異性の友達(1)
講義室の窓から、校舎そばに植わった木々が見える。すっかり橙に染まりきった葉が、校舎のレンガ壁をバックに揺れている。
「この時間、1週間の中でいちばん眠なると思うんやけど」
「わかります。いちばん体力使うのって、実は金曜じゃなくて木曜なんですよね」
「それなー」
隣の席で、伊波くんが大きなあくびをした。
共通講義棟2階の第3講義室。木曜3限は『日本美術史』が開講されている。
絵画、彫刻、書道、工芸、日本庭園などの様式美から、近代では漫画やアニメにいたるまで、日本国内における『芸術』について広く扱う――と、シラバスには書いてあった。
全学部共通の講義で、100名ほど収容できる講義室の8割近くが埋まっているところを見るに、受講者数としては少なくない。必修講義ではないが、卒業時に必要な単位数に含めることのできる選択講義――いわゆる『取っても取らなくてもいい講義』である。1年生は必修講義が比較的多いのでそちらを優先する学生が多いのか、同じ学科の1年生は、俺しか受講していない。
——と、思っていたから、さきほど講義室の前で伊波くんにばったり出会ったときにはさすがに驚いた。あまり芸術とかそういうものに興味がなさそうだと勝手に思っていたのと、彼がよく一緒にいる友人――俺も同じクラスだが名前は忘れた――と連れ立っている風でもなかったので、まさか伊波くんがこの講義を受講しているとは思わなかった。
伊波くんは同じ学科の1回生、つまり同じクラスの人なのだが、夏頃まであまり話すことがなかった。夏休みのとあるアルバイトで彼に助けてもらうことがあり、そこからたまに話すようになったという経緯がある。
あくびを連発する伊波くんが、筆記具と紙の束を取り出しながら言った。
「俺さぁ、この講義、間違えて取ったやつやねん」
「え、そうなんですか」
「おん、あの・・・・・・いろいろ書いてある講義一覧みたいな・・・・・・シラバス? ってやつ。あれ見て履修登録してんけど、間違ってこの講義登録したんをさ、消してなくて」
「それで、そのまま確定されてしまったと」
「そやねん」
やってもたわーと嘆いてはいるが、彼の取り出した紙の束はどうやらこれまでに配られたレジュメのようで、初回から休まず出席しているらしいと分かる。出席しなくても単位を落とすことになるだけで、無理に出ることもないと思うが、『せっかく登録したんやし、漫画とかアニメのとこは面白そうやから』ということで、講義には出席しているらしい。講義が始まってからも、時折首をひねりながらも真剣にメモを取っていて、やはり見かけによらず真面目な人なのだなと再確認した。
4限は同じ講義を取っていたので、伊波くんと連れ立って移動する。
「真北くんって、美術とか興味あるん?」
「たまに美術館とか行くぐらいで全然詳しくはないですけど、絵を見たりするのは割と好きです」
「ふーん。俺、美術館って、家族旅行とかでしか行ったことないんやけどさ」
「はい」
「解説つきやったら結構楽しめるんかもーって、先生見てたら思うわ」
先生、というのは『日本美術史』を担当する片山先生のことだ。もともとは平安絵巻に興味があっただけらしいが、今では他の時代のものや工芸品まで幅広く、相当な知識を持ち合わせるまでいっているらしい。生粋の芸術オタクだ、というのが先生の口癖で、軽妙な語り口で具体的な例を踏まえつつ解釈について説明してくれるので、いつも夢中で聞いてしまう。
「あー、たしかに。俺もこの講義受けるようになってから、絵とかの見方変わったかもです」
「あの先生は平安絵巻やけど、真北くんは、好きな時代? とか作者? とかってあるん」
分からないと言いつつも、話題をつなげてくれる。決して無理をしているわけではなさそうなところが、伊波くんのすごいところだ。
「そうですね・・・・・・浮世絵とか?」
「浮世絵・・・・・・あ、来週の講義でやるって言うてたやつ? どんなん?」
どんなのか、と言われると説明が難しい。知識を総動員して、頭の中に富岳三十六景や見返り美人図を思い浮かべる。
「えっと、山とか海とかの絵が多くて」
「ほおほお」
「風景の中に人が描かれてることも多いですね。あとは、人の顔とか全身図とか」
「んん」
「それから・・・・・・色が、ついてます」
決して嘘は言っていないが、説明がひどすぎる。伊波くんも同じ感想を抱いたのか、プハッと吹き出すように笑った。
「・・・・・・ごめん、全然イメージ湧かへんわ。作者名とかは?」
「いろんな人が描いてたと思いますが、たとえば葛飾北斎とか」
「ああ! 大波がザッパーンなっとるやつな!」
伊波くんの顔がパッと明るくなる。伝わったのか、北斎。
「そうか、来週浮世絵かぁ・・・・・・」
ほくほくした様子で言ったあと、「あ」とつぶやいて伊波くんの顔が再び曇った。
「どうかしましたか」
俺の問いに、眉間にしわを寄せて伊波くんが答える。
「来週、出られへんの、忘れとった」
彼いわく、来週はおじいちゃんの一周忌だそうで、実家に帰らないといけないらしい。伊波くんは京都府出身だと何かの話で聞いていたが、ずっと北の方――海があるような地域――が地元なのだそうだ。彼の地元も相当な田舎で、人口流出と高齢化が問題になっているようなところらしい。
「人手が足りんから帰ってきて手伝ってくれーって言われてさ。なんやよう知らんけど、近所の人らも来るからって。ほんまイヤやわ」
そういった類の話には俺にも覚えがある。俺の地元にも、冠婚葬祭にはご近所同士で協力し合う風習が残っている。単に、昔からのしきたりをやめるタイミングを失っているだけな気もするが。
「田舎あるあるですね、それ」
「あー、真北くんも田舎出身って言うてたもんな」
「俺も高校の頃は、葬儀の受付を任されたり来る人をさばいたり、手伝いさせられてました」
ほとんど諦めた様子で天を仰ぎ、伊波くんが悲壮感に満ちた声を出す。
「大学から呼び戻されてまでさせられるとは思わんかったわぁ。来週の半分ぐらいは講義も休まんなんし」
法事を手伝わなければならないことと、そのせいで講義に出られないことに対して、彼は嘆いているようだ。
何度も言うが、やはり伊波くんは真面目だ。夏には明るい金髪だったのが今は夕焼けのような朱色に変わり、左右の耳にはカラフルなピアスが付いていて、パチンコ屋の前でタバコをふかしていそうな風体ではあるが、無闇に講義を休むようなことはしたくないらしい。
「あの、よかったら来週のレジュメ、コピーとって渡しましょうか」
俺は、重そうな足取りで歩く伊波くんに向かって口を開く。さすがの伊波くんも、俺の他にあの講義を履修している知り合いはいなさそうだし、夏休みのバイトでの恩義もある。もっとも、自販機のジュースと、その日の昼食・夕食を全部俺がおごったので、恩返しは十分にしたつもりではあるが。
真面目で素直、その上気さくに話せる伊波くんは、自然と助けの手を差し伸べたくなるような空気感があった。ついでに、田舎出身であるところにもシンパシーを感じた。
「マジで!? それめっちゃ助かる!」
伊波くんがくるりとこちらに顔を向ける。俺が天使か何かにでも見えているかのような顔で礼を言い、「ついでに解説もお願いします、真北先生」と仰々しい仕草で頭を下げた。ゆるくパーマのかかった前髪の下から、人懐っこい笑顔がのぞく。
どうにも俺は、南羽さんにしろ伊波くんにしろ、表情がくるくると変わりやすい人によく縁があるようだ。そんなことを思いながら、俺は伊波くんからの申し出を快諾した。




