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物事の始まりが大抵そうであるように、私たちの生活も最初は順調でした。
共働きで二人の時間は多く持てませんが、先に帰った方が食事を作り、
お互いの帰りを待つ毎日は、かえって愛を育むようでした。
結婚して最初の思い出は、カヤが庭に紫陽花を植えたことです。
何処で買って来たのか、肥料の袋や苗床を用意し、庭の一角は紫陽花で埋まりました。
私は手伝おうとしましたが、最後までやんわりと断られました。
彼女はこの紫陽花を、自分の愛の証だと言いました。
私は気恥ずかしかったですが、彼女は大真面目のようでした。
休日には二人で水を遣るのが、私たちの習慣になりました。
一方、私の会社での立場は、日増しに悪くなって行きました。
私の上司は父の友人で、葬儀にも参列していました。
騒動に居合わせた同僚もいて、その噂は全社に知れ渡っていました。
田舎の小さな会社のことです。仕事に影響しないはずがありません。
カヤは私に会社を辞めることを勧めました。
「いつも家にいてくれる方が、わたしは嬉しいな」
確かに彼女の稼ぎは十分なものでした。とはいえ私にも沽券があります。
敢然と仕事に向かう私を邪魔したのは、他ならぬ彼女でした。
靴や定期や鞄を隠したり、捨ててしまうのです。
犬猫のような悪戯でも、大人の知恵にかかれば洒落ですみません。
噂に加えて不真面目というレッテルを貼られ、私は退職を余儀なくされました。
何故怒らないのか? そう思われる方もいるかもしれません。
もちろん怒ったことはあります。けれどカヤは意に介さないのです。
私が本気で怒れない、というのも一因でしょう。
彼女の悪戯に悪意はありません。全て無邪気な、愛情の発露なのです。
遠い日の虫の味を思い出しながら、私は彼女を許すしかありませんでした。
私は次第に、一日を家で過ごす日々に慣れていきました。
専業主夫というのでしょうか。家事をこなし、本とTVを友に妻の帰りを待つ毎日。
カヤは手放しで喜び、世間の雑音は遮断され、それは理想の生活のようでした。
ですが主婦同然の暮らしには、同種のストレスがありました。
以前は気にならなかった、彼女の遅い帰宅や宿泊に苛立つようになったのです。
仕事だから、という正論は慰めになりません。
彼女は私から仕事を奪ったのに、自分は楽しく男と仕事をしている。
いや、仕事を口実に浮気しているかもしれない。
そんな妄想が頭の中を駆け巡り、いても立ってもいられなくなるのです。
結婚の翌年から、私は酒を飲むようになりました。
カヤは酒が嫌いで、家にアルコールを置きません。
私は彼女の留守を盗んでは、隣町の飲み屋へ繰り出すのです。
酒の匂いは隠せませんから、彼女は黙認していたのでしょう。
ですが、ちょうど一年前のあの日、私は過ちを犯しました。
したたかに酔い、終電を逃した挙句、タクシーで帰宅したのです。
カヤはすでに仕事から帰っていました。
灯りをつけない真っ暗な部屋で、少女のように泣いていました。
その日は私たちの結婚記念日だったのです。
私は土下座して謝りました。「何でもする」と許しを請いました。
けれど、涙も乾かぬ彼女が口にした言葉に、私は耳を疑いました。
彼女が望んだもの――それは、私の右脚でした。
私は絶句しました。
脅しや冗談ではないことは、空気から歴然とわかりました。
カヤは無表情で私の返答を待ち続けています。
言葉次第では、彼女は何も言わず私の元を去るに違いありません。
そうなった時、私には一体、何が残るのでしょう?
戦慄が背骨を駆け上りました。
「わたしのこと、まだ愛してる?」
私が頷くと、彼女はようやっと微笑みました。
ああ――あの時の私は、彼女の愛を露ほども疑わなかったのです!
切断手術は、台所で行われました。
部屋を滅菌し、食卓に防水シートを広げ、私はそこに固定されました。
口に布を噛まされ、全身麻酔を打たれ、そして手術は始まったのです。
麻酔もそうですが、メスや鉗子の道具類を、どうやってカヤが揃えたかは謎です。
看護師なら簡単に入手できるものでしょうか。ともあれ彼女の準備は万端でした。
手術は驚くほど手際よく進みました。
彼女の振るうメスが、慣れた手並みで太ももを切り裂いていきます。
麻酔で痛みはありませんが、電気鋸の振動だけは頭蓋に響きます。
やがてゴトリと音がして、右脚が軽くなりました。
私はいつしか自分が泣いていることに気付きました。
術後、貧血に苦しむ私に、彼女は温かなシチューを作ってくれました。
その肉が普通のものでないことは、何となく気がついていました。
けれど、彼女手ずから運ぶ食事を拒むなど、私にできようはずもなかったのです。
ここまで読んでいただけたなら、お分かりいただけるでしょう。
彼女の秘めたる異常性において、疑う余地はありません。
それでも私は、今日までカヤを愛し続けてきました。
それは私に対する彼女の愛もまた本物だと、信じて疑わなかったからです。
片脚一本で二人の愛が証明されるならと、自分を納得させるほどにです。
ですが、再び紫陽花の季節を迎え、その思いは裏切られました。
彼女は、次の結婚記念日に、私の残った左脚を要求したのです。
変わらない愛の証として。
私は、彼女を心から愛しています。
ですが、彼女はそうではないのでしょうか?
私は彼女の中で、何でも意に従う奴隷、いや生きた玩具なのではないか。
私の愛は弄ばれているだけではないのか。
そんな疑念が垂れ込めるのは、私の愛が本物ではないからでしょうか。
確かに彼女は毎日、私に尽くしてくれます。
片脚になった私の介護はもちろん、夜においても献身ぶりは変わりません。
でもそれは心からの行為なのかどうか。今の私にはわかりません。
彼女は結婚詐欺師の娘なのです。
これは、彼女と交渉する前に、急遽書き上げた手記です。
パソコンからネットを介して、複数のアップローダーに掲載しました。
時限付きの鍵をかけたので、すぐには開けません。
私が三日戻らなければ、鍵は解除され、自由に閲覧できるようになります。
その時には、私はこの世にいないことでしょう。
これは、異常な女に惚れこみ、命を落とした愚者の遺言です。
信じてもらわなくて結構です。フィクションとしてこの話を広めてください。
寂しがりの彼女のことです。私の死後、必ず次の男を探すはずです。
愛を装い、愛を求め、残酷な証明を望むのです。
カヤと呼ばれる看護師には、くれぐれもご注意ください。