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右にある心臓  作者: 二条理|アコンプリス


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第五章〈現在〉固定の再生

 深夜二時過ぎ。九条は自室の暗さの中で目を覚ました。目を覚ました、というより、身体が起こした。胸の奥が薄く鳴る。鳴りは痛みではない。痛みより先に来る、詰まりの気配だ。

 季節の変わり目。気圧が下がっている。換気扇の音が、いつもより重い。こういう夜があることは九条も知っている。

 知っているから、焦りは少ない。焦りが少ないぶん、動作が速い。枕元の吸入器を探し、指がケースの角に触れた瞬間、喉の奥が乾く。乾くのは咳のせいではない。空気が薄い。薄い空気が、肺の手前で止まる。

 九条はベッドから起き上がり、床に足をつけた。足の裏が冷たい。冷たさが現実に引き戻す。現実に引き戻されると、身体は手順を思い出す。

 呼吸を数える。数えるのは落ち着くためではない。数えることで、いま何をしているかを確定させる。確定させないと、身体は勝手に恐怖を増やす。恐怖は、肺をより狭くする。

「吸って……吐く」

 声に出したのは、自分のためだった。声は小さい。小さい声ほど部屋に残る。残った声が、次の息のための道筋になる。

 吸い切れない。吐き切れない。吸い切れないぶん、吐く音が細くなる。細い音は、心拍と似たリズムを作る。似たリズムは、余計に意識を奪う。

 不規則に咳が連なる。吸入器を使う。薬剤の匂いが一瞬、鼻の奥へ刺さる。刺さる匂いは、効き始めた合図でもあるし、過去の記憶の合図でもある。

 九条は匂いを意識しないようにした。意識すると、記憶が増える。増えた記憶は、いまの呼吸の邪魔になる。邪魔が増えると、身体は「もう一回」を急かす。

 少しだけ胸が緩む。緩んだところで安心しない。安心すると油断が来る。油断が来ると、次の波が強くなることがある。

 九条は肩の力を抜く代わりに、肩の位置を固定した。動かない肩は、息の道を狭めない。狭めないことが、今夜の最優先だ。

 水を飲むためにキッチンへ向かった。スウェットのまま廊下に出ると、外の冷気が壁を通して伝わってくる。マンションの廊下は生活の音を吸う場所だ。吸った音は、誰かの耳に残らない。残らないから、ここでは弱さを見せてもいいはずだった。

 そのはずだった。

 九条はキッチンでコップに水を注ぎ、半分だけ飲んだ。飲み切らない。飲み切ると咳が出ることがある。咳は喉を刺激し、刺激は波を呼ぶ。

 水が喉を通るあいだ、呼吸は一瞬だけ途切れる。途切れた呼吸の隙間に、耳が拾う音がある。冷蔵庫の低い駆動音。蛇口の水の残響。自分の鼓動。そして――もう一つ。

 廊下の向こうで、小さな金属が擦れる音がした。

 鍵かもしれない。エレベーターのボタンかもしれない。マンションでは珍しくない。珍しくないのに、九条の指が吸入器のケースを握ったまま止まった。

 止まった理由は、音の質だ。生活の音ではない。生活の音は迷いがある。鍵を探す指、荷物を持ち替えるための沈黙、ため息。

 いま聞こえたのは、迷いがない。迷いがない音は「待っている」音に近い。待っている音は、目的が決まっている音だ。

 咳が一段深くなる。九条はもう一度、吸入器を手に取った。必要最小限の動作で使う。薬剤の匂いが薄くなる。薄くなるのは慣れではない。鼻が機能を取り戻している証拠だ。

 証拠、という語が頭をよぎり、すぐに捨てた。いまは身体のことだけでいい。外へ出す言葉を増やしてはいけない。

 コップを置き、壁にもたれた。もたれると背中に壁の冷たさが伝わる。冷たさが「まだ大丈夫」を作る。大丈夫は身体のための言葉だ。外に向けて言う言葉ではない。

 そのとき、また音がした。今度は金属ではない。短い無音の区切りが、一定の間隔で挟まる。区切りが規則的すぎる。人の呼吸でも、衣擦れでもない。

 九条は、その規則性を嫌った。

 規則的な区切りは、画面を触る指の動きに似ている。暗がりで小さな光が点いて、消える。点いて、消える。

 撮影の合図に似たリズム。

 呼吸が一瞬、浅くなる。浅くなるのを、九条は自分で止めた。浅くなると「苦しい音」が強くなる。強い音は相手の成果になる。成果になった瞬間、相手は「録れた」と確信する。確信は次の行動を大胆にする。大胆になった相手は、距離を詰める。

 九条は廊下へ出た。出たのは確認するためではない。出ないでいると想像が増える。増えた想像は、呼吸をまた薄くする。

 薄い呼吸は、今夜の敵だ。

 玄関を開けると、廊下の冷気が顔に当たった。冷たさが、さっきより鋭い。鋭さは外の空気のせいだけではない。

 非常階段へ向かう扉の前に、人影があった。住人かもしれない。だが人影の立ち方が、通り過ぎる人の立ち方ではない。背中が壁に寄り、足が開かず、重心が動かない。待っている重心。

 人影の手元に、四角い暗がりがある。スマートフォン。

 画面は下に向いている。下に向いているのに、光が漏れる。漏れた光が、手首の角度を照らす。角度が固定されている。固定は、撮り方の角度だ。

 九条は足を止めた。止めた瞬間、相手も止める。止める動作が揃うと、空気が確定する。確定した空気の中で、九条は理解した。

 見られている。見られているのは顔ではない。息だ。呼吸の音だ。吸入器の作動音だ。水を飲む音だ。

 九条は何も言わずに戻ろうとした。言えばやり取りが成立する。成立したやり取りは相手の「正しさ」になる。正しさになった瞬間、撮影は「記録」に変わる。記録は、正義の顔をして流通する。

 背を向けたとき、シャッターの小さな音がした。

 音は小さい。小さいのに胸の奥に残る。残る残響は、薬剤の匂いより長い。

 九条は、振り返らなかった。振り返ると「反応」が撮れる。反応は、もっとも高値で売れる素材だ。

 彼はただ、鍵を回し、部屋に戻り、扉を閉めた。閉めた瞬間、ようやく息を吐いた。吐いた息が震える。震えは発作の余韻ではない。

 生活の場所が、舞台に変わった震えだ。

「【呪いの医者】なぜ九条雅紀は“不幸”を呼ぶのか」

「窒息しかける九条雅紀(※閲覧注意)」

「【九条雅紀】不可解な一致を検証するスレ【part57】」

「許せねぇ」

「何が」

 二階堂は真壁の目を見て、言葉を選び直した。

「意図がある、ってことだよ」

 真壁は歯を噛んだ。意図があるなら、相手は人間だ。人間なら、止められる。止められると考えたくなる。だが二階堂は、止めるという行為が燃料になる状況を知っている。

「消せないのか」

 二階堂は首を横に振らない。首を横に振ると「無理です」が確定してしまう。確定した無力は、次の失策を呼ぶ。

「止血の仕方が難しいんだよ。いま消そうと動くと、消した理由が記事になる。消されたが正義になる。正義は拡散するぞ」

「じゃあ見てろって?」

「この場合、静観も選択だ。いまは、余計な言葉を外に出さない」

 真壁は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、妙に大きい。大きい音は決意に見える。決意は、相手にとって格好の材料だ。

 それでも真壁は止まらない。止まれば、過去と同じになる。過去の自分の遅れが、また起きる。

「行く」

 二階堂は追わない。追うと一緒に映る。映ると「関係者」が増える。増えた関係者が、火を大きくする。

 二階堂は机の上の資料を一枚だけ真壁に滑らせた。九条のマンションの近くで目撃されている車の情報。ナンバーは曖昧。写真も曖昧。曖昧なのに、嫌な匂いだけは濃い。

 真壁は九条のマンションへ向かった。呼ばれていない訪問は、相手の生活を壊す。だが生活はもう壊され始めている。壊したのは真壁ではない。壊したのは言葉だ。

 エレベータの中で、真壁は自分に言い聞かせる。これは捜査の都合だ。確認だ。安全確認だ。

 言い聞かせないと、ただの心配になる。心配は弱さに見える。弱さに見えると、九条がさらに守ろうとしてしまう。九条が守ろうとすると、息が削れる。

 九条の部屋の前に立つ。インターホンを押す指が一瞬だけ止まった。ここは現場ではない。だが現場はもうここまで来ている。

 真壁が押すと、すぐに応答があった。

「……はい」

 声は落ち着いている。落ち着いている声ほど、無理が混じる。

「真壁だ。開けろ」

 鍵が外れる音がした。開ける音が遅れない。遅れないのは、九条が迷っていないからではない。迷う時間を外に見せないだけだ。

 扉が開く。九条は寝不足の顔ではない。洗面を済ませ、髪も整えている。整えている、という言葉が頭に浮かびかけて、真壁は飲み込んだ。禁句にするのではなく、いまは意味を与えないためだ。

 九条は微かに息を吸い直し、言った。

「来るなって言われる前に来た、ですか」

 真壁は一瞬だけ口角を動かした。笑いではない。歯を見せない癖だ。

「来るなって言われたら来ないと思うか」

 九条は返せない。返せないまま、視線を真壁の肩の奥へ逃がした。逃がした先に玄関の外の気配がある。気配は見えないのに、確実にいる。

 真壁は靴を脱ぎながら、部屋の空気の匂いを嗅いだ。薬剤の匂いは残っていない。残っていないことが、逆に怖い。痕跡が消えると、外の物語だけが残る。

「……大丈夫か」

 真壁が言うと、九条は頷く。頷きが早い。早い頷きは、話を終わらせる頷きだ。

「発作は、よくあるやつです」

「それを、誰も聞いてない」

 真壁の言葉は、九条に向けたものではない。九条は分かっている。分かっているのに言わされるのが怖い。

 九条はキッチンへ向かい、コップに水を注いだ。注ぐ水の音が、やけに澄んでいる。澄んだ音は、いまの部屋が静かだという証拠だ。静かであることが危ない。静かだと、外の音が聞こえる。外の音が聞こえると、呼吸が意識に上がる。

「……撮られてました」

 九条が言った。

 言った直後、少しだけ眉が動く。悔しさではない。恥の動きだ。恥は、弱い者が先に持たされる。

「誰だ」

「分かりません。顔は見てない。見ないようにした」

 見ないようにした、という言い方が刺さる。見ないようにするのは自衛だ。だが自衛は、証明を放棄することでもある。放棄した瞬間、相手の物語が勝つ。

 真壁は部屋の窓のカーテンを見た。閉まっている。閉めたから安全、ではない。閉める動作自体が「何かある」に見える時代だ。

 真壁は九条に言いかけた。「しばらく俺のところに来い」。言いかけて飲み込んだ。言えば、九条の生活をさらに壊す。壊したと見える形は、外の文脈に餌をやる。

 九条が先に言った。

「そろそろ仕事に行きます」

「行くなとは言わない」

「言わないでください。言われたら、理由ができます」

 理由ができる。

 九条の言い方は冷静だ。冷静な言葉が、いまの異常を証明してしまう。

 真壁は拳を握り、ほどいた。握った拳の中で、怒りが爪を立てる。怒りは燃料だ。燃料を外に出せば、火は大きくなる。

 それでも、真壁はここに立つ。立つことが、いま唯一できる行為だった。

 翌日。記事が出た。

 見出しは軽い。軽い見出しは、重い内容を運ぶ。

 「少年時代から続く“代償”」

 「看護師が駆けつけた夜」

 「隣家の少年が見たもの」

 「逆の心臓を巡る不幸の系譜」

 真壁は画面を閉じた。閉じても、文字列は残る。

 少年時代。看護師。駆けつけた夜。隣家。

 全部、事実だ。事実だから厄介だ。事実は、切れば刃物になる。刃物になる事実は、人の喉に当てられる。

 真壁は自分の母の顔を思い出した。あの夜の手つき。息を吐かせる声。

 その現実が、記事の中では「始まり」にされている。始まりにされた瞬間、母の行為は優しさではなく、物語の装置になる。

 真壁の喉の奥に苦さが残った。苦さは、言葉にできない。言葉にできないまま放置すると、身体のどこかに沈む。沈んだものは、いずれ別の形で噴き出す。

 二階堂からメッセージが来た。短い文だ。

「いまは動かない方がいい。動くなら矛先を変える準備をしてから」

 矛先。

 真壁はその語に、嫌な既視感を覚えた。中学の教室で、笑いが向いた矛先。自分が止められなかった矛先。

 あのときも、場を守ることを優先した。場が崩れるともっと傷つくと思った。だが場は、結局、弱い者を中心に据えて保たれた。

 守ったつもりで、差し出した。

 真壁は決める。

 刑事としてではなく、個人として九条のそばに立つ。

 その立ち方が不器用でもいい。言葉を選びすぎない。選びすぎると「それっぽさ」になる。

 真壁は自分の弱さを見せない距離を「大人」と呼んでいた。だがいま、その距離は九条を一人にするための距離になっている。

 そのことを認めた瞬間、真壁の中の何かが、静かに折れた。折れたのは正義ではない。自分を守るための都合だ。

 真壁はスマホをスクロールする。サムネイルが無言で殴り掛かってくる。画面の中で、男が笑っている。笑いながら言う。

「今日の動画は特集です。呪いの少年」

 画面に出たのは、古い写真だった。

 中学生の九条。

 その写真が、どこから出たのかは説明されない。説明されないから強い。強いから、次の言葉が刺さる。

「昔から体に異変が……」

「周囲に不幸が……」

 真壁はリモコンを握り、消す。

 消した画面の黒が、自分のスマートフォンの黒と同じ色に見えた。

 同じ色の黒は、同じ匂いを呼ぶ。

 匂いが呼ぶのは、過去だ。過去が呼ばれると、また誰かが編集を始める。

 真壁は息を吐いた。

 吐いた息の先に、九条の呼吸音が重なる気がした。

 重なる気がしただけで、胸の奥が痛む。

 痛みはまだ発作ではない。だが痛みは、次に起きることを知っている。

 真壁はスマートフォンを伏せたあとも、しばらく立ったままだった。暗くなった画面に自分の顔が薄く映る。映った顔は、刑事の顔ではない。近所の誰かの生活を守るふりをして、自分の都合を守ってきた人間の顔だ。

 指先がまだスマホカバーを握っている。握ったままだと、何かを操作できる気がする。操作できるのは電源だけだ。電源を切っても、外の言葉は止まらない。止まらないものに対して、人はまず「自分ができること」を探す。できることが小さいほど、行為は乱暴になる。真壁は乱暴になりたくなかった。乱暴になれば、その乱暴がまた切り取られ、次の見出しになる。

 スマートフォンが震えた。二階堂からではない。未知の番号。真壁は出ない。未知の番号は、今の自分にとって罠だ。出た瞬間に「コメント」が成立する。成立したコメントは、相手が好きな形に加工できる。

 震えが止み、代わりに通知が増える。おすすめ記事。おすすめ動画。おすすめの言葉。

 真壁は画面を見ない。見ないかわりに、ジャケットを掴んで玄関へ向かった。靴を履く動作が速い。速い動作は焦りに見える。焦りに見えるのに、止められない。止めれば、また遅れる。

 九条のマンションの前に着くまでの道が、妙に明るかった。街灯はいつも通りだ。明るさの正体は、目が暗いものに慣れたせいかもしれない。あるいは自分が「見られる側」になった気がしているからか。

 マンションのエントランスを通ると、管理人室の前の掲示板に新しい注意書きが貼られていた。防犯カメラ作動中。無断撮影禁止。ありがちな文言だ。ありがちな文言が、今夜は遅い。遅い文言は、すでに何かが起きた証拠でもある。

 エレベータを待っている間、廊下の奥から誰かの笑い声が聞こえた。若い声。軽い声。軽い声は責任を背負わない。背負わない声ほど残酷だ。

 真壁は振り返らない。振り返れば「当てに行った」になる。当てに行った瞬間、相手は逃げる。逃げた相手は、逃げたこと自体を正当化するために投稿する。

 九条の部屋の前に立つ。インターホンを押す。前より長く押さない。長く押すと緊急に見える。緊急に見えると九条が焦る。焦ると呼吸が乱れる。

 応答はすぐ来た。

「……はい」

「開けろ。短く話す」

 鍵が外れる。扉が開く。九条は昼間と同じ顔をしている。作った顔だ。作った顔は崩れにくい。そのぶん、崩れたときが怖い。

「ネット、見たか。動画、記事、SNS」

 真壁が言うと、九条は一瞬だけ瞬きをした。見た、と言うと確定する。見てない、と言うと嘘になる。嘘は相手に余白を与える。

「目に触れたところだけ」

 九条はそう答えた。映像を見たとは言わない。言わないことで自分を守る。守り方が上手い。上手い守り方は、孤独を深める。

 真壁は玄関に立ったまま、靴を脱がない。上がり込むと生活を壊す。生活を壊すのは外の言葉の仕事だ。真壁がやるべきではない。

 だが玄関からでも、部屋の空気は分かる。静かすぎる。静かすぎる部屋は、外の気配に敏感になる。外の気配に敏感になると、息が意識に上がる。

「今日は、眠れるか」

 真壁が問うと、九条は少しだけ口角を動かした。笑いではない。受け流しの形だ。

「寝ます。明日も検案があります」

「検案の前に、廊下に出るな」

 真壁が言った瞬間、自分で自分の言葉に苛立った。命令は、九条を子どもにする。子どもにされると、九条は反論しない。反論しないと、真壁はまた遅れる。

 九条は小さく頷いた。その頷きが、真壁の胸を刺す。刺したものは抜けない。抜けないから、次の言葉が乱暴になる。

「……撮ってるやつがいる。お前のことを、また」

「知ってます」

 九条の「知ってます」は、諦めではない。処理だ。処理は強い。強い処理は、周囲に「効かない」を与える。効かないと思った外は、もっと強い言葉を投げる。

 真壁は拳を握り、ほどき、言った。

「俺がやる」

「何を」

「お前の生活圏に入ってくるやつを、追い払う」

 追い払う、と言った瞬間、九条の眉が僅かに動いた。追い払うは、暴力に近い。暴力は、外の正義を喜ばせる。

 九条は低く言った。

「真壁。あなたが動くと、あなたの肩書が燃えます」

「燃えていい」

 真壁は即答した。即答の危険を自分で分かっている。分かっているのに言う。言わないと、また遅れる。

「燃えたら、次は“刑事が関係者を庇う”です」

 九条の指摘は正しい。正しい指摘は、真壁の苛立ちをさらに増やす。苛立ちは九条に向けない。向けると一番痛い場所を傷つける。

「なら、刑事じゃないところでやる」

 真壁は靴を履いたまま踵を返した。

 九条が小さく息を吸う音がした。吸い方が、少しだけ浅い。浅い息は、恐怖の形をしている。

 真壁は扉の外で立ち止まり、背中越しに言った。

「玄関は、絶対に開けるな。知らない番号は出るな。音がしたら、すぐ二階堂に連絡しろ。俺じゃなくていい」

 九条は返事をしない。返事をしないのは了承ではない。返事をしないのは、余計な言葉を増やさないためだ。

 真壁はその沈黙を飲み込み、エレベータへ向かった。

 深夜のマンションの周りは、昼より気配が濃い。

 濃い気配は見えない。見えないが、いる。

 真壁は建物の外周を歩き、死角になりやすい場所を確認した。植え込みの影。駐輪場の端。ゴミ置き場の壁。

 刑事の視線で見れば「ありがちな待ち伏せ」だ。だが今の相手は、拳銃も刃物も持たない。持っているのはスマートフォンと文脈だ。文脈は武器として最悪だ。刺したあと、血が見えない。血が見えないから、止めにくい。

 真壁が角を曲がると、路肩に停まっている車が見えた。エンジンは切れている。窓が少しだけ開いている。少しだけ開いた窓は、息を殺すための窓だ。

 真壁は近づきながら、先に“自分が撮られている前提”を置いた。相手が武器を持っていない時代の待ち伏せは、殴られるより先に切り抜かれる。声を荒げた瞬間に「脅迫」になる。腕を掴んだ瞬間に「暴行」になる。職務質問の正当性を口にした瞬間に、相手は“被害者の物語”を完成させる。

 だから動きは一定。声は低い。語尾は短い。感情を出さないのは優しさではなく、燃料を渡さないためだ。

 真壁は歩幅を変えずに近づいた。近づくことで相手を驚かせない。驚かせると、相手は「被害者」になる。被害者になると、投稿が正義になる。 車内の男は、こちらを見た。目が泳ぐ。泳ぎ方が、昼間の住宅地の男と同じだ。

 真壁は窓を叩かない。叩くと威圧になる。威圧は撮影されると暴力になる。

「ここ、住民以外が長居する場所じゃない」

 真壁は低い声で言った。男は口を開きかけて閉じる。閉じるのは言い訳を探しているからだ。

「何してる」

「……待ってるだけっす」

「誰を」

 男は答えない。答えないのは、答えると証拠になるからだ。証拠になると、真壁が通報できる。通報されると、男は不利になる。不利になると、男は“正義”を持ち出す。

 真壁は男の手元を見た。スマートフォン。録画アプリの画面。マイクのレベルが動いている。

 真壁の内臓が熱くなる。熱くなったものを表に出すと負ける。負けると、相手が勝ち方を変える。

「録ってるな」

「いや、違うっす」

 否定が早い。早い否定は嘘に見える。嘘に見えるのに、男は止まらない。止まらないのは、自分が悪いと認めたくないからだ。

 真壁は一歩だけ近づき、男のスマートフォンの画面が自分の顔を映していることを確認した。カメラが回っている。

 回っていると分かった瞬間、真壁は余計なことを言わないように口を閉じた。口を閉じると、沈黙が生まれる。沈黙は威圧にも見えるし、冷静にも見える。

 真壁は冷静に見える方を選ぶ。冷静に見えると、相手の投稿は伸びにくい。

「切れ」

 真壁はそれだけ言った。命令ではない。確認だ。

 男は目を逸らし、スマートフォンの画面を指でなぞった。録画停止。

 真壁は男の動きを見て、初めて息を吐いた。吐いた息が白くなる。寒さのせいだ。怒りのせいではない。

「帰れ。明日もいたら、管理会社と警察に回す」

 男は舌打ちをしそうになり、飲み込んだ。飲み込むのは、真壁が本気だと分かったからだ。

 車が動き出す。動き出す音が、夜の中でやけに大きい。大きい音は、別の住民の目を引く。目が引かれると噂が生まれる。噂はまた文脈になる。

 真壁はその場を離れ、マンションの陰へ移動した。

 自分がここにいること自体が危ない。危ないが、いなくなるとまた来る。

 真壁は「警戒」という言葉を頭の中で使わないようにした。使うと、自分の行為に正当性が生まれる。正当性は、自分を盲目にする。盲目になるとミスをする。ミスは、九条の生活を壊す。

 午前四時前、再び足音がした。今度は軽い。二人。笑い声。

 真壁は影の中から見た。若い男女。住民かもしれない。住民であっても、笑い声が九条の呼吸を材料にしているなら同じだ。

 だが会話は別だった。

「ねえ、あの医者のやつ、見た?」

「動画? あれヤバいよな」

「うちの上の階にいるんだって」

「え、マジ。触れたら右側が壊れるとか言うやつ?」

 言葉が、生活圏の中に入ってきている。

 真壁は胃の奥が冷えるのを感じた。冷えるのは夜気のせいではない。中学の教室の笑いと同じ匂いがするからだ。

 冗談の形で、共有が始まっている。共有が始まった瞬間、九条の住まいは「場所」ではなく「舞台」になる。

 真壁は影から出ない。出れば、彼らは「怒られた」を撮る。撮ると「怖い刑事」が完成する。完成した怖い刑事は、九条を守るどころか燃料になる。

 真壁は出ないかわりに、二階堂へ短いメッセージを送った。

 「生活圏に入ってきた。冗談が回り始めてる。手を打つなら、今夜のうちだ」

 送信した瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。

 “手を打つ”という言い方。

 中学のとき、真壁は手を打たなかった。打たなかったことを、ずっと「大人の判断」だと思ってきた。思ってきたが、それは単に怖かっただけかもしれない。怖かったことを認めるのは、今でも怖い。

 怖さは、年を取っても消えない。形を変えるだけだ。

 翌朝、九条から短いメッセージが来た。

「大丈夫です」

 それだけ。

 大丈夫という言葉は、便利だ。便利だから疑われる。疑われた大丈夫は、外の人間にとって「隠している」に変わる。

 真壁は返信しない。返信すると文が残る。残った文が、いつか切り取られる。切り取られた文は、真壁の意図と違う形で燃える。

 午前のワイドショー番組がまた、同じ見出しを使った。昨日と似た言葉。昨日と同じ匂い。

 「呪いの少年」

 「代償」

 「周囲の不幸」

 言葉が繰り返されると、現実は追いつかされる。追いつかされた現実は壊れる。

 壊れたとき、人は言う。「ほら」と。

 その「ほら」を言わせないために、真壁は過去の入口に手を伸ばす必要があると感じた。入口は、あの教室だ。担任の声が消えた瞬間だ。笑いが共有された瞬間だ。

 テレビの画面に、また古い写真が出た。

 中学生の九条。

 写真の下に、学校名が一瞬だけ映る。

 真壁の指が止まる。

 止まった指が、記憶の扉を押す。

 あの日の教室の匂い。チョークの粉。汗。窓から入る風。

 担任の指先が教卓を叩いた音。

 九条の「……すみません」の声。

 そして数日後、声だけが消えた瞬間。

 真壁は理解する。いま起きていることは新しい怪異ではない。古い型の再生だ。

 型が再生されるなら、次に起きることも型通りになる。

 型通りになる前に、型を壊さなければならない。

 真壁は画面を消さなかった。消すと逃げになる。逃げると、また遅れる。

 代わりに、目を細めて画面の隅のテロップを読んだ。

 そこには、番組が引用した「当時の書き込み」が表示されていた。出所は曖昧。曖昧な出所は強い。

 曖昧な文字列の中に、真壁は自分の名前を見つけた。

 「幼馴染の刑事」

 当時は刑事ではない。中学生だ。だが物語は未来を先取りして補強する。補強された未来は、本人の選択肢を削る。

 真壁は息を吐き、スマートフォンの連絡先から一つの番号を探した。母ではない。父でもない。二階堂でもない。

 中学の同級生の誰か。遠藤。

 過去の漏れ方を知る人間。

 過去の漏れ方を辿らない限り、今の漏れ方は止まらない。

 通話ボタンを押す直前、真壁は一瞬だけ躊躇った。

 躊躇いは、また遅れになる。

 遅れを選べば、九条はまた一人で呼吸を数える。

 数える呼吸が、誰かの動画になる。

 真壁は押した。

 発信音が鳴る。鳴る音が、遠い教室のチャイムと重なる。

 過去へ戻る扉が、音もなく開く。

 ――教室の空気が、わずかにささくれ始めた日のことを、真壁はまだ「最初の不幸」と呼べないでいた。呼べないまま、ずっと抱えていた。抱えているものは、いつか必ず再生される。


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