魔術学校の妖精 Ⅰ
クレナダ村の事件から数週間後。
モナド皇国内は特に混乱もなく、人々は落ち着いていた。
当初はさすがに国中で混乱が巻き起こった。
特に諸外国と取引をしている商人たちを中心に役所に陳情書が次々と届けられたが、一定の救済策を国が施行したことで鎮まったのだ。
商人たちには国境に敷かれた結界の影響で交易が断絶された分、申請すれば生じた儲けへの被害救済金が交付された。
クレナダ村を廃村に追い込んだ犯人に怯える人々には、今まで以上に騎士団が街や村を見回って治安維持に努めるとともに、犯罪をおかした人間には現行よりも厳しい罰則を与えるようにした。
ほかにもギルドが引退した冒険者たちに掛け合って有志の自警団を作り、騎士団の目の届かないスラムや郊外に居を構える人々の救済を始めた。
それらの積み重ねによって、モナドの人々はようやく落ち着きを取り戻したのだ。
クリスはモナド国立魔術学校の魔法学科の授業を終えると、錬金術学科の補習にいつものように潜り込んでいた。
横に置いているカバンの中には、いつ襲われても対処できるようにヴァンから貰った身代わりの彫像が入っている。
日常と非日常。
少しの緊張を保ったまま、クリスは日々を過ごしていた。
クリスは備品の錬成釜に黒板に書かれたレシピを何度も確認しながら材料を投入した。
基本的に自由出席の補習なので、こうしてクリスが紛れ込んでいても講師が気づくことはないし、備品が足りなくなることもない。
こうして授業を増やす分には制限がかかることはない魔術学校だが、逆に欠席には厳しかった。
自由出席ではない授業では必ず点呼を取り、無断で欠席した生徒は各分野の試験から一定の点数を引かれる。もちろん及第点以下なら追試だ。
追試も重なりすぎると落第になりかねない。
だからクリスは錬金術学科の授業だけを受けたくても、入ったのが魔法学科である以上、その授業をさぼれなかった。
錬成釜から取り出したものを布で包んで加工していく。
今回の補習内容は小規模爆弾“フラム”の錬成である。
あの青の森の魔女が伝えた技のひとつとされていて、護身用に持ち歩く生徒もいた。
魔法だと初級の火の魔法程度の攻撃力しかない。
クリスは包み終えた“フラム”をそっと机の上に置いた。
講師が教室内を回ってひとつひとつ回収していく。
そして順番に出来の評価をされていった。
「右から順番に発表します。ひとつ目、A+。よくできました。ふたつ目、C-。もう少し錬成時間をのばすとよいでしょう」
クリスは魔法の素質はあっても、あまり錬金術の素質はない。
理論上は完璧なレシピを参考に錬成しても、最後に流し込む魔力の量を調整するのが下手なのだ。
そしてついにクリスの“フラム”の評価が下された。
「三十五個目・・・E-。これでは爆発しません」
爆発しない爆弾など意味がない。
クリスはぺったりと机につっぷした。
補習後、ギルドの受付のアルバイトまでに少し時間があったクリスは図書館を訪れていた。
魔術学校の図書館は皇都で一番の蔵書量を誇る。
錬金術について書かれた書棚から、初級錬金術について書かれた本を抜き取る。
“フラム”の項目を開いて、先ほどの授業を思い出した。
「レシピはやっぱり間違いないわ。でもまた失敗してしまった」
クリスがため息をついていると、右太ももの紋が淡く光る。
空気がゆらめき、空中に水の貴婦人を生み出した。
この紋はウンディーネからの一方的な契約なので、契約者のクリスが呼ばずともウンディーネはいつでもクリスのもとに現れることができる。
急に現れるのもいつものことだった。
「どうしたの?」
「クリスちゃ~ん、ひまだわ~。ちょっとだけ遊んでくるわね~」
「え?」
クリスはぽかんと見つめている先で、ウンディーネは上空に舞い上がって溶け消えた。
自由気ままな精霊なので仕方ない、とクリスは頭を切り替えて手元の本に集中する。
日が傾き、窓から差し込む光が橙色に染まってきた。
クリスは文字の読みすぎで乾燥している目をまたたかせながら、ウンディーネを呼ぶ。
「ウンディーネ、そろそろギルドに行く時間よ」
呼ばなくても現れるウンディーネだが、こちらの呼びかけを拒否したことはない。
しかしどれだけ待ってみても、水の精霊は現れなかった。
「ウンディーネ・・・?」
いつも側にいた存在がいない不安定さに、クリスは悪寒を感じた。
じっと待っていられずにギルドに向って走り出す。
「そうよ。先にギルドに行って待ってるだけかもしれないじゃない」
かすかな希望をこめた祈りは届かなかった。
ギルドにウンディーネはおらず、翌朝になっても戻らなかったのだ。
契約精霊が不在でも紋はそのまま残っている。
消えていないということはウンディーネとのつながりも途絶えていないということだ。
翌日、ギルドの受付をこなしながらクリスはそのことに少し安心しながら、ひとりの青年を待っていた。
夜も更けてきたころ、ヴァンがギルドにやってきた。
彼はフードの男に関する目撃情報に新しいものがないか確認するため、毎日ギルドを訪れていた。
クリスは書類をまとめていた手を止めて、掲示板の前にいるヴァンに駆け寄る。
「ヴァン、ちょっといい?」
「クリス?」
クレナダ村の事件以降、クリスは人と距離を置いてしまう自分を変えようと決意したのはいいものの、まだ頼れるほど弱さを晒せる相手は限られていた。
ヴァンはあの同行していた間ずっとクリスを守ってくれたし、今も気にかけてくれているので他の人よりも話しやすい。
そう考えて、クリスはヴァンにウンディーネが行方不明になっていることを告げた。
「まだウンディーネは戻らないわ。ヴァンはいろいろなところを旅しているでしょう?精霊がこんなふうに契約者の呼び出しに応じない話とか、それを解決する方法を聞いたことはない?噂でもいいの」
ヴァンは腕を組んでしばらく唸っていたが、やがて首を振った。
「ごめん、心当たりはないよ」
「・・・そう」
魔法使いでも、精霊との契約者でもないヴァンだからダメで元々くらいの気持ちでいたクリスだが、やはり否の返事を聞くと気が沈んだ。
大きくため息をついて気持ちを切り替える。
ヴァンにはまだ訊かなければならないことがあった。
「ごめんなさい、もう少し自分で探してみるわ。・・・それで、あのフードの男は見つかったの?」
クリスにとってウンディーネの行方も心配だが、自身の命を狙っているかもしれない人物が国内にいることも心配だ。
ギルドに寄せられる情報はクリスも目を通しているが、フードのせいで人相がよくわからない人間を特定するのは困難だった。
目撃証言も錯綜している。
ヴァンはそれらの真偽を経験則からか、ある程度選別しながら追跡しているようだったので何か新しい情報をつかんでいるかもしれないと思った。
「あの馬鹿でかい結界のおかげか、まだ国内にはいるみたい。一度は潜伏先を突き止めたんだけど、すでにもぬけの殻だったね。今度はもっと見つかりにくいところに隠れていると思う」
「目星はついているの?」
「その目星をつけられるかと思って、今日の情報を聞きにきたとこ」
そう言ってヴァンは指名手配しているフードの男の情報だけを掲載した、別枠の掲示板をのぞきこむ。
何枚か掲示されている紙を手に取ったが、目を通したあと再び元に戻した。
「ああ、やっぱりなかったな。情報屋連中が血眼で探してるくらいだから、ギルドに寄せられる程度の目撃証言はあてにしてなかったけどさ」
「そうなの?」
「まあね。でもギルドに来た甲斐はあったよ。ひとついい情報を手に入れたかな」
いつそんな情報を聞いたのだろうか。
彼が本部の建物に入ってすぐに接触したクリスは首をかしげた。
「クリス、君が狙われているかもしれないって話はしたよね」
「覚えてるわ。身代わりの彫像もずっと持っているもの」
「そしてウンディーネは君の契約精霊だ。あの男が現れた現場にも具現化して、お互いに存在を知っている。俺は直接君に危害を加えてくるんじゃないかと予想してたんだけど、もしかしたらウンディーネのほうに何かしたのかもしれない」
クリスは天井を見上げて考えた。
言われてみれば、たしかにその可能性もあるかもしれない。しかしウンディーネに限っては考えにくかった。
精霊の生態は解明されていないが、知能を持ち話すことのできる存在は力も強いと伝えられている。
ウンディーネは自由気ままで緊張感のない性格だが、きちんと自我を持って発言するし、行動も自己決定する。
そのことからもかなり上位の精霊であることは間違いない。
クリスは視線をヴァンに戻した。
「可能性は低いと思うわ。精霊のウンディーネは水の化身。物理的な攻撃は効かないし、罠も関係ない。あのときみたいに魔法で攻撃されても避けられるくらい力も強いわ」
だからこそ呼び出しに応じない今の状況は異常だ。
あらためてクリスはそのことに戦慄した。
ヴァンは肩をすくめて掲示板にもたれかかった。
「まあ、それでもここにある情報よりは調べる価値があるね。一度いなくなった場所に行ってみるよ」
「図書館に?私も行くわ」
クリスはとっさにそう返していた。
「危険なのはわかってるんだよね?」
「そうね。でもウンディーネの契約者は私よ。私がいることでわかることもあるかもしれない。・・・それに、家族みたいなものなのよ。生まれたときからずっといっしょにいたんだから」
ヴァンはしばらく迷っていたようだが、やがて厳しい表情で言った。
「わかったよ。契約者が同行する利益は大きい。来てくれるなら助かるけど、俺の指示には従ってほしい」
「もちろんよ」
いなくなった水の精霊の顔を思い浮かべながら、クリスは大きくうなずいた。