新人アルバイター、真北くん(2)
記念すべき人生初のアルバイトは、市民プールの監視員だった。
派遣された先は屋外プールだった。暑いというただ一点を除けば、体力的には比較的楽な仕事だ。それに、暑さ対策として何かと手厚い補助が用意されていた。仕事中にとる水分や首元にまく冷却タオルのようなものは全て支給されたし、こまめに持ち場の交代があって日陰で作業することも多かった。
プールサイドを巡回して、利用者の動向に目を配る。危ない遊び方をしている子どもがいないか、溺れたり体調を崩したりしている人がいないかを見回る一方で、ゴミや落とし物があれば適宜回収するなど、環境維持につとめる業務もあった。万が一、有事の際には忙しいのだろうが、基本的には決まった業務を問題なくこなすだけだった。実際何度かシフトには入ったが、俺が知る限りで何か問題が起こったという話は聞かなかった。
何度目かのシフトに入ったときのことだ。プールサイドの巡回中、日陰下のベンチに何かが置かれたままになっていることに気がついた。拾い上げてみるとそれはフェイスタオルで、全面に女の子のキャラクターのイラストがプリントされている。小さな女の子の忘れ物だろうと容易に察しがついた。
バイトの規則に従って、総合窓口へ届けようと振り向いたときだった。
あっ、と小さく息を呑むような声がした。
小学校低学年ぐらいの女の子が、こちらを見上げていた。俺の手元を見ていた女の子は俺と目が合うと、わずかに体をかたくしたように見えた。
「・・・・・・あぁ、もしかして、これはあなたのですか?」
女の子にタオルを差し出しながら、教科書の例文のようなセリフを投げかける。普段敬語で話しすぎているせいで、自分よりずっと年下相手でもついこんな口調になってしまう。
「あ、あの・・・・・・」
女の子は体の前で両手をぎゅっと握り、俺と目を合わせたままひかえめに後ずさりした。
「あっ、ちょっと待って――」
とっさに俺も一歩前へ進み、つい彼女へ近づく形になってしまった。ほんの一瞬だったが、女の子の瞳に、不安とか焦りとかそういった色が映ったように見えて、伸ばしかけた腕の動きが止まる。
そのとき誰かが女の子を呼ぶ声がして、女の子は金縛りがとけたようにそちらを振り向いた。女性がこちらへ向かってパタパタと小走りでやって来る。女の子がサッと女性のかげに身を隠し、こちらを伺うようにそっと顔を出す。
女性は女の子の様子と、俺がスタッフ用のTシャツを身につけていること、それから俺が手に持っているタオルを見て状況を理解したらしく、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。その・・・・・・大きい男の人にびっくりしたんだと思います」
「いえ、こちらこそ。えっと、これはその子の・・・・・・?」
「あぁ、どうもありがとう」
俺が差し出したタオルを受け取って、女性が女の子に「ありがとう、は?」と促すが、女の子は女性の後ろに隠れたままで顔を見せようとしない。
おそらく、俺の無表情ぶりが怖かったのだろう。そう思ったが、気を遣ってあえて言わないでくれた女性に悪いなと思い、すみません、と曖昧に返すことしかできなかった。
女性と女の子の背中を見送りながら、ふと南羽さんの顔が脳裏によぎる。
・・・・・・南羽さんのように朗らかに笑えていたら、小さな子を怖がらせずに済んだのだろうか。
プール監視員のアルバイトの傍ら、引っ越し手伝いのアルバイトにもしばしば顔を出していた。夏の引っ越し作業は臨時のアルバイトを雇って、とにかく人海戦術で乗り切るしかないらしく、体力と機動力のある人材をかき集めるのに、大学の力を借りるのは大いに役立つのだと、社員の男性が教えてくれた。
炎天下、猛暑を通り越して酷暑と評される日の引っ越し作業。その過酷さは言わずもがなで、移動の車内を除けば、俺たちは一日中サウナのような環境の中にいた。
高価なものや重い家具などは、プロである社員を中心に運び出され、それ以外の比較的軽い荷物や段ボールの運搬が、俺たち大学生の主な仕事だった。そうは言っても真上から照りつける太陽は容赦なく肌を焼く。意識的に摂取した水分も、すぐに汗となってユニフォームを濡らすばかりだった。
作業量が目に見えて分かるだけに、働いた実感は得やすかった。ただその分、暑さによる疲労も、知らず知らずのうちに溜まっていたのだろう。
ある日の作業中に、俺は立っていられないほどのめまいを起こしてしまった。
顔が火照り、全身がだるい上に、頭もボーッとする。何より、足下がひどくふわふわしていて、地面に足がついている感覚がない。というよりも、自分の足でないような気さえした。
結局、現場リーダーに促され、俺はトラックの助手席で休ませてもらうことにした。空調の効いた車内で、荷物が運搬されていく様子をただぼんやりと眺める。
不甲斐ないな。冷風に当たって、少しすっきりしてきた頭で考える。
暑さへの耐性と体力のなさ、誰かに迷惑をかけているという負い目、自分の状態や限界を正しく把握できていないことに対する情けなさ。そういうものがぐるぐると渦巻いて、弱ったところへさらに追い打ちをかけるように、自分の気持ちが落ちていくのが分かる。
俺はネガティブな感情を払うように、クーラーボックスからスポーツドリンクを取り出して、目元に押し当てた。口から自然と深いため息がもれる。ひとまずきちんと頭を冷やそう。謝罪も反省も、それからだ。
結局、この日の作業はろくに手伝えず終わった。二つ折れになって頭を下げると、チームメンバーは「お互い様だから、気にするな」と言って俺の肩を叩いて帰って行った。現場リーダーの「また次も頼むな」という言葉に、いくぶん俺の心は救われた。
この日、俺は生まれて初めて夕食を「宅配」で済ませた。思い返せば、暑くて食欲がわかないからという理由で、ここ数日はひどく適当なものしか食べていなかった。体調を崩したのはそのあたりも関係しているのだろう。
脳内の南羽さんから、『だから言ったのに!』とお叱りの声がとんだ。気がした。
南羽さんなら何を選ぶだろう、と彼女との過去の会話を思い出しながら考えていたら、届けられたのは、蒸し鶏と豆腐の香味だれ和えと、夏野菜を中心とした炒め物という、栄養的にも見た目的にも充実したメニューだった。空腹と疲れによってできた隙間を埋めるように、俺は一心不乱に食べた。
手早く食事を終えると、ベッドに倒れるようにしてなだれ込む。
まるで深い湖の底に沈んでいくように、今日のことを振り返る暇もなく、俺は眠りに落ちた。




