モナドの竜 Ⅰ
皇都の裏路地で大量殺人事件が起こる1か月前。
クリスとヴァンはあの喫茶店での出来事以来、時々ともに出かけるようになっていた。
ギルド受付の昼番であるマリーなどは、面白がって「若いっていいわね」と笑っていたが、クリスはまったくそんな甘い関係ではないときっぱり言い返した。
なにせ行く場所が喫茶店であったり、日用雑貨の小物屋だけではないのだ。
ヴァンの剣の手入れをしに武器屋へ行くこともある。
フードの男の情報収集のために、あらくれ男たちが集まる場末の飲み屋に連れて行かれたこともあった。クリスのような若い女の子がいれば野郎の口は軽くなるんだよと同行させられたのだが、顔が引きつった。
いくら普通に話せる貴重な相手として認められていても、これは遠慮がなさすぎる。
私は冒険者ではない。
そもそも女の子に対する態度じゃない。
「・・・と、そう思うのよ」
クリスは目の前に座って発酵茶を飲んでいるヴァンを、じとっと見据えて訴えた。
学校は休日。夜からのギルド受付をするまで時間の空いていたクリスは、久しぶりに家でゆっくりしようとのんびり本を読んでいたら、突然訪ねてきたヴァンに喫茶店まで連れ出されのである。
一度クリスが招待した客人ということで、玄関で対応した使用人は疑うことなく通してしまったらしい。
ヴァンは飲み終わったカップを机に戻した。
あの木造の隠れ家のような喫茶店には、自分たち以外に客は数人しかいない。
「クリスは女の子扱いしてほしいってことだね?」
「特に丁寧に接する必要はないわ。でも最低限のことってあるでしょう?この1か月、いろいろなところに連れまわされて、さすがに文句の一つも言いたくなったの」
「迷惑だった?」
「・・・迷惑していないと思っていたことにびっくりしたわ」
クリスは皿の上のシフォンケーキを、側に添えてある生クリームをのせて大きく切り取って口に含む。
ほんのりした甘さが怒りを和らげてくれる気がした。
むっつりと頬を膨らませているクリスに、ヴァンが困ったような表情をした。
「ごめん。言ってくれたらよかったのに・・・。女の扱い方しか知らなかったからさ。どう接していいかわからなかったんだよ」
「少しくらいなら我慢できるから今まで言わなかっただけよ。・・・接し方なんて同じじゃないの?」
「全然違うと思うよ」
若くても年老いても、女性は女性だと思う。
クリスはヴァンの言葉に首をかしげた。
そこでふと場末の飲み屋でかけられた言葉を思い出して、ひとつの可能性に気づく。
低い声で問いかけた。
「それは商売女の扱い方しか知らないという意味かしら?」
冒険者の男に連れられてきた少女に対する男たちの対応はふたつに別れた。
ひとつは関わらずに遠巻きに眺めるだけの者。
もうひとつはわざと絡みに来て、経験の浅そうな若い冒険者からあわよくば少女を奪おうとする者。
当然彼らはヴァンがAランクとは知らずに喧嘩を売ったので、きっちり制裁されていた。
そのときに「商売女のくせに」と捨て台詞を吐かれたのを思い出したのだ。
クリスは箱入りの貴族令嬢ではない。
夜のギルド受付をこなしていれば、その言葉が肢体を売りにする娼婦のことだという知識くらいはつく。
そのときは敗者の戯言だと聞き流した。
クリスの湖面のような透き通った目が、今は凍える氷のように冷たくなっている。
ヴァンが慌てた口調で、両手を前にしてクリスの冷えた視線をさえぎった。
「えっと、ごめん。ほんとごめんって!今度から気をつけるから!たとえば、ええと、夜は連れ出さないとか!ほらいろいろ気をつけるから!」
「質問の答えになっていないわ」
「勘弁してよ・・・」
ヴァンは力なく机に突っ伏した。
明るい茶の髪が窓から差し込む日の光を反射して輝く。
それを眺めていたクリスは、追求しすぎたかと反省した。
実はそれほど彼女は怒っていない。
冒険者たちが娼婦を買うことも、それが商売として経済の一部となっていることも忌避感はない。特定の女性がいるにも関わらず、そういう行為をするなら話は別だが。
そうでないなら、彼女たちのような夜の慰めが必要なときもあるだろうという理解もできる。
ただ今までのように振り回されたくなくて、わざときつい物言いをしただけだ。
こんなふうになるまで追い詰める気はなかった。
「ごめんなさい。言いすぎたわ」
その言葉にヴァンが顔を上げる。
「許してくれたってことかな?」
「ええ、これから気をつけてくれるのでしょう?」
「もちろん」
「なら、いいわ」
大の男。それもAランク冒険者がすがるような声で言うのに、クリスは笑った。
笑顔が見れたことでクリスが本当に怒っていないとわかったのか、ヴァンもほっと息をついている。
「それで、今日はこれからどうするの?私は家で本の続きを読むわ」
落ち着いてクリスが尋ねると、ヴァンは視線を上にあげて思案気に口を開いた。
「俺はこのあと情報集めるのがうまいやつを何人かあたってくるよ。まあ、いつも通り期待してないけど」
「そうね・・・。ギルドに寄せられる、あやふやな目撃情報も最近は少なくなってきているわ」
「どこかに完全に潜ったかな」
フードをかぶった風の魔法を使う男。
それだけしか判断材料がないので、集まる情報はあやしいものばかりだ。
その不確かな情報さえ、この頃は出てこなくなっていた。
クリスはあの男が人間ではないという皇帝陛下たちの言葉を思い出す。
たとえばクリスの契約精霊ウンディーネの実体は水の粒子で出来ている。
そのため地面にも滲みるように潜り込めるし、空気中に霧のように漂うことも可能だ。
もしフードの男も同じことができるなら、人間から身を隠すなど容易だろう。
ヴァンがため息をつきながら言った。
「いっそどこかで事件でも起こしてくれれば、まだ特定しやすいんだけどね」
「縁起でもないこと言わないで。またどこかであんな石が出てくるなんてごめんだわ」
クリスはウンディーネが行方不明になったときの記憶を思い出して苦い顔をする。
「そうして魔物が出てくるなんてことになったら・・・」
「魔物ねえ・・・石のことがあるから、魔術学校でのことはあいつが関わってる可能性が高い。でも石と魔物以外にもあの男自身を警戒したほうがいいよ」
「風の魔法のこと?」
クレナダ村でふたりを吹き飛ばした、とてつもない威力を持つ魔法。
あのときは運よく助かったが、ウンディーネの加護を受けるクリスが治癒の魔法を強化できなければ、怪我を治すことさえできなかったかもしれない。
ヴァンはうなずいた。
「そうそう。まあ結局、被害を防ぐ方法なんて、風の魔法が得意なやつをしらみつぶしにしていくしかないんだけどさ」
「風の魔法が得意な人はどこにでもいるわ・・・気の遠くなる話よね。魔力消費が激しい上に制御も難しい光や闇の魔法が得意な人なら、まだ見つけやすいけれど」
「やるだけやるよ」
そう言ってヴァンは伝票を手に、店主のほうへ歩き出した。
クリスもとっくに食べ終わっていたので、立ち上がってついて行く。
毎回どちらかが料金を支払うことが恒例になっていた。
会計を終えて先に店を出ていたヴァンは、路地の奥を指さしながら言った。
「じゃ、俺はこっちに用があるから」
「そう、気を付けて。また夜にギルドで待っているわ」
「ああ、またね」
ヴァンの姿が見えなくなるまで見送ったクリスも、身をひるがえして帰途についた。
彼は巨躯を丸めて眠りの境をさまよっていた。
魔女の夢だ。
魔女は彼を生み出したとき、彼の同胞のように能力を付与しながら言った。
「この大地は私のかわいい子たちの国。そしてこの場所はあの子たちの大切な家。だから契約ではなく、お願いをするわ。親愛を持ってあの子たちを守ってあげて」
彼は魔女の言葉にうなずいた。
このときはまだ生まれたばかりで、言葉を理解することはできても話すことはできない状態だった。
「そう、いい子ねぇ。ありがとう。あなたの名前はファフニールにしようと思っていたけど、優しい子みたいだから何者にも負けないように英雄の名前をあげる。ジークフリートと名乗りなさい」
彼は歓喜した。
創造主であり、生みの親であり、主である魔女に名をもらったことが嬉しかった。
たとえ千歳にこの大地に縛られることになっても。
たとえ幾千、幾万の災厄に見舞われても。
それらすべてを乗り越えて、彼女の子どもたちを守ろうと決めた。
彼はまどろみの中で再度心に誓った。
「ジーク・・・また眠っているのか?」
黒髪に緑の瞳の壮年の男が、ジークフリートのいる部屋に入ってきた。
塔の最上部にある、この切り取られた空間までずいぶんと階段を昇らなければならない。
男は少し苦しそうに息を切らしていた。
ジークフリートは目を開けることなくぼんやりと声を聞いていた。
無理をしてまで会いに来なくていい。
魔女の珠玉の子。
その子孫の男。
「また来るぞ、ジーク」
それなのに黒髪の男はそう言って去って行った。
きっと約束どおりまた訪ねてくるのだろう。
あの男は幼いころから約束をたがえたことはなかった。
ジークフリートはどの魔女の子らも慈しんだ。
男の誠実さに親愛を捧げ、快いと思った。
だからこそ来てはいけない。
千の禍因、万の災厄から必ず守ってみせよう。
それが魔女とジークフリートの願い。
彼はまたまどろみに沈んでいった。
腕に災いの種を封じて。