第十六章〈現在〉右にある心臓
朝は、音から始まらなかった。九条雅紀は目を開けて、まず自分の呼吸の重さを確かめた。寝起きの胸はいつも少し硬い。季節の変わり目の気圧もある。だがそれは、医療の範囲に収まる硬さだった。息を吸って、吐く。部屋の空気が少しだけ冷たくて、喉の奥が反射で狭くなる。そこで止めず、舌の位置を変えるように気道を確保する。身体の扱いは、説明ではない。習慣だ。
枕元のスマホは光っていなかった。通知がない、というより、押し寄せてくる気配がない。あの数日間、液晶は常に熱を持っていた。画面の中で何かが燃え続け、燃えながら増殖し、増殖しながら自分の生活を侵食してくる。九条は眠る前に、何度も電源を落とした。落としても、物語は止まらなかった。止まらないものがあることを、九条は知っている。死も、噂も、痛みも。だから今朝の静けさは、勝利ではない。勝利のような顔をした通過点だ。
ベッドから起き上がると、床の冷たさが足裏に来た。冷たい、というだけの情報が身体を占める。ここ数日、冷たさでさえ意味に変わっていた。エアコンの風が弱いのは誰かの妨害ではないか、窓の外の車が長く停まっているのは監視ではないか、玄関の前の微細な音は誰かが鍵穴を覗いた音ではないか。疑う癖は、疑いを必要とする環境が作る。環境が変われば、癖は薄れる。薄れるまでの間に、心が擦り切れる。その擦り切れた部分を、九条は今朝も指先で触らないようにした。
洗面台の鏡に映る顔は、少しだけ痩せた。痩せた理由を、九条は言葉にしない。痩せる理由は幾つもある。睡眠の不足、食欲の落ち込み、夜中の呼吸の乱れ、脳が勝手に走り続けるせいで身体が追いつかないこと。理由を一つにまとめると、それは物語になる。物語になると、誰かの手に渡る。誰かの手に渡ったものは、戻ってこない。
歯を磨き、口をゆすいで、出勤の支度をする。白衣は職場のロッカーにあるから、今日は普段のスーツだ。袖を通すと布が肩に乗り、体温が布に吸われて落ち着く。制服というものが人を安心させるのは、役割が外側に固定されるからだ。役割が外側に移ると、内側は少しだけ自由になる。九条にとって、自由とは好き勝手に振る舞うことではない。好き勝手に振る舞うと、意味が生まれる。自由は、意味の材料にならないまま、ただ呼吸できることだ。
玄関の鍵に手をかける瞬間、九条は一度だけ動作を遅らせた。遅らせたのは迷いではない。確認だ。ドアの向こうに、誰もいない。足音もない。エレベータの昇降音だけが遠くで鳴る。マンションの朝の音は、いつも通りだった。いつも通り、という言葉を使うと安心する。安心した瞬間、人は油断する。油断した人が、最初に傷つく。九条は安心しないまま、鍵を回した。
廊下を歩く。床のタイルの継ぎ目が規則的に続く。規則的なものは、人を歩かせる。歩かせるだけで、特別な意味はない。だが、意味が過剰な世界に放り込まれた後だと、意味のないものが異様に尊い。九条は視線を上げずに、エレベータホールへ向かった。視線を上げれば、視線が返ってくるかもしれない。返ってきた視線は、たとえ悪意がなくても刺さる。刺さった視線は、夜に復元される。復元された視線は、眠りの喉を狭める。
エレベータの扉が開き、他の住人が先に乗り込む。九条は軽く会釈をし、同じ箱に入る。箱の中は香水の匂いと洗剤の匂いが混ざっている。誰かの生活の匂い。匂いは、言葉よりも確かに人を生かす。匂いには論評がつきにくい。つけようとすると、嗅いだ人間の体温が漏れる。体温は、記事の文体と相性が悪い。だから匂いは守りになる。九条は鼻の奥を少しだけ緩め、呼吸を落とした。
ロビーを抜けて外へ出ると、冬の光が道路に薄く広がっていた。空気が乾いている。乾きは咳を誘うが、今日は咳をしない。咳をすると、思い出が立ち上がる。立ち上がった思い出が、過去の動画の音を連れてくる。音は、何度でも切り取られる。九条は自分の喉の反射をなだめるように、舌の位置を変え、歩幅を一定にした。
駅までの道で、いつもなら視界の端に入る掲示板や店の看板が、今日はやけに鮮明だった。人は緊張すると視野が狭くなる。視野が狭いと、世界は敵に見える。敵に見える世界の中で、物語は育つ。今日は視野が少し戻っている。敵が減ったのではない。敵として扱う必要が薄れただけだ。九条はその差を、言葉にできる自分を少しだけ誇りに思い、すぐに打ち消した。誇りは危険だ。誇りは「勝った」という語に似ている。勝った瞬間、人は次の敗北を用意する。
医務院に着き、関係者通路を通る。通路はいつも同じ幅で人を運ぶ。九条は、通路の幅が変わらないことに助けられた。変わらないものがあると、変わってしまった自分の輪郭が戻る気がする。受付の職員に挨拶をすると、相手は普通に返してくる。普通の返事は、残酷なほどありがたい。特別扱いは、優しさの形をしているのに痛い。痛いものは長く残る。長く残った痛みは、説明の材料になる。
廊下を進み、検案室の前で白衣に着替える。袖を通した瞬間、身体が仕事のモードに切り替わる。切り替えは逃避ではない。九条にとって仕事は、現実だ。遺体は物語を必要としない。遺体は嘘をつかない、と言いたいわけではない。遺体は、嘘をつくための演出を必要としない。そこにあるものが、そこにあるだけで重い。重さは、言葉に頼らなくても届く。言葉に頼らない重さは、九条を救う。
台の上に横たわる遺体の胸部を開き、臓器の位置を確認する。心臓は左。左にある心臓が、既に止まっている。止まっていることは悲劇だが、説明ではない。死は死だ。死の意味を探すのは生者の仕事であり、生者の癖だ。九条の仕事は、意味を探すことではない。事実を記録することだ。記録は冷たい。だが冷たい記録は、誰かの勝手な熱から遺体を守る。守るべきものがある世界は、まだまともだと九条は思う。
検案を終え、所見をまとめる。文字を書くと、頭が静かになる。静かになるのは、文字が事実を要求するからだ。事実を要求する場では、物語は少し居心地が悪い。居心地が悪い物語は、勝手に出ていく。九条はその静けさに、ほんのわずかだけ身を預けた。
休憩の時間、職員が差し出す紙コップのコーヒーを受け取る。手が震えていないかを確認して、震えていないことに気づく。震えは身体の反応で、身体は正直だ。正直さが、時に人を裏切る。発作のようなものが起きれば、また物語が口を開ける。今日は口を開けない。口を開けないという事実に、九条は感謝しない。感謝すると、失われたときに絶望が増える。増えた絶望は、また誰かに拾われる。
廊下で真壁彰の名前が頭をよぎる。考えないようにしているのに、よぎる。よぎるのは、真壁が「考えないという選択」をするだろうと九条が知っているからだ。真壁は、尊重の形として距離を選ぶ人間だ。九条はその距離に救われてきた。だが距離は、時に刺さる。刺さる距離を、真壁は越えた。越えたことが、九条にはまだ重い。守られると役が固まる。役が固まると逃げ場が減る。その理屈は変わらない。なのに、昨夜の真壁の背中を思い出すと、九条の胸の奥が少しだけ温かくなる。温かさは危険だ。温かさは人を油断させる。油断は、次の物語の入口になる。
午後、検案予定の追加が入り、九条はまた手袋をはめる。忙しさは、救いにもなる。救いは、いつも毒と一緒に来る。忙しさに救われることを、九条は認めたくない。だが認めないことで、心が折れるほうが怖い。怖いと思う自分を、九条は責めない。責めると、責める理由が生まれる。理由は、誰かが面白がる。
夕方、医務院を出る。外は暗く、街の灯りが増えている。灯りが増えると影が濃くなる。濃い影は、何かを隠しているように見える。隠しているように見えるものは、人の想像を刺激する。想像は、物語の入口だ。九条は影を見ないようにした。見ないことが、逃げではない。見ないことは、生活の技術だ。
残るのは、生活だけ。
そう思えた夜ほど、生活は薄い。薄いものは破れやすい。破れたとき、音がしない。九条雅紀はそのことを、誰より知っているはずだった。誰より知っているから、気づかないふりも上手くなっていた。
医務院の関係者通路を出て、外気に触れた瞬間、肩が軽くなった気がした。事件の名前も、炎上の見出しも、今日は追ってこない。追ってこない、と思うこと自体がすでに癖になっているのが嫌だった。九条は自販機の前で立ち止まり、硬貨を入れた。水。味も温度もどうでもいい。喉が乾いていると気づくのが遅いときは、身体が先に何かを隠している。
ペットボトルが落ちる音は、やけに響いた。周囲の静けさのせいではない。静けさに耳が馴染んでしまったせいだ。九条はボトルを握り、指先の冷たさを確かめた。冷たい。いつもの冷たさだ。そう言い切るために触れた。
ポケットの中の吸入器に指が当たる。残量も確認した。予備もある。薬は切らしていない。切らしていない、という事実を抱えていれば、何が起きても自分のせいではないと言い切れる気がする。そういう言い切り方が身についてしまったのは、医者だからではない。生き方として身についた。
帰路は最短ではない道を選んだ。人が多いと視線が増える。視線が増えると、言葉が増える。言葉が増えると、身体が説明の材料になる。材料になった瞬間から、切り分けられないものが混ざる。九条は遠回りをした。遠回りは、生活のふりができる。急がない歩幅で歩くことが、最大の警戒になる夜がある。
コンビニの前を通る。ガラス越しに、買い物かごを抱えた大学生が見える。温かいおでんの匂いが漏れてくる。匂いは説明をしない。匂いは確定を求めない。だから一瞬だけ、楽だった。
その一瞬の終わりに、胸の奥が薄く鳴った。
鐘の音のように大きくない。割れたガラスのように鋭くもない。ただ、呼気の終わりが引っかかる。息が外へ出きらない。肺がではなく、胸の中央が出口を狭くする。九条は歩幅を変えずに、舌の裏で唾液を集めた。喉を湿らせれば、咳は抑えられる。咳が出ると見られる。見られると声をかけられる。声をかけられると返事をしなければならない。
返事は、材料になる。
九条はコンビニの灯りから少し外れ、街路樹の影が落ちる場所へ移った。影は目立たない。目立たない場所は安全だ。安全な場所で膝をつくと、負けた気がする。負けると、次はもっと早く負ける。そういう連鎖も知っている。
呼気が短くなる。息を吐くときに、音が混ざる。自分の胸から出る音が、自分の耳に刺さる。喘鳴。そう呼べば分かりやすい。でも、分かりやすい言葉は今いらない。分かりやすい言葉が出た途端に、外側の分かりやすさに吸い込まれる。
吸入器に手を伸ばす。指先が少し遅れる。冷えているせいだ。落ち着け、と自分に言うのは逆効果だと分かっている。だから言わない。九条は壁に背を預け、まず息を吐くことだけに集中した。吐けない。吐けないから吸えない。吸えないから焦る。その循環は、頭より身体が先に覚えている。
吸入器を口に当て、一回。噴霧の苦い味が舌に広がった。二回目を使うか迷う。迷うな、と思うと迷いが増える。九条は二回目を使った。冷たい薬が喉の奥へ落ちる感覚が、逆に息を刺激した。咳が出た。咳は小さく抑えようとしても、胸を叩く。叩いた音が外へ漏れる。
「大丈夫ですか」
誰かの声が、距離のないところで聞こえた。
九条は顔を上げない。声の主を見れば、状況が始まる。始まる状況は、終わらせるのが難しい。だが返事をしないと、状況はもっと大きく始まる。九条は喉の奥で空気を擦りながら、短く言った。
「大丈夫、です」
言い切った瞬間、語尾が切れた。切れたのが自分でも分かった。分かったのが一番怖い。怖いと息が浅くなる。浅くなると音が増える。増えた音が、善意を引き寄せる。
「救急車呼びますか」
別の声。今度は男の声だった。九条の耳に、スマホを握り直すような音が入る。指の動き。画面を触る音。数字を押す気配。九条は首を振ろうとして、首が動かないことに気づいた。動かないのではない。動かす余裕がない。呼吸に全部を持っていかれる。
「いや、呼ばないで」
言おうとした言葉が、喉で折れた。折れた音が、相手には拒絶ではなく危険に聞こえる。
「呼びます。念のためです」
念のため。その言葉は優しい。優しいから恐ろしい。優しさは責任を持たない。責任を持たない優しさは、簡単に次の優しさを連れてくる。九条は吸入器を握りしめ、もう一度使うか迷った。迷っている間に、通報は始まってしまう。
「もしもし、駅前のコンビニの……人が倒れて、息が苦しそうで……」
倒れていない。膝をついただけだ。膝をつくことは、倒れる準備ではない。九条はそう言いたかった。だが訂正の言葉を作る余裕がない。訂正は説明を要求する。説明をすると、声が伸びる。声が伸びると息が尽きる。息が尽きると、今度は本当に倒れる。
通報者は続けた。「医者っぽくて。白衣じゃないけど、医務院って書いてあるカードみたいなのを……」
九条は自分の鞄に触れた。医務院の入館カード。外し忘れている。普段なら絶対にしないミスだった。生活に戻ったつもりで、生活の外側の証拠をぶら下げている。
証拠は、言葉を呼ぶ。
「医者なら……何かあるんですか」
通報の向こうのオペレーターが聞く。通報者が周囲に視線を飛ばす気配が伝わる。周囲はもう二人ではない。足音が増え、立ち止まる気配が増える。誰かが「急病人っぽい」と囁く。囁きは拡散しやすい。囁きが増えると、場がひとつの生き物になる。生き物になった場は、餌を欲しがる。餌は情報だ。
「名前、言えますか」
通報者が九条に問うた。九条は唇を動かす。名前を言うのは簡単だ。簡単だから危ない。簡単なものはそのまま伝わる。伝わったものは戻らない。九条は首を振った。振ったつもりだった。相手には伝わらない。
「名前、分かりません。でも、医者です。呼吸が……ゼーゼーしてます」
ゼーゼー。単語にされた音は強い。単語になると、誰でも扱える。誰でも扱える音は、誰でも語れる物語になる。
*
救急車のサイレンは遠くから近づく。近づくと、安心するはずだった。安心は一瞬だけだった。安心の直後に、別の恐怖が立ち上がる。救急は命を救うために来る。救うための手順は、誰にでも同じに見えるように作られている。だが同じに見えるのは、同じだと信じたいからだ。
九条は知っている。現場の確認は救うための確認だ。本人確認、既往歴、薬、アレルギー、直前の行動。確認は人を生かす。だが確認が増えた分だけ、秒が減る夜もある。
救急隊が到着した。三人。動きは速い。バッグのファスナーが開く音、酸素ボンベの金属音、血圧計の面ファスナーの音。音が連鎖すると、場の空気が変わる。見ている側が黙る。黙るはずだった。
「こちらお名前言えますか」
隊員が低い声で尋ねる。九条は喉の奥で空気を集めた。「九条」と言おうとした。「雅紀」とは言わない。名を言う必要はない。姓だけで足りる。足りる、はずだ。
「……く、じょう……」
声が細い。細い声は、聞き返しを呼ぶ。聞き返しは繰り返しを呼ぶ。繰り返しは周囲に聞かせる。周囲に聞かせたものは、周囲のものになる。
「クジョウさん。生年月日分かりますか」
次の確認。九条は首を振った。振ったつもりだった。隊員は脈を取り、呼吸数を数え、視線だけで他の隊員に合図を送る。合図は声より速い。速い合図は救命に必要だ。だが速い合図は、野次馬には「隠し事」に見える。
「医者って言ってましたよね」
さっきの通報者が言った。余計な一言だ。余計な一言は、余計ではない顔をしている。善意の顔をしている。
隊員が短く応じる。「お仕事は後で。今は呼吸を楽にします」。酸素マスクが当てられる。ゴムの匂い。湿った酸素が鼻腔を満たし、ほんの少しだけ視界が戻る。戻った視界の端に、スマホを構えた手が見えた。
やめてくれ、と言う余裕はない。余裕のないとき、人は一番大事なことを口にできない。口にできないものは守れない。守れないものは、誰かが代わりに守ると言い出す。代わりに守るという言葉は、代わりに語るに変わる。
「監察医だって」
誰かが小声で言った。聞き慣れない役職を、どこで知ったのか。たぶんカードの文字を読んだのだろう。読める距離に近づいたのは、善意か好奇心か分からない。分からないものは止められない。
隊員が薬剤を確認する。「吸入薬は使いましたか」
九条はうなずいた。吸入器を見せる。隊員が残量を確認し、短く指示を出す。「サチュレーション低い。ネブライザー用意。搬送」。
搬送。言葉になった瞬間、周囲がざわつく。搬送という言葉は、結果に近い。結果に近い言葉は安心と恐怖を同時に呼ぶ。
そのとき、誰かが言った。
「右に心臓がある人って、救急大変なんでしょ」
何故知っているのか。確認しようとも、誰の声か分からない。分からないのが怖い。声は場の中で増殖する。増殖した声は責任の主語を失う。主語を失った言葉は止めようがない。
隊員の手がほんの一瞬、遅れた。遅れたのは動揺ではない。頭の中で確認すべき項目が増えたのだ。救命のために必要な確認と、場のために求められる説明が同じ扉から入ってくる。扉は一つしかない。扉が混むと、出入りが鈍る。
「誰がそんなこと」
隊員が苛立ちを隠さず言いかけた。言いかけて止めた。止めた理由は分かる。止めると空気が荒れる。空気が荒れると呼吸がさらに荒れる。患者のために黙る。黙るのは正しい。正しい沈黙は、別の人間には「認めた」に聞こえる。
スマホの画面を滑らせる音がした。検索。検索は刃物のように静かだ。見出しだけが読み上げられる。「完全内臓逆位」「心臓が右」「珍しい」「救命が難しい場合」。断片が空気に放たれる。断片は説明を必要としない。断片は誰でも持てる。誰でも持てる断片は武器になる。
「やっぱり危ないんだ」
「触らないほうが」
「移るって」
誰も「移る」と断定していない。断定していないから言える。断定していない言葉ほど、責任を持たない。責任を持たない言葉ほど、自由に刺さる。
九条は酸素マスクの内側で、短く息を吸った。吸うときに胸が鳴る。鳴った音が「そうだ」と返事をしているみたいに聞こえる。自分の身体が勝手に肯定しているようで、怖かった。
隊員がストレッチャーを近づける。九条の腕を取る手は慣れている。慣れている手ほど、例外に弱い。例外が怖いのではない。例外に触れた瞬間、手が「責任」を意識するのが怖い。
「家族は」
隊員が周囲に問う。誰も答えない。代わりに「医務院の人」と言う声が上がる。「医者なら」「監察医なら」。役が増える。役が増えると、救う側の目が変わる。目が変わると手が変わる。手が変わると秒が変わる。
九条はストレッチャーに乗せられた。シートベルトの締め付けが胸を圧迫する。圧迫が苦しいのではない。圧迫が「拘束」に似ているのが苦しい。
救急車へ運ばれる間、周囲のスマホが一斉に動いた。画面が光る。光る画面が、九条の顔を拾う。拾われた顔は、後で切り抜かれる。切り抜かれた顔は、別の文脈に置かれる。置かれた瞬間、病人ではなく物語の登場人物になる。
九条は、説明したくなかった。説明のために生きていない。生きているから説明される。説明されるから、生きていることが武器になる。
*
真壁彰のスマホが鳴ったのは、署の廊下だった。夜勤の合間に自販機でコーヒーを買い、紙コップの熱が掌に残っていた。呼び出しの表示は医務院の当直番号だった。
嫌な予感は、当たるときほど音がしない。真壁はコップを捨てる前に通話に出た。相手の声は要点だけだった。「九条先生が倒れました。救急搬送です」。倒れた、という言葉が胸を刺す。倒れたのは九条に似合わない。似合わないことが起きたときほど、周囲は騒ぐ。騒ぐと、九条は喋れない。喋れないと、誰かが代わりに喋る。
真壁は走った。走りながら考えた。処置は救急隊がする。自分ができるのは別だ。現場で必要なのは止血ではない。情報の出口だ。出口を握らないと、命とは別のものが先に死ぬ。
救急車が停車している場所に着くと、すでに人だかりができていた。駅前。コンビニの灯り。さっきまで「生活」だった場所が、事件の顔になる速度を真壁は知っていた。規制線がない現場ほど危険だ。誰でも近づける。誰でも喋れる。誰でも撮れる。
救急隊が搬入を終えようとしている。九条の顔が見えた。酸素マスク。半分閉じた目。意識があるか分からない。だが九条の手だけが吸入器を握りしめている。握っているという事実が、本人の抵抗に見えた。
真壁は救急隊のリーダー格に近づき、低い声で言った。
「家族じゃない。知人だ。本人の氏名、ここでは言わないでくれ」
隊員が真壁を一瞬見て、判断した。警察手帳は出していない。刑事だと言えば場が余計に燃える。燃えると撮られる。撮られると線が増える。真壁は手帳を出さずに、視線だけで「頼む」を伝えた。
隊員が頷く。頷きは短い。短いほど信用できる。信用できる短さがある。だがその短さは、周囲には「隠蔽」に見える。
「隠してるんですか」
誰かが言った。「なんで名前言わないの」「有名な人?」。その問いの形が、すでに答えを決めている。答えを決めた問いは止められない。止めようとした側が悪者になる。
真壁は周囲を見回した。スマホ。スマホ。スマホ。レンズの黒い穴が、九条を覗き込む。覗き込む穴の数だけ、九条の呼吸が細くなる気がした。真壁は言った。
「撮影やめてください。救命の邪魔です」
正しい言葉だった。正しい言葉ほど届かない夜がある。届かないのは、言葉が間違っているからではない。相手が「邪魔をしていない」と信じているからだ。信じている善意は、悪意より厄介だ。
「訳あり?」
「画像から検索してみたら?」
「SNSに上げたら誰か知ってるかも」
「右に心臓がある人って、ここで確認したほうが」
右。出た。真壁の背中に冷たいものが走る。右という単語は短い。短い言葉ほど持ち運びが簡単で、拡散が速い。速いものは戻せない。戻せないものは確定の顔をする。
真壁は隊員に近づき、耳元で言った。「病歴は搬送先で。ここでは要らない」。隊員はうなずく。正しい判断だ。正しい判断が、周囲には「隠した」に見える。隠したと思われると、追いかけられる。追いかけられると線が増える。線が増えると九条が燃える。
九条が目を開けた。開けた目が真壁を見た。ほんの一瞬だけ、助けを求める目に見えた。その目が「やめて」とも言っているのが真壁には分かった。やめて、は説明の拒否だ。説明の拒否は、命のために必要な拒否だ。だが拒否は、外側には「怪しい」に見える。
真壁は九条の手に触れた。握りしめた吸入器が硬い。硬いものを握ると指が白くなる。白くなった指が、昔の記憶を引っ張る。中学の夜道。街灯。告白。「生き残りです」。九条の言葉を、真壁は今でも反射で拒む。「信じない」。信じないことで守る夜がある。
守る夜が、救急車の脇にあった。
*
救急車内は狭い。狭い空間で、確認は増える。増える確認は救うための確認だ。だが今日の確認は別の顔をしている。救命に必要な情報と、野次馬が欲しい情報が同じ扉から入ってくる。扉は一つしかない。扉の前に人が群がると、救う手が詰まる。
隊員が問う。「喘息ですか」。九条はうなずいた。声は出ない。吸気が短い。ネブライザーが装着され、霧が口元を濡らす。薬剤名を言えと言われたら言えない。言えないことが怖い。言えないことが、外側には「隠している」に見える。
「お名前、もう一度」
九条は唇を動かした。「九条」。今度は辛うじて音になった。隊員が復唱する。「クジョウさん」。復唱は必要だ。必要な復唱が、外側の復唱に繋がる。外側の復唱は見出しに繋がる。見出しは人を殺す。
救急車が動き出した瞬間、外からスマホの光が追いかけてきた。追いかけてくる光は、救急車の窓ガラスに反射し、車内の誰の顔も一瞬だけ白く映す。白く映った顔は、切り抜きに都合がいい。都合がいいものから使われる。
隊員がカルテ用の紙に何かを書きながら言った。「既往歴に、何か特殊なものは」。特殊。言い換えれば例外。例外を言葉にした瞬間、例外は物語の鍵になる。鍵になった例外は、救命のための情報ではなく、噂の確定証拠になる。
真壁は唇を噛んだ。言わせたくない。言わせなければ、救命が遅れる可能性がある。遅れれば命が危ない。命が助かっても言えば別のものが死ぬ。どちらが大事かという話ではない。大事なものが二つあるとき、手順は増える。増えた手順は秒を奪う。
隊員は続けた。「心臓の位置に関して、申告はありますか」。隊員の口調は淡々としている。淡々としているのが救急だ。淡々としているから恐ろしい。淡々とした確認は、後で淡々と切り抜かれる。淡々と切り抜かれたものは「本人が言った」に変換される。
九条の目が半分閉じた。意識が薄い。薄い意識は、判断より先に答える。答えるとき、言葉は短くなる。短い言葉ほど強い。
真壁が言いかけた。「それは――」と言いかけて止まった。止めたのは隊員が悪いからではない。止めれば、また別の物語が立つ。「警察が止めた」「隠している」。隠蔽という単語が、救急車内へ侵入する。侵入した瞬間、救命は裁判になる。裁判になると手が遅れる。
九条の唇が動いた。息が擦れる音の中で、短い音が落ちた。
「……右、です」
それだけだった。医療のための情報だった。救命に必要な情報だった。なのに真壁は、その一言が空気の質を変えるのを感じた。隊員が「了解」と言い、紙に書く。書く動作は当たり前だ。だが当たり前の動作が、証拠を作る。証拠は説明責任を呼ぶ。説明責任は人を縛る。
九条は言ってしまった。言ってしまったことに気づいているのか分からない。分からないのに、言葉だけが先に外へ出ていく。救急車は走る。走りながら、車内で作られた情報が、車外で増殖していく未来が見えた。
真壁は窓の外を見た。見ても暗い。暗いのに、そこに無数の画面が浮かぶ気がした。見出し。短い動画。切り抜き。コメント。善意。恐怖。攻撃。どれも主語がない。主語のない言葉は止められない。
救急車が病院の搬入口へ滑り込む。扉が開く。冷たい空気が流れ込む。病院の蛍光灯が九条の顔を白く照らし、真壁の影を床に落とした。影は伸びる。伸びた影は、別の誰かに踏まれる。
真壁は九条の手を見た。吸入器をまだ握っている。握っているのに救われない夜がある。救われないのは命の話ではない。命が救われても、言葉が救われない夜がある。
九条の胸が上下する。苦しそうに、だが動いている。動いているのが、いちばん危ない。生きていることが材料になるからだ。材料になった生は、物語の中で殺される。
廊下の先で、誰かのスマホが震える音がした。振動は小さいのに、やけに耳に残る。通知。誰かが今この瞬間、文字にしている。ここで起きていることを、別の場所へ運ぶために。
真壁は遅れて、はっきり理解した。救急は右を見ない。見ないでいなければ救えない。だが世間は右しか見ない。右を見た瞬間から、救う手を裁く言葉が増える。増えた言葉が、命より速く走る。
九条が息を吸った。吸った息が、かすかな音になった。音が言葉に似ていた。言葉に似た音が、また何かを確定させそうで、真壁はその音を遮りたくなった。遮れば、遮ったという物語が立つ。立った物語は、九条を燃やす。
だから遮れない。
救命の扉が閉まりかける。真壁はその手前で立ち止まった。ここから先は、命の現場だ。自分が入れば、別の現場ができる。別の現場ができれば、切り抜かれる。切り抜かれれば、九条の「右です」が、病歴ではなく鍵になる。
扉が閉まる寸前、看護師が隊員のメモを受け取った。ちらりと見えた文字列の中に、たった二文字があった。
右。
それが、宣告に見えた。
そして真壁の頭の中に、章題が勝手に浮かぶ。説明ではない。未来の見出しの形だ。誰かが必ず、その二文字を使って物語を完成させる。完成した物語は、壊す側を悪者にする。
真壁は廊下の白い床を見つめた。白さは清潔のためにある。だが白いものは、汚れがよく目立つ。汚れが目立つから、誰かが喜ぶ。喜ぶ誰かが、また言葉を増やす。
扉が閉まった。
残ったのは、生活だけではなかった。残ったのは、言葉のために開いた扉だった。救うために開いた扉と同じ扉が、覗き見のためにも開いてしまった。
そして一度開いた扉は、閉めたつもりでも、鍵穴が残る。鍵穴が残れば、誰かが覗く。覗いた誰かが、「見た」と言う。「見た」は次の「信じた」を生む。「信じた」は、次の犠牲者を探す。
スマホの震えが、遠くの誰かの生活を、今夜のここへ引き寄せる合図に聞こえた。
*
数日、何も起きなかった。終わったように見えるだけで。
夜の移動は、いつも説明を連れてくる。説明を連れてこない移動を選べるなら、それは贅沢だ。九条は贅沢を選べないまま、帰路に戻っていた。
駅までの道で、スマホが一度だけ震えた。通知ではない。着信だ。画面には二階堂壮也の名前。九条は一瞬迷い、出た。
「はい」
受話口から聞こえる二階堂の声は、いつも通り落ち着いている。
「九条、今帰り?」
「はい」
「今日は、静かだな」
二階堂は「静か」を評価しない。評価すると、その言葉が別の意味を持ち始めるからだ。
「通過です」
九条が言うと、二階堂は短く息を吐いた。笑いではない。
「そうそう。成功じゃない。通過」
二階堂の言葉は冷たいのに、九条は救われる。冷たい言葉は、熱を煽らない。熱を煽らない言葉が、今は正しい。
「真壁は、無事だ」
二階堂が付け足す。
「無事、という言い方は危険です」
九条は反射で返し、すぐ自分に嫌気が差した。二階堂は、そういう反射を責めない。
「分かってるって。でも一応、伝えたかった」
九条は「ありがとう」と言いかけて、やめた。感謝が物語になるのが嫌だった。代わりに言った。
「……お願いします」
何を、とは言わない。言えば形が生まれる。形が生まれると、誰かが利用する。二階堂は短く答えた。
「見張っとく」
電話はそれで終わった。余計なやり取りがない。余計なやり取りがない関係は、長持ちする。
改札を抜け、マンションへ向かう。夜の道は、昼より音が少ない。少ない音は、内側の音を大きくする。内側の音の中で、九条は自分の鼓動を意識した。意識すると鼓動は強くなる。強くなると不安が増える。不安が増えると、呼吸が浅くなる。九条は不安の連鎖を断ち切るために、足元のアスファルトの粒を数えた。粒は数えられない。数えられないものを数えようとする行為は、頭を黙らせる。
エントランスのガラス扉に映る自分の姿が、街灯の光で薄く歪む。歪んだ姿は、別人のように見える。別人のように見える自分が、ここ数日で増えた。記事の中の自分。動画の中の音。関係図の中心の点。宗教二世という曖昧なラベル。呪いの少年という陳腐な名前。どれも九条雅紀ではない。なのに、九条雅紀の顔を借りる。借りられた顔は、返ってこない。返ってこないものを、どうやって取り返すか。九条は今夜も答えを持たない。
エレベータで自分の階へ上がり、廊下を歩く。昨夜、置き石があった場所を無意識に見た。そこには何もない。何もないことが、怖さを消すとは限らない。何もないことは、何かが片付けられた可能性にも見える。可能性は、物語の栄養だ。九条は足を止めずに通り過ぎた。止まると、そこに意味が生まれる。意味は、後で自分を縛る。
部屋に入り、鍵を回す。内鍵を掛ける動作が、今日ほど重い日はない。鍵は安心の道具だ。安心は油断の入口だ。九条は安心しないまま、照明を点けた。部屋の中は昼に出たときと同じだった。同じであることが、守りになる。同じであることが、ここ数日でこんなに強い武器になるとは思わなかった。
ジャケットを脱ぎ、椅子に掛ける。キッチンで水を飲む。水は冷たい。冷たいだけだ。冷たい水に、呪いも宗教も入っていない。九条はコップを置き、リビングの床に座った。椅子に座ると、背筋が仕事の形になる。床は生活の形だ。床に座るのは、生活を取り戻すための儀式に近い。儀式、と呼ぶとそれもまた物語になるから、九条はただ「座った」と自分に言い聞かせた。
呼吸は整っている。
数値も、医師としての自己判断も、正常を示している。
それでも九条は、すぐに胸に手を当てなかった。
当てれば、位置を確かめてしまう。
確かめた瞬間、ここまで積み上げてきた「説明」が、音を立てて崩れる気がした。
右か、左か。
それを迷うようになった時点で、身体はもう、自分のものではない。
胸に手を当てる。白衣の上ではなく、シャツの上から。右だ。右にある心臓が、規則正しく打っている。規則正しいことに安心しない。安心すると、乱れたときに絶望が増える。増えた絶望は、また誰かに拾われる。九条はただ、打っていると確認した。確認は事実だ。事実は、意味ではない。意味ではないものが、今夜の九条を生かす。
ふと、真壁の言葉が思い出される。説明しない。壊す。真壁は言葉を選んだのではない。言葉を削った。削った言葉の端が鋭くて、九条の胸に刺さった。刺さった痛みは、嫌ではなかった。嫌ではない痛みがあることが、九条には怖い。怖いが、否定しない。否定すると話が増える。増えた話は、九条をまた中心へ戻す。中心に戻ることは、もう耐えられない。
九条は、自分に何が起きていたのかを考えなかった。
考える必要がなかった。
考えていたのは、なぜ人は“呪い”という言葉を必要とするのか、ただそれだけだった。
机の上に置いた郵便物を確認する。広告、請求書、役所の通知。匿名の手紙はない。ないことを喜ばない。喜ぶと、ある日に崩れる。崩れた喜びは、また意味になる。九条は淡々と郵便物を仕分けし、封筒の角で指を切らないように注意した。指を切ると血が出る。血が出ると、また物語が血を好む。血は、人が一番好きな色だ。好きな色は、すぐ拡散する。
夜が深まるにつれ、静けさの種類が変わる。昼の静けさは社会の音が消えた静けさだ。夜の静けさは、自分の中の音が増える静けさだ。九条は呼吸を数えた。吸って、吐く。二回、三回。昨夜ほど慎重にはしない。慎重にすると、慎重であることが意味になる。意味は、今日はいらない。
ふと、スマホが震えた。今度はメッセージ。真壁からだった。内容は短い。
帰ったか。
九条は返事を打ちかけて、止めた。返事をすると、会話になる。会話は記録になる。記録は誰かに奪われる。だが、返事をしない沈黙は、過去に何度も九条を追い詰めた。沈黙が守りではなくなる瞬間を、九条は知っている。今夜、返事をしないことは抵抗ではない。臆病に見える。臆病は悪いことではない。生きるための形でもある。けれど真壁に対して臆病でいるのは、違う。違う、と感じる自分が、九条にはまだ新しい。
九条は短く打った。
帰宅しました。問題ありません。
問題ありません、という言い方が嘘に聞こえた。問題は山ほどある。ただ、今日の問題は「息ができない」ではない。その差が大きい。真壁からすぐ返事が来た。
了解。寝ろ。
寝ろ、という命令のような言葉が、なぜか優しく響いた。優しさは危険だ。危険だが、九条はその危険を今日は拒まなかった。拒むと、自分が生きる側へ戻れない気がした。
照明を落とし、カーテンを閉める。暗い部屋で、九条はもう一度だけ胸に触れた。右だ。右にある心臓は、今日も打っている。打っていることに、理由はない。理由がないから、奪われにくい。奪われにくいものが、人を生かす。九条は目を閉じた。目を閉じても、物語は消えない。だが、物語が続けられない静けさがある。続けられない静けさの中で、九条は呼吸を吸い、吐いた。
目を閉じたまま、九条はスマホを枕元へ戻した。画面が上を向いたままだと、光が天井に反射して眠りが浅くなる。彼はそれを避ける癖がある。
反転した画面は暗い。通知は表示しない設定にしている。戻したはずだ。
それなのに、机の上で端末が一度だけ震えた。音はない。振動だけが来る。
九条は手を伸ばさずに、ただ視線だけを向けた。光っていない画面のはずなのに、黒いガラスの内側で、文字の形だけが先に浮かんだ気がした。
——九条。
誰も開いていないのに。誰も呼んでいないのに。
九条は呼吸を整えたまま、ゆっくりとスマホを裏返した。裏返した瞬間、震えは止んでいた。画面には何もない。履歴もない。通知もない。
なのに、手のひらには、さっきの名前の輪郭だけが残った。
残った輪郭は、消えない種類のものだった。
——まだ、生きている。
それだけが、今夜の事実だった。
心臓は今日も脈を打つ。
(了)
読んでくださってありがとうございます。
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