 彼もまた、どこか見知らぬ土地で、同じ空を見上げていることを願って。

「雲平、律」



〈了〉

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